3
「やっぱり、すごいですね。兄さん」
「そうだね。完成作品を見ることが出来て、本当に良かったよ」
数時間待ちで、人に押されて、流されて、やっとたどり着いた大神殿の「祈りの間」。
ハルアの傑作「暁の女王イラーナ」は、やはり涙腺を刺激されるほどに、壮大で綺麗だった。
ユラとトワ同様、絵を見上げ、ほうっと嘆息を漏らす鑑賞者が後を絶たなかった。
(それにしても、凄い人。心配しなくとも、人嫌いのハルア様は、ここにはいないでしょうし……)
絵画を見るために、入場規制が敷かれているほどだ。
ユラとトワもとてもではないが、長居できない。
一定時間を越えた途端、係員の指示で壁画からどんどん遠ざけられていってしまった。
「大盛況だねえ……」
「さすが芸術家「ハルア」様ですね」
きっと、これからも彼の名声は上がり続けるだろう。
もう既に高名にはなっているが、これから先、歴史に残る芸術家になるに違いない。
いつか……。
(何十年、何百年したら、こっそり一人で見に来よう……)
その頃には、大神殿ももう少し見やすくなっていることだろう。
感傷に浸ることくらいは出来るはずだ。
………………と。
「きゃああああ!」
けたたましい叫声にユラは、とっさに耳を押さえた。
何ごとかと思って、体に力を入れたら、なんてことはなかった。
命の危険があっての叫びではなかったらしい。
「今、ルフィア王子が到着されたんですって!」
「すごーい!? 何処にいるの?」
どうやら、ユラが初めてハルアと出会った日と同じ、ハルア目当てにやって来た女性の悲鳴のようだった。
「そうよね……」
いくら人嫌いとはいえ、国を挙げた式典に王子が来ない訳にもいかない。
(もしかしたら、ハルア様に頼まれて、ラトナ様が来ているのかもしれないわね……)
人々が大波のごとく、壁画の前から大移動していく。
当然、ユラはその流れを避けるように歩いていたのだが…………。
…………しかし、ユラは何かひっかかるものを感じていた。
「あれ、ルフィア王子……って?」
ハルアは自らがルフィア王子であることを知らせていないはずだ。
芸術家のハルアならともかく、偽物のルフィア王子を用意することなど出来るのだろうか?
「あら、貴方知らないの?」
隣にいた若い女性が興奮気味に話してくれた。
「芸術家ハルアは、第二王子のルフィア様だったのよー! 最近、第一王子が倒れられたでしょう。それで、第一王子の公務兼任の発表の席で公表されたの!」
「…………そう……なんだ」
(ハルア様、とうとう……)
王子であることを、国民に公表したのだ。
あの乱闘の際、イシャナは派手に立ち回った割には無傷だったはずだが、しかし、心の傷か、それとも、王の意思が働いてるのか、表舞台から姿を消しているらしい。
退いたイシャナの代わりに、ハルアが王子として、動くことになった。
それが事実であれば…………。
ユラの心臓がとくんと跳ねた。
(どうしよう? やっぱり、本物が来ているってこと?)
「…………おっとと」
動揺の余り立ち位置を間違えてしまったユラは、大量の人に廊下の方まで押しやられてしまった。
これでは、完全に迷子だ。
トワは何処にいるのか?
