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「…………今回は、大変なご迷惑をおかけしました」
「いえいえ、こちらこそ、あんな兄でも救ってくれて、有難うございました」
事件の後始末に追われていたハルアがようやく大神殿に姿を現したのは、夕刻近くになってからだった。
絶対に疲れているはずだった。
昨夜から徹夜で、今回の事件である。
しかも、ハルアはここのところずっと仕事で忙しくしていた。
人でないユラはともかく、人間であるハルアは動いているのもしんどいはずだ。
…………なのに、彼はその気配を微塵も見せない。
むしろ、溌剌として見えるのは、なぜなのだろうか……?
「でも、ハルア様、庭が壊れてしまいました。大神殿にも多少損傷が出てしまったようですし……」
「君のせいじゃないでしょう。壊したのは主に兄ですから。大体、もしも、君が収めてくれなかったら、今頃この国自体がなくなっていたかもしれません。……私は壁画が無事なら、それでいいんです」
「…………まあ、この作品が無事だったことは素直に嬉しいですが」
ユラは、ハルアが制作途中の大壁画を見上げた。
鮮やかな色彩で、壁一面に描かれたそれは、ユラの心を揺さぶる珠玉の一作だった。
間違いなく、今までハルアが造り上げてきた作品の中の代表作となることだろう。
(こんな素晴らしい作品を造っていたなんて……)
壁画の中央部分に大きく描かれた赤髪の女性。
長い髪は、砂塵の舞う風の中でうねり、自信に満ちた横顔には崇高さと威厳が溢れ出ていた。
………………完璧な女性像だった。
彼女は大剣を地面に突き刺し、何かを待っているようでもあった。
その双眸は遥か遠く、果てに描かれた一条の光に向けられている。
女王の格好は、イラーナ独特の純白のドレス姿であったが、しかし……
この人物はどう見ても……ユラだ。
(嬉しいけど、恥ずかしいな……)
ハルアが嬉々としていることも、こそばゆい。
彼の目に自分はこんなふうに見えているのかと思うと、頭から湯気が出そうだ。
「実は、私人物画は苦手なんです。いや……創作自体、好きというわけでもないのですが……。ただ、君のことはどうしても描きたいと思っていました。初めて会った時から……」
「……私は、こんなに綺麗じゃありませんよ」
「遠慮せずに、下手なら下手と言って下さいね。今なら描き直しも間に合いますから」
「いや。……その」
本音のつもりなのだが、ハルアは自虐の方に走っている。
何を言っても、彼の芸術家としての辛口自己評価にひっかかってしまいそうだった。
(…………もう、いいか)
ここまで完璧に造り上げられた作品に、難癖つける趣味はユラにはない。
「…………ありがとうごさいます、ハルア様。私を綺麗に残してくれて」
開き直ったユラはにっこり笑うと、本題とばかりにイシャナから回収した首飾りを、ハルアの手の中に強引に持たせた。
「これ、ハルア様にお返しします」
「しかし、これは……」
ハルアはあからさまに眉を顰めた。
「駄目ですよ。この首飾り……いや、この剣は、元々君の世界のものなんでしょう?」
「……元は父のものですが、でも押し付けるようで、申し訳ないのですが、天境界にあると、いらぬ争いの種になりそうなんで、あの笛の方は私で管理しますから。これは、ハルア様の手で人間界の何処かに置いてもらえないでしょうか?」
「つまり、これを君と二人で管理ということですか?」
「…………えーっと、まあ……そういうことになりますけど」
何だかよく分からないが、つまりはそういうことだろうと肯定すると、ハルアはあっけないほどさらっと承諾した。
「分かりました。私にまかせてください。また何かあったら、私と手を繋いで、一緒にどうにかしましょうね」
「……とりあえず、壊しましょうか?」
「そら恐ろしいことを……。これは君のお父上の物でしょう。壊そうとしたら、何か発動する仕組みになっていてもおかしくないと思いますけどね?」
「…………はい、それは否定できません」
ユラは溜息を吐いた。
…………天境界の面々はとんでもないことを思いつく魔物なのだと。
ここ数日のことで、思い知らされたはずだった。
「もう…………今回のような目に遭うのは、二度とごめんです」
「ええ、私も疲れるし、周囲も大変なので、本当に勘弁してほしいとは思ってますけど……」
「……ですよね」
がくりと肩を落としたユラとは対照的に、しかし、瞳を輝かせたハルアがきっぱりと言い放つ。
「…………でも、私は君と手が繋げて嬉しかった気持ちもあるのですよ」
神殿内部は音が響く造りになっているらしい。
嫌味なほどに、ハルアの声はよく通った。
…………無視できないほどに。
「………………はっ? たかが、手ですよ?」
「されど手です。私は君と手を繋いだ時、自分の感情を君に送ったんです」
…………あの短い時間で、そんなことを意図して実行していたなんて。
(八連衆も大概だけど、この人もこの人よね…………)
ハルアの言うとおり、彼の感情をユラは受け取っていた。
けれど、それは彼の無意識下でのものと思っていた。
……それに。
「私はただ、私の気持ちを落ち着かせるために、ハルア様が手を繋いでくれたんだと思っていましたよ」
「まさかっ!?」
ユラが一歩退けば、飛びかかってきそうな気迫で、ハルアは捲し立てた。
「あの状況で手を繋いだだけで、安心して集中できたら、君は異常です」
「…………そこまで、断言しなくとも」
「私は実験も兼ねて、君と手を繋ぎました。どうやら、手を繋いで集中すると、少しだけ私の気持ちも相手に送ることが出来るようなんです。…………だから、どんなだったか感想をもらえると、次回の参考になります」
