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「ああ、酷いっ! あの一件から腰が痛くて仕方ないのに、労いの品、一つないわけ?」
「けっ。大体、鳥女は、体が重くなりすぎて、飛んでると体に負担がかかるんだろう?」
「何よ! 人型になるのが数時間やっとの猫に、私の体重のことを言われたくないわ!」
「お前たちは、気楽だな。私はエンラ様に、昔の悪行を知られていたということを知ってしまった恐怖で、夜も眠れないのに!」
「てめえはなあ、三千年以上生きているくせに、いつまでも、うじうじ気持ち悪いんだよ!」
「………………ほほほほうっ。今日も、元気じゃのう?」
「……はははっ。はいはい、そうですね」
大変賑やかな議場で、素晴らしいことだ。
暗い照明の下で、大猫と羽を生やした娘と、角の生えた男が立ちあがって、いがみあっている光景なんて、期待したって鉢合わせすることがないだろう。
(そうなのよね……)
これが本来の彼らなのだ。
ユラが意を決して行った「元人間宣言」も、ラトナとハルアを傷つけた償いも、すべて過去の物は、忘却し、毎日喧嘩を繰り返すだけの関係……。
最近、ようやくユラにも分かった。
真面目な顔をして、円卓を囲んでいたのは、本当の彼らではない。
ユラと同じく彼らも猫を被っていたのだ。
(猫が、猫被りねえ……)
三白眼で彼らの喜劇のような喧嘩を見守っていたユラは、隣のサクヤが自分を凝視していることに、遅まきながら気が付いた。
「何ですか?」
「お前さん、エンラからわしのことは聞いたのかね?」
「ああ、聞いちゃいませんけど、どうせ、貴方と父様が結託した部分もあるのでしょう?」
サクヤがいちいち、ユラに助言を与えたのは、エンラと打ち合わせしていた部分もあるだろう。ユラの気持ちを逆手にとって、あえてモーリスを扇動したのも、サクヤが裏で動いたせいだった。
――自分以外の八連衆は、エンラを尊崇していた。
あの言葉は、今にして思えば、彼なりの最大限の助言だった。
――エンラのもとにいた八連衆は、絶対にエンラを裏切らない。
その後継者のユラも本当に、エンラの血を継いでいると確信が持てたのなら、裏切るはずがない……のだ。
「雨降って地固まるじゃ。お前さんは若いからの。譲れないものが沢山あるんじゃろうが、肩の力は抜いて、適当にの。力ばかり大きな赤子が道を踏み外すと、大変なことになる」
「……意味がさっぱり分かりません。年を取ると言葉も不自由になるのでしょうか?」
「ほほっ。言葉の裏は読めんようじゃが、だいぶ、素が出るようになったの。それで良い」
(素? これが?)
これでも、ユラは結構、我慢している。
こんな不毛な定例会を聞いているのは、時間の無駄ではないか……。
(早めに切り上げよう……)
何とかお茶一杯を飲みきるまで耐えて、ユラは強制的に定例会を終了に持っていくと、議場を後にした。
最近のユラは、目が回るほど忙しいのだ。
エンラから引き継いだ領地を巡回することはさることながら、田畑を耕している天虚に協力してみたり、対立する領民の各々の主張を聞いて、折り合いをつけてみたり……。
今まで、エンラ直属の家臣がこなしていた仕事も、目を通したりしている。
寝る間も惜しんで仕事をするというのは、こういうことなのかと、いつも締切りに追われていたハルアと、話したい気持ちにも駆られていた。
(……いや、それは、いけないことだから)
彼のことを思いださないように、ユラは、わざと予定を詰め込んでいるのだ。それでは意味がないだろう。
「ユラ様……」
「ああ、マサキ。これを口に入れたら、巡回に出ますから、着物はこのままで良いですよ」
自室に戻ってすぐ、人間界の林檎のように真っ赤な果物を齧りながら、近隣の田畑の取れ高に関する資料を読み込んでいると、マサキが、すっとその資料を持って懐に隠した。
「あのー……。マサキ、私、それ、見ていたんですけど?」
「……ユラ様! 私の目をちゃんと見て言って下さい。最近、ちゃんと寝ていますか?」
「ええ。もちろん、寝ていますよ。私は雷帝ですからね。少し寝れば、足りてしまうみたいなんです」
「馬鹿な。そんなことあるはずないじゃないですか。以前は、一日寝ててもまだ足りないってぼやいていたでしょうに? 目の下の隈が決定的ですよ」
「そんなことありません。目の下に隈なんてありませんし、私は健康そのものですから!」
かっとなって言い返したら、マサキがあからさまに唇を尖らせていた。
「絶対、無理をしています」
断言されてしまった。
さて、どうしよう。
休めと言われても、ユラには何もすることがないのだ。
昔は美術鑑賞をするのが趣味だった。
……でも、今はは芸術品を見たところで、胸が痛くなるだけだ。
眠ることすら、怖くなってしまったのだから、どうして良いのか分からない。
(ひとまず、マサキを説得しないと……)
ただ仕事をしたいと言っているだけなのに、つくづく面倒臭い。
どうやって言い繕うべきか頭を悩ませていると……。
「ユラっー!!」
二人の間の微妙な沈黙を吹き飛ばすかのように、部屋いっぱいに陽気な声がこだました。
「兄さんっ!?」
「そうだよ! ユラ!!」
跳ねるように部屋に乱入してきたトワは、ユラとマサキに漂っていた緊張感を見事に破壊して、満面の笑みと共に、ユラの真ん前に立った。
「おはようございます。兄さん。調子はどうですか?」