「……ルフィア王子よ!」
「凄い! 素敵だわー!」
とうとう、大衆が密集して身動きの取れない場所に、ユラははまりこんでしまった。
(勘弁してよ…………)
ユラは眼鏡をずらしながら、前の人の横から顔を出して周囲の様子を窺った。
廊下の先には、広大な中庭があった。
騒ぎの場所はここであるらしい。
大神殿完成の祝いの宴が、そこで催されているようだった。
王族と高貴な神官たちが広大な中庭で、酒を酌み交わしている姿が視界に入る。
ユラが一度だけ会ったことのあるイラーナ国王も臨席していた。
国民はそれを遠巻きに眺めながら、歓声を上げたり、激しく手を振っていたりした。
平和なイラーナでなければ出来ない式典のやり方だ。
無論、国民は立ち入ることが出来ないよう、兵士が厳重に取り囲んでいるが……。
「…………あっ」
しかし、ユラは見てしまった。
警備兵の肩越しに、小さく見えたハルアの姿を……。
最初、美術館で会った時、ラトナを囮に使ってまで、人を避けていた彼は、今、漆黒の礼服に身を包み、典雅な笑みを湛え、堂々と場の中心でグラスを傾けている。
いつも緩く結んだままの髪は、今日はしっかりと束ねられていた。
気品に満ちた堂々たる完璧な王子様だ。
やはり、彼には華やかな世界が似合っているようだ。
(これで良かったんだ……)
改めて、手の届かない存在だと吹っ切ることができた。
彼はイラーナ国の第二王子。ユラが小さい頃、夢に見た平和な国の王子様だ。
……夢は、夢だからいいのだ。
もし、人間としてユラが生きていたら、それこそ、ハルアと出会うことはなかったはずだ。
(きっとハルア様に出会えただけでも、私にとって奇跡だったのね…………)
ユラは口元に笑みを乗せて、自分を追ってきたトワを明るくうながした。
「さっ、帰りましょうか。兄さん。私、とても満足しましたから」
「ユラ……」
トワは何か言いたそうに、しばらくユラと見つめ合っていたが、少ししてから、大きくうなずいた。
「分かったよ。ここは混んでるし、早く帰ろう。さっきここの近道を聞いたんだ。僕についてきて」
「はい、兄さん」
ユラはトワの手を強く握った。
顔が熱くなった。
何だか、そわそわして落ち着かない。
ここには、ハルアがいる。
もしかしたら、人ごみの中でも、見つけられてしまうかもしれない。
(……そんなはずあるわけないのに、それを気にしてしまう自分がイヤだわ)
「ユラ、はぐれないようにね。ちゃんと案内してあげるから」
「お願いします。一刻も早く帰りたいんです」
「分かった。お前の期待に添えるよう、頑張るよ」
「ごめんなさい。兄さん」
神殿の構造をユラは知らないから、トワしか頼れる人がいない。
早く、ここから逃げ出したかった。
(早く早く……)
心臓がどきどきして、気持ち悪い。
一体、自分は何を望んでいるのか。
会いたくないと思いながら、何を期待しているのか…………。
「…………子供の時以来ですよね。こんなふうに兄さんと歩くのは」
ユラはおかしな自分を振り払うべく、平生を装ってトワに声を掛けた。
そんなユラの心情を知ってか知らずか、トワがくすりと笑う。
「そうだよね。昔、砂漠を越えようとした時以来じゃないかな?」
「あのときは、本当に死ぬかと思いました」
「お互いにね。最後に空を飛ぶ青い鳥を見たいって、ユラが言ったんだよね。覚えてる?」
「……ええ、とってもよく、覚えています」
――幸運を運ぶ青い鳥。
一度も本物を見ることはないだろうから、絵の中に探していた。
ハルアの絵に出てくる鳥が理想だった。
あの鳥を忘れたくなくて、絵に描いたら、ハルアにブタと言われてしまったのだが……。
――ひどい話だ。
だけど、今は、良い思い出になったような気がする。
「あと少しだよ。ユラ」
「お任せします」
トワと並んで暗がりの廊下を歩く。
色々と心配をかけた分、トワには孝行したい。
(ここを出たら、兄さんの行きたい所に寄ってから、帰ろうかしら?)
ようやく、そんなことを考える余裕が生まれてきた。
ずいぶん中庭から遠ざかったような気がする。
通行人がまばらになって、歩きやすいことにユラも気が付いていた。
それから、しばらく歩いていると、ついに誰も人がいなくなっていた。
「すごい。兄さん、この神殿にこんな近道があったんですね?」
関係者の通行路なのか?
入場する時も使えたら良かったが、多分、作品を見るためには列に並ぶ必要があったのだろう。
「あっ、そうだ。兄さん、ここを出たら何か……て? ………………あれ?」
――トワがいない。
「兄さん? ……何処ですか?」
今の今まで、手を繋いでいたはずなのに……。
正面の道は行き止まりのようなので、右手に続く道しか順路がない。
「……あのー、トワ兄さん。何処にいるんですか?」
近くにはいるはずだ。
ゆっくりと足を踏み出して行けば、そこは通路ではなく、大きな部屋だった。
部屋の中央に、画架に立てかけたままの絵が一枚だけ陣取っている。
廊下より明るいのは、四方が青に着色されたガラス窓に囲まれているせいだろう。
「…………あっ」
部屋の中央まで足を踏み入れて、ようやくユラはトワに仕組まれていたことを悟った。
絵に描かれているのは、赤髪のおさげ頭の少女の後ろ姿。
(…………私?)