「次回もあるのですか?」
「次回がないのに、実験なんてしませんよ。…………で、どうでしたか。ユラさん?」
「…………どうって」
ハルアがご褒美を待つ子犬のように、ユラを覗きこんでいる。
彼のひたむきな眼差しから逃げたくて、ユラはぎゅっと目をつむった。
「何だか、とても安心することができましたよ」
「……へえ、それと?」
「高揚感というか、温かなものがありました。……大方、そんな感じで」
「あれ? 他にも、色々と送ったはずなんですが。伝わりにくかったでしょうか?」
結構、貪欲に実験していたらしい。
彼にしては、珍しく落ち着かない様子で、そわそわしている。
先ほどの余裕が嘘のように狼狽していた。
それが面白くて、ユラは思わず吹き出してしまった。
「ハルア様、実は…………」
「あっ! …………やっと思い出しましたか?」
「一つだけ話しておきたいことがあるのです」
「一つと言わず、今なら百でも千でも、聞きますよ」
真摯な声ではあるが、軽い調子は冗談にも聞こえた。
益々、笑ってしまいそうだ。
緊張している時の彼が、わざとおちゃらけていることを、ユラはようやく気付いたばかりだった。
「……実は私。ザハードの出身なんですよ」
「………………えっ?」
唐突な告白に、ハルアは顔色を一変させた。
それは彼の能力を持ってしても、想定外の内容だったらしい。
「元々、人間で……。この赤髪と目の色は、天虚になって変化したものです。十年前、父が砂漠で行き倒れになっていた私たち兄妹を助けてくれたんです。人間を助けるなんて、例外中の例外だったそうですが」
「そう……だったんですか」
ハルアが険しい顔つきに改まった。
「それは、私も予想外でした」
あれほど強硬に、ザハードには、嫁ぎたくないと主張していた彼だ。あの国の内情をよく知っているはずだ。
「ハルア様、イラーナってね、ザハード人にとっては平和の象徴なんです。小さい頃、私と兄さんの憧れの国だったんです。もしかしたら、二人で力を合わせたら、砂漠を越えて行けるかもしれないなんて……。子供らしい浅はかな考えを抱いていました。そんな私たちを、何の得にもならないのに、父様は救ってくれたのです。私はその温かさに、救われたんですよ」
ユラは着物の汚れを払いながら、下を向いた。
ハルアの目を見て、すべてを話す勇気がなかった。
「私は、もう人ではありません。貴方も、やっぱりこの国の王子様なんだと思います」
「……つまり、私に、逃げるな……と、君は言っているのですか?」
「そんなことを言ったつもりはないですよ。むしろ、逃げまくっているのは、私ですから」
「なるほど。……で? 君はまた逃げるつもりなんですね?」
ユラはそれには答えず、口角をゆがめた。
笑おうとして、とうとう失敗してしまった。
すべて、ハルアには見抜かれてしまっている。……その自覚はあるのだ。
「……モーリスが貴方の命を狙うことはないと思いますが、注意しときます。それと、再三申し上げている通り、ハルア様が会いたがっていた父は、今行方不明中なんですが、見つかったら、きちんと貴方のことを伝えます。他にも諸々、迷惑をかけた分、手は尽くすつもりです。……だから」
「ユラさん」
「…………この壁画の完成が見られないのは、とても残念です」
そこまで真っ直ぐに告げると、ハルアは息をのんだ。
トワの姿を広間の出口に発見したユラは、最後に作品を目に焼き付けてから、逃げるように歩き始める。
…………が
「……まっ……待って下さい。ユラさん!」
隙を見せないよう早足になったつもりだったが、弾かれたようにハルアが追いかけてきた。
逃すまいと着物の袖を取られたので、ユラは止まるざるを得ない。
「……ハルア様」
「約束を破るつもりですか? ラトナにも、ロカ君にも会わずに……。もう来ないと?」
「その点はお気にせず、ロカ君とその集落のみなさんの事情については、モーリスから話を聞いて、必ず善処します。ラトナ様には私が謝っていたとお話し下さい」
「…………で? それで君は、二度と私に会わないつもりなんですか?」
その質問の答えだけは、口に出せそうもなかった。
…………この世界に長居することはできない。
大神殿を覆う竜巻。エンラの剣で人間界が荒らされているところを、ルーガに抱きかかえられて、空の高い所から目撃した。
……あの時に、ユラは決意したのだ。
不可抗力だったとはいえ、エンラの剣が暴走して人間界を破壊してしまったのは事実なのだから。
何より、雷帝であるユラが仕事を怠って、人間界に出入りしていては今後八連衆に示しがつかない。
(……それに)
彼と手を繋いだ時、ユラには分かってしまったのだ。
――――ハルアが送ってきた膨大な感情の奥に、ユラに対する特別な感情があることに。
(そんな気持ち……。知ってしまったら、益々、ここにいられるはずがないじゃない)
「ユラさん、答えて下さい。私に嘘で通せると思っているのですか?」
「ハルア様、私は…………」
…………駄目だ。
自分の感情なんて、知らないままで良い。
たとえ、バレていたとしても。
「ありがとう」
返事の代わりに静かな微笑を返せば、何をしても無駄だということに、ハルアも気づいたようだった。
「……………………っ」
何か言いかけて、でも、結局彼は無言となった。
「ハルア……さん? あの……。これ」
二人の沈黙に割って入るように、トワがハルアにずっしりと重い肩掛けの鞄を手渡す。
「あの騒動で、貴方が持って逃げた画材と、画帳が入っています。ごめんなさい、僕が預かっていました」
ハルアはうつむきながら、それを渡されるがまま受け取った。
………………そしてユラは、トワの手を強く掴んで引っ張ると、振り返ることなく大神殿を後にしたのだった。




