6
火事は、最小限におさまった。
幸運なことに、あの後、どしゃぶりの雨が降って、雑木林以外、延焼を免れたのだ。
ラトナの肩の傷は、出血は少なかったものの、念のため医者に診せることとなり、信頼できる医者が街にいると聞いたユラは、すぐさまラトナを担いで、ハルアと共にその医者がいる診療所に向かったのだった。
――そして。
ロカの実家に赴き、全員無事であることを確認してから、ユラは、ハルアの自宅に向かって歩いていた。
せめて、エンラの剣が落ちていないかと探してみたものの、やはり見当たらなかった。
「ユラさん。そんなに心配しなくても、大丈夫ですよ。あの林には誰もいなかったんですから。それに、君もさっき歩いてきた時、現場を見たでしょう? いずれ再生しますって」
「…………すいません」
ユラは平謝りしながら、緩々と首を振った。
あれでも、手加減した方だと話したら、海のような許容を持っているハルアからも、幻滅されてしまうだろう。
「君のせいじゃないでしょう? 囮になると言い張ったのは私で、馬鹿な理由で、君にあの力のことを話さなかったのも私です。暗殺者のことも、心当たりがあるのに話していなかった。むしろ、すべて悪いのは「私」状態じゃないですか?」
「…………ハルア様を狙った人間側の刺客は、一体?」
「ああ、兄上です。よくあることなんです。父上が警戒しろと言っていましたから。たまたま、襲撃の日を知って、モーリスでしたっけ……が、合わせただけでしょう?」
「……実のお兄さんが、本気で?」
「王宮では、間々あることなんですよ。君が気にする必要のないことです」
「そんな……」
「……だからね、ラトナと私の傷も、君のせいではありません。むしろ、またモーリスが狙ってきたら怖いので、君に護って欲しいくらいなんです」
「ハルア様、昨夜の惨事を忘れたのですか? 正直、私にも分からない力なんですよ。近くにいるべきではないんです。モーリスのことなら、今度こそ私が近日中に解決します。……だから」
ユラは、ハルアの自宅に着いたことを確認して、ぺこりと頭を下げた。
「私はここで失礼します」
「本気ですか。君は?」
「へっ?」
ハルアは手の甲に負った傷を、ユラに見えるように高く掲げた。
「私は利き手を怪我してしまったので、自分で治療すら出来ません。当然、手当てくらいしていってくれますよね?」
「いや、あの、それは…………」
芸術家のハルアにとんでもない怪我を負わせてしまったのは、ユラの同僚だ。
謝罪だけして、何もしないのは確かに最低だ。
理屈は通っているけれど……。
(いや、でもね。さっきラトナ様が医者にかかっていた時、ついでに、その傷も治療可能だったんじゃ……?)
「本気で、このまま私を見捨てるのですか。つい先日も貴方に見捨てられて、私はかなり心的外傷を負っているのですが?」
「大げさな表現ですね?」
「じゃあ、傷の手当て……してくれるんですよね?」
(そこまで、どうしてこの人は、手当てに固執しているんだろう?)
先程の争いの時より、ハルアの迫力が増したような気がする。
疲れているはずなのに、謎の勢いだった。
「…………分かりましたって。手当てくらいはしますから」
硬い表情のまま、ぎこちなく頷く。
実際、すでにハルアの邸宅に足を踏み入れてしまっているのだから、ここまで来て抵抗するのもおかしな話だろう。
「ああ良かった。断られたら、どう駆け引きしようかと、困っていたんです。じゃあ、とりあえず、私の部屋に来て下さい……。そこに包帯とアルコールがありますから……ね」
怪しいくらい、一瞬にして明るい表情となったハルアは、ユラの気が変わらないうちにとばかりに、急ぎ足で室内に入っていった。
「部屋って?」
ハルアの私室だろうか。
私の部屋というのだから、まずそうだろう。
(……いいの? そう簡単に部外者を通して?)