少女は、空を仰いでいた。
そこには幸運の象徴、青い鳥が一羽、優雅に飛んでいる。
――青空と鳥。
彼女の立っている緑の大地と空の対比が美しく、壮大なのに、温かみのある絵だった。こんな絵を描くことの出来る人は、たった一人しかいない。
ふわっと差し込んできた淡い影に、人の気配を察して振り返った。
そこには、よく見知った灰色の髪の青年がいた。
「その絵、ユラちゃんにって……。ハルアから」
「ラトナ様っ!!」
おどけたその声がひどく懐かしい。
イシャナと会った時と同じ、仰々しい正装をきっちりと着込んだラトナは、にっこり笑うと、軽く手を振ってくれた。
「酷いな。僕の見舞いにも来ないで、帰っちゃうなんて。せめて一言、あっても良いよね」
出来れば会いたくなかった……なんて言えない。
ユラは慌てて笑顔を作った。
「その節はすいません。傷は治りましたか? フィンにも、謝罪するよう言ってはあるのですが……?」
「あははっ。傷はもう平気だよ。気にしないで。それに、フィンってさ、本来は猫なんでしょ? 猫の姿で謝罪されても可笑しいからね」
よほど、猫の謝罪が面白かったのだろう。
ラトナは、目尻に涙を浮かべて大笑している。
その笑声に、導かれるように、獣耳の少年がぱたぱたと走ってきた。
「ああっ! ユラさんっ!」
「ロカ君!?」
相変わらず、頭に白いターバンを巻いていたが、今日はよそ行き用なのか、中心に深緑色の宝石が輝いていた。
貴族然とした装いは、別れた頃より彼の雰囲気を凛々しく見せている。
「しばらく見ないうちに、大人っぽくなりましたね?」
「そんなことありませんよ。俺なんか、まだまだ子供で。ラトナ様から、ユラさんがもうここに来ないって聞いた時は、どうして自分には何もできなかったんだろうって、悔しくなりましたから」
「……ごめんなさい。色々と黙っていて」
「特使として集落に来てくれたトワさんからも、モーリス様からも、ユラさんのこと、色々と聞いていますが、でもやっぱり、俺、直にお話ししたいです。あちらの世界のこと色々と知りたいし、ユラさんに、お茶の淹れ方も教えてあげたいって思っていたから……」
「…………ロカ君」
ラトナが激しく咳払いをすると、ロカは思い出したかのように懐に手を入れた。
「あっ、そうでした。ハルア様から預かっていたんです。これを、ユラさんにって」
ロカが取り出したのは、卵型の木箱だった。
透かし彫りのいかにも手の込んだ箱を、つい勢いで受け取ってしまったユラは、餌付けされているような、複雑な心境で箱を開いた。
(一体、何なのよ……)
複雑な気持ちで開けた箱の中には、新品の眼鏡が入っていた。
「これは……もしかしなくても、ハルア様が?」
「はい。さすがに、レンズまでは作れなかったそうですが、フレームの加工はハルア様がされたそうですよ。瞳の色って隠すの大変そうですものね。ハルア様も苦心されたそうです。俺も耳隠すのに、ターバンが蒸れるから、ハルア様、作ってくれないかな……?」
ぺらぺらと日常会話に突入していくロカを前に、ユラは困り果てていた。
(何でまた? あの人は……一体、どういうつもりなのよ?)
ハルアが何を考えているのか分からない。
品物は素晴らしい。
軽い割に、装飾にこだわった格好いい眼鏡だ。
レンズは薄く、掛けてみると視界も綺麗に見えるのに、外側からは内側の色が分からないように工夫が施されている。
一体、どうやって作ったのか……。
(いやいや……)
興味を持ってどうするのだろう。
そもそも、こんな大層な代物まで貰ってしまったら、ユラは困ってしまうのだ。
本人は中庭で宴会中のようだし、何とかうまくこの場から去ってしまいたい。
トワはどこに行ったのか?
(だって、私…………)
「………………もう人間界に来ることなんて、ほとんどないのに……こんな」
苛立ちを込めて、ぽつりと呟いた。
それは返事を待たない、独り言だったはずだ。
…………けれど。
「そんなこと、言わないで下さい」
ぴしゃりと、その人は返してきた。
唐突に部屋の前から飛んできた声に、ユラは跳ねあがって、数歩後退する。
「どうして?」
懐かしいのか、怖いのか……。
愛おしいのか、逃げたいのか……。
「ハルア様…………」
ユラの心をか乱す犯人が、悠然とユラの背後に立っていた。