「あのさ、寝ぼけないでね。ユラ。今、夕方だからね。調子が良いからこそ、僕はお前に頼まれた通り、今まで人間界に行っていたんじゃないか?」
「ああ、そうでした……ね」
ユラは当分イラーナに行く気はない。
だから、元気になったトワに、ロカの家庭のことを頼んだのだ。人間界でこのまま生活を送るか、天境界に来て一から出直すか……。
ハルアにばれないよう、ロカの実家に行くようお願いしていたのだが……。
「ロカ君とリエル君、それに、獣耳の皆さんの様子は、どうでした?」
「皆、元気だったよ。モーリスから謝罪の連絡が来たって。ユラのことも心配していたし」
「基本的に良い天虚ばかりでしたからね。あの集落は。それで、ロカ君の決断は?」
「彼は人間界に残るってさ、このままハルアの弟子でいて、いつか芸術家になりたいんだって」
「それは、素晴らしいですね。きっとあの方も喜ぶと思います」
「そうだね。それで、ロカ君の遠縁の何人かは、天境界に行きたいっていう話だから、色々と力になろうって、話をつけてきたんだけど……」
「もちろん、力になりましょう。早速、誰か手配します。今日は、本当にお疲れ様でした。兄さん」
「いや、礼はいいから。僕も、ロカ君やリエル君と沢山話すことが出来て楽しかったんだ」
「兄さんが楽しかったのなら、私も嬉しいです」
虚ろな気持ちで呟きながら、果物を食べ終えたユラはマサキの隙をついて、資料をもぎとった。
「あっ、ちょっとユラ様!」
「……と、そういうことで、私。行ってきますから」
「待ってよ、ユラっ!」
「兄さん…………」
予想通りと言わんばかりに、トワがユラの着物の袖を掴んできた。
やっぱり、着物は駄目だ。
がっしりと握られてしまっているので、逃げようがない。
マサキには、もっと動きやすくてつかまりにくい、他の正装を考えてもらいたかった。
「何ですか? 兄さん。陽が落ちる前に行きたいんですが?」
「ユラ。明日、イラーナで新しい大神殿が開放されるらしいよ。一般国民に無料開放だなんて、なかなか太っ腹なことをするよね。さすがだよね?」
「えっ。……そうですね。イラーナは、平和でさすがな国だと思って……います」
気持ちを押し殺して頷けば、自分でもびっくりするくらい、小声になってしまった。
「それでね。僕、ロカ君に招待されたんだよ」
「すごい。良かったですね」
「うん。是非、行こうと思うんだけど。ほら、人だらけだし、僕は病弱だし、神殿で倒れたら、厄介でしょう。誰か付き添って欲しいんだけど……な?」
「じゃあ、マサキに……」
「ユラっ!」
「ユラ様っ!」
二人同時に、怒鳴られてしまった。
「でも、私、明日も仕事があるので、行けません」
「以前のユラだったら、上手く調整をつけていたじゃないか?」
「そうですよ。何を自棄になっているんですか?」
「自棄になんて……」
「……どうして、ハルアを避けるの? ユラ」
トワの黄金色の双眸が真っ直ぐユラに向けられていた。
「神殿の壁画。「ハルア」の一世一代の大作だよ。行ったところで、ハルアに会うとも限らないんだし、せめて完成品、見てあげたって良いじゃない?」
「いつか、見に行きますから……」
「……嘘をつかないで」
そう結論づけると、トワはユラの手を取った。
かつて、ハルアが巻いてくれた包帯があった手だ。
あの白い包帯は、鏡台の引き出しの奥に仕舞ってしまった。
「神殿でハルアに画材の入った鞄返したでしょ。僕、その時、見ちゃったんだ。ハルアの持っていた画帳の中身…………。全部、ユラだったよ。あの人、ユラをずっと描いていたんだ。もちろん、壁画のモデルだからって言うのもあるだろうけど。……でも、あの絵のすべて、とてもユラが綺麗に描かれていたから……」
「そんなことを言われても……」
今更だ。
もう、ユラは二度とイラーナには行かないと心に決めていたのに……。
どうして、心を揺さぶることを言うのだろう。
(知っていたから……)
ハルアがユラの一挙手一投足を常に気にかけていたことは…………。
タルトを一口で食べるところが見たいなんて、変態だと思っていたけれど、彼の眼差しはいつもひたむきで、情熱的だった。
きっと、ハルアはその瞬間瞬間を惜しみながら、大切に絵の中に落としこんでいたのだ。
「ずっと見ていたいって言われたことはあります。壁画を描くためだったのでしょうけど」
「違うよ、ユラ! どうでもいい存在をずっと見ていたいなんて絶対に思わないから」
「……いやいや、どういう存在であっても、ずっと見られていたら気持ち悪いですよね?」
さらっと冷たく突き放したマサキだったが、揺れているユラの心の動きを察したのだろう。わざとらしい咳払いをした。
「でも、あんなに私が怒っても、貴方は人間界に行き続けたんですから。それをこんな形で絶ってしまうのは、どうかと思います」
「でも、あんまり深入りするのは……」
「いいから、ユラたんは、一度行ってきなさい!」
突然、背後の窓からエンラが飛び込んできて、ユラは目を回した。
「一体、何なんですか。父様?」
「このままだと、私が雷帝在位中に遊んでいるだけの王だったって、悪名が残ってしまうでしょうが。仕事の手を抜くんだ。ユラたん!」
…………ああ、そうだった。
(忘れていたわ……)
エンラとは、そういう王だったのだ。
この男がいるからこそ、あの八連衆がいるのだった。
――結局、その一言が決め手となった。
ユラがイラーナに行かない理由は、根こそぎ奪われてしまったのだ。