不安を抱きつつも、半ば強制的な流れに抗えないユラは、初めて彼の私室に足を踏み入れた。
広い室内の調度品は白で統一されていて、中央に天蓋つきの寝台がある。
唯一黒いのは、金の刺繍が美しい厚手の毛布一枚だった。
乱雑な仕事部屋と違い、一切無駄なものがない。清潔感溢れる部屋であった。
「それではお願いします。ユラさん」
ハルアは部屋の棚から、包帯とアルコールと布巾の入った木箱をユラに手渡した。
傷は浅いが、手の甲全体に赤い線のように伸びている。
真白い包帯をぐるぐる巻きながら、深く重たい溜息と一緒に、ユラは頭を下げた。
「すいません」
「また謝罪ですか?」
「ハルア様は、大仕事をしなければならないのに、手が、こんなふうになってしまって」
心の底からの言葉だったのに、なぜかハルアは声を上げて笑った。
「私、何かおかしなことを、言いましたか?」
「包帯が大変なことになっていますよ。ユラさん」
「…………あっ」
手の甲の厚みが二倍になるくらい、ぐるぐる巻きにしてしまった。
ユラは慌てて包帯を巻き直した。
それでも、やっぱりハルアのように、上手く巻くことが出来ない。
微妙にずれるし、きつすぎたり、緩すぎたりしてしまう。
ハルアは、そのたび、肩を震わせて笑うので、それも妨害されているような気がして、嫌だった。
「君、本当に下手ですよね」
「ええ。それはもう、認めます。手当てを申し出た分際で、この体たらく……」
「私が巻いた包帯を、参考にしてくださいよ」
「参考にするのと、やるのとでは違うようでして……」
「面白い人ですよね」
――全然、面白くはないだろう。
寝台に腰を下ろしているハルアの手に、体を屈めて必死に白い包帯を巻いていると、自分の不器用さに泣けてくる。
そして、ユラは自分の手が震えていることに気がついた。
(……人は簡単に死んでしまうのよ)
昨夜は、様々な場面でひやりとした。その最たるものが自分の暴走だなんて、痛すぎる。
「ユラさん。まだ落ち込んでいるんですか。私だって悪かったと思っているんです。ラトナにも、ロカ君にも、みんなに私からも謝っておきますから……」
「……ええ、ごめんなさい」
「ほら、また。ロカ君みたいな現象になって……」
「そうですよね、それも、ごめんなさい、近くいたら、嫌でも私の暗い気持ちがハルア様に伝わってしまいますよね。手当ても終わりましたし、これで、帰りますから」
ユラはゆっくり彼から離れた。
一応の手当てを、終えたつもりでいた。
けれど、ハルアは何も言わず、ユラが巻いて、こんもりと膨れ上がった左手を見つめている。
「ちょっと待って下さい。この包帯の巻き方は有り得ないですよね?」
「不満ですか?」
「いや、別にそういうわけではありませんけど……」
答えに反して、引き攣った彼の表情は明らかに不服そうだ。だけど、何度、巻いてもきっと上手くいかないのだから、ここで妥協してもらうしかないではないか?
「私から言い出しておいて、本当に申し訳ありません。でも、ここが私の限界のようです。あとはロカ君にでも、巻き直してもらって下さい」
「…………それ、本当にそう思っています?」
「はっ?」
「本当に、そこが君の限界なんですか?」
――何だろう。その疑問形は?
「……再挑戦が必要だということですか?」
「いいえ。今回はこれでいいです。でも、次回があってもいいと思ったのです」
ハルアは簡潔に答えると、澄み切った空色の瞳でユラを見上げた。
「こんなのは、慣れですよ。しょっちゅう、やっていれば慣れることです。お茶の淹れ方だって、慣れです。向き不向きはありますが、それでも、各々のやり方でやっていくうちに、気が付けば何とか形になっているものだと、私は思います」
「…………身の引き締まる、お言葉です」
「私は、不慣れながらも、君を口説こうとしているのですが?」
「ハルア様の冗談は、私にはよく分からないのです」
再び妙な沈黙が通り過ぎた。
温かな日差しが窓から差し込み、白い部屋を更に明るく染め上げていく。
「多分、今の君に何を言っても伝わらないと思いますが、でも、あのモーリスという魔物は本気で私を狙っていたわけではありませんよ。私は最初からそう言っていたはずです」
「……それは本当なのですか?」
「ええ。再三言っているとおり分かってしまうのですよ。特に、モーリスの半身は私の中にいるようなものですから、鮮明に伝わってきます。だからね、ユラさん悪いのは私ですって」
今までと打って変わって、神妙な面持ちで、ハルアが立ち上がり、ユラに迫った。
「私はユラさんと対等になりたいと思っているんです。だから、君に全部を話してしまいたくなかった」
「それが分かりません。私は、ハルア様から嫌がらせされているように感じます」
「…………言葉にするのが難しいのですが……」
むしろ、こちらが申し訳なくなるような威圧感で、ハルアはまっすぐユラを見つめていた。
「私だって、以前はただ君のことを見守っているだけで幸せだったんです。……でも、今は感情の出処が明らかに違うんです。頼って欲しいとか、甘えて欲しいとか、そんな気持ちが強いんです。だから、弱い自分を出したくなくて……。あわよくば、何も話さないで、君の前で格好つけられたらいいな……と。それで、炎の能力を君に話そうとしなかったんです」
「頼る? 甘える? 私がハルア様に……ですか?」
やっぱり、彼の言葉は理解不能だ。
ユラがべったり頼ってきたら、どうするのか……。
嬉しいはずがない。
そんなことをされたら、困ってしまうのは彼ではないのか?
「うーん、どう伝えたらいいのか。つまり、最近の私には君が普通の女の子にしか見えないのです」
「辺り一面を、焼け野原にする普通の女の子なんて、この世に存在しませんよ」
ユラが怪訝な顔をするのと、ハルアがさらに一歩こちらに近づいたのは、同時だった。
「……でも、君はそれを悔やんでいるじゃないですか。悩んだり、後悔したり、謝ったりして、まるで人間の女の子のようです。それこそが君の魅力なのだと私は思うようになったんです」
「私の魅力……ですか?」
「ええ。だから、モーリスの件を君自らの手で解決することは良いと思います。……ですが、決して、力に訴えないで下さい。もし力ずくで事を運べば、君はおかしくなってしまうでしょうから……」
「でも、ハルア様。私にはこの力以外も……」
何もない……のだ。
更に、今回は頭も弱いことが証明されてしまった。
よりにもよって、猫よりも……である。
(これを自分の魅力だからって、割り切れるはずがない……というか)
しかし、せっかくハルアが励ましてくれているのに、愚痴ばかり零して困らせたいわけではなかった。
彼と見つめ合って、何とか笑顔を作ってみせる。
……と、何を思ったか、ハルアはユラの手にそっと自分の手を重ねてきた。
「ハルアさま?」
「こんなに小さな手なのに……」
「はっ?」
「温かくて、柔らかくて……。君は生きているんですね」
「まあ、一応、生きてます……ね」
「幻ではなく…………」
呟きながら、ユラの手を自分の口元に持っていく……。
そして…………。
「…………っ」
ハルアは恭しくユラの手の甲に口付けた……らしい。
あまりにも自然な動作だったので、ユラは首をかしげる程度しか反応ができなかった。
分かっている。
人間界では手の甲に口づけするなんて、挨拶程度のことだ。
(ハルア様も、きっと色々あって疲れているんだわ……)
「ハルア様……大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないんです」
困った。
傷自体は浅いのだが、疲労が勝ってしまったのか……。
「ユラさん、びっくりしましたか?」
「そりゃあ」
「どきどき……は?」
「それは、動悸のことですか?」
ハルアは、一体何を言いたいのか?
でも、ユラだけを視界に留めるハルアの熱視線にユラはぞくりとした。
冴え冴えと光る瞳は、ユラのことを獲物のように見ているような気がしたのだった。
すべて、のまれてしまうような……。
(怖い……)
口付けされた手が今更燃えるように熱くなってきた。
その熱は体全体に広がっていき、ユラは耳まで真っ赤になってしまった。
(挨拶……よね? 人間の信愛の証だって……?)
それにしては、感触が生々しい。
ユラ自身、自分の気持ちが分からなくなってしまった。
(この気持ちは、一体?)
ハルアはユラの手を掴んだまま、片方の手で頰に触れる。
「な、何なんですか?」
「手ごたえを探っているんです」
「はっ?」
もうどうしたらよいのか、分からず、硬直しているユラの前に、刹那、黒い影が出現した。
「……門番?」
それは、見慣れた黒い影…………門番だった。
一体、何処に遣わしていたものだろうか?
それぞれの門番の見分けがつかないので、どの件をユラに報告するつもりなのか、見当もつかない。
「……ユラさん、この黒い魔物は、一体どういうつもりなのでしょうか? 私たちの仲を邪魔する気満々って感じがするのですが?」
普段無駄に笑っていてるくせに、今のハルアは不可解なくらい真顔で怒り声である。
きっと、黒ずくめの門番が怪しいせいだろう。
「ああ、これは大丈夫ですよ、ハルア様。私の唯一の味方の門番さんですから」
「…………ああ、そうでしたか。これが昨夜のあれ? ……………………ああ、なるほど」
ハルアは訝しげに、門番を見つめながら、一人で勝手に納得している。
言葉を話さない門番はその視線を無視して、ユラに向かって真っ黒な外套の中からぬっと出した手で、古神殿の方向を静かに指差した。
――天境界に帰れ……。
そういう合図のようだ。
それが指し示す意味とは?
「…………まさか、モーリスとフィンが天境界に逃げたということですか?」
ユラの問いかけに、門番は何度も首を縦に振った。
「嘘でしょ?」
(…………あの二体が天境界に戻った? 昨日彼らを追った門番が「八連衆」二体を相手して、捕獲できるはずないじゃない?)
ユラは納得ができなかったが、門番の仕事はいつだって間違いがなかった。
ハルアもハルアで「その可能性はあるかもしれないな……」と呟いている。
「分かりました。…………今すぐ帰ります」
ユラの回答に門番は安心したのか、芝居がかった大仰な動きで頭を下げた。
「それと、門番、貴方にはハルア様を頼みますね。よろしくお願いします」
「………………」
いつものように門番は無言であったが、今度も深く首肯したので、了解したということだろう。
ユラは慌ただしく、出口に向かって歩き出した。
「そういうことなので、ハルア様、私、一度、帰りますね」
「あっ、ちょっと待ってください。ユラさん!」
「はっ?」
余りに激しい剣幕で呼ばれたため、ユラは渋々振り返った。
「…………私は、利き手を怪我しているんです」
「………………えっと」
彼と会うのはこれが最後かもしれないと覚悟をしていたのに、ハルアはユラの決意を容易く叩き割ることに必死のようだった。
「このままでは、式典までに壁画が間に合いそうもありません」
「それは……その」
「今日の昼、明日だけでも、構いません。手伝いに、新しい神殿に来て下さい」
「無理ですよ。そんな……」
だが、ハルアは、強い口調で念押すのだった。
「―――絶対ですからね」
絶対に無理だ。
約束なんて出来るはずがない。
それでもどうしてか、強引なハルアをユラは嫌いにはなれないのだった。




