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一人ぼっちの仕事部屋は初めてだった。
ハルアの姿がない分、彼が取りかかっていた風景画がよく見える。
今日は、朝日に染まる田園風景だ。
現在の時刻と絵の風景が一致していて、幻想的に見えた。
彼はユラが失ってしまった世界を、完璧に絵の中に落とし込む。
ハルアの描く世界がユラには懐かしく、愛おしかった。
「ユラさん、お待たせしました」
そこに、ハルアが大股で戻ってきた。
銀色の丸いトレイの上に、ティーポットとカップ一式、そして、白い包帯と濡れ布巾まで周到に用意している。非の打ちどころがないくらい、見事なまでに気が利いていた。
「…………あの、ハルア様?」
「その傷を見せて下さい」
「だから、何もしなくても、大丈夫だって……」
しかし、トレイを机に置いたハルアは、強引にユラの手を取った。
「駄目ですよ。君は女性なんですから、傷が残ったら大変じゃないですか」
「…………残りませんって」
「いいから、すぐに終わりますから、手を見せろと言っているのです」
真剣に心配する彼がおかしい。
傷が残ることなんて絶対にないのだ。
ユラの傷は癒えるのが早い。エンラとの組手では、もっと深手を負ったこともある。
……なのに、ハルアは濡らした布巾で傷口を慎重に拭き、瓶に入っている液体を布巾に含ませて、ユラの傷口に優しくあてがうのだ。
「アルコールです。消毒しておいた方が良いと思ったので」
「あの、本当にそこまでしなくて結構ですから……」
「念には念を……です」
傷口が深そうだという理由で、ハルアはユラの手に包帯まで巻いてくれた。
(かえって、仰々しいことに、なっているわ……)
呆れてはいる。
ユラは急いでいるのだ。
けれども、少しだけ嬉しいと感じている自分もいた。
――ハルアは、ユラを女の子扱いするのだ。
彼の繊細な割に、意外にがっしりした手がユラの手を包んでいる。
エンラともトワとも違う。大人の男性の手だ。
(変なの……。どうして、私……)
手際よく巻かれた真っ白い包帯を、ぼんやりと眺めていれば、ハルアはすでにティーポットから、カップに紅色の茶を注いでいた。
「ハルア様が、お茶を淹れるんですか?」
「仕事がなければ、お茶くらい、自分で淹れますって。一杯だけでも召し上がって下さい」
「……はあ」
わざわざ淹れてくれたのに、無礙にも出来ず、一杯だけと決めて、ユラはカップを受け取った。 熱い液体に、息を吹きかけてから、一口だけ啜る。
「おっ、おいしい!」
びっくりした。
口に含んだ途端、花の香りがふわっと広がった。
それから程よい酸味と甘みが追いかけて来る。
こんなに美味しいお茶がこの世に存在していたなんて……。
「茶葉は、いつも君が使っていたものなんですけど?」
「そんな……。こんなに味が違うなんて……」
「まあ、いいじゃないですか。君、ここに来るまでお茶を淹れたことなかったんでしょう?」
「…………はい」
消え入りそうな声で認めた。ハルアにいつもの笑みはない。
責めているのではなく、本気でユラのことを心配しているようだった。
「本当に危険な仕事のようですね。出血しているのは、今日初めて見ましたけど、普段から擦り傷とか痣とかは見ていましたからね。気にはなっていたんですよ」
「そうだったんですか?」
「君、自分が怪我していることも、知らなかったんですか?」
「まあ、死にはしませんからね。父様と遊んでいるうちに、慣れてしまいましたよ」
「ふーん……。君の父様は、娘が流血しても平気な人なんですか?」
「…………あっ」
駄目だ。
うっかり、口が滑ってしまった。
「そ、それにしても、凄いですね。さすが「ハルア」様。綺麗な絵を描くし、彫刻だって素敵だし、包帯巻くのだって、こう慣れた感じで手際良いし、それでもって、美味しいお茶も淹れることが出来るなんて、素晴らしい。良いお嫁さんになれます!」
「嫁はないでしょう。ひどいですね」
「私は憧れていましたよ。子供の頃の話ですけど」
「今は、憧れていないんですか?」
「……今は、もういいのです」
人ではなくなってしまったのだ。
天虚には人生の伴侶はあっても、結婚という考え方はない。
そもそも、子供を持っている天虚は圧倒的に少なかった。
ユラは当たり前のことを口にしたつもりだったが、しかし、ハルアにとっては、そうではなかったらしい。意外なほど、この話題に食い下がってきた。
「でも、君は見た目若そうだし、諦めるのはどうかと思います」
「諦めているわけではなくて、そういう……、その」
そこまで言って、ユラはまた自分が余計なことを話してしまったことを知った。
ハルアは、柔和な笑みを浮かべたままだ。
「……本当、君ほど気持ちの分かりやすい人もいないでしょうね。私も、本当の気持ちは、ダダ漏れになってしまっているので、人のことは言えませんが」
「私はともかく、ハルア様の考えなんて、さっぱり分かりませんけど?」
「私は、兄上が嫌いです」
「…………あっ」
それは分かる。……というか、あの男を個人的に好きだと言う人の方を知りたかった。
「子供の頃から大嫌いでしてね。でも、父上があの人に王位を譲らなければならない事情は分かっていました。平和な国を保つためには、第一王子に王位を継承させなくてはならない。例外はありえないんだと……。でもね。私は王位には興味ありませんでしたが、あの人に頭を下げて、ぺこぺこするのだけは、生理的に駄目そうでした」
「……それは。…………お察しします」
「だからといって、他国の王家に婿入りしたところで、この能力です。王宮なんて、どこもみんな似たり寄ったりでしょう。私に安住の地はないんだって、絶望していましたよ。……でもね。あの魔物は言ったんです。『生きていれば、いつかまた会える日が来る』って。あの日から、それだけが私の希望となりました」
ハルアは、じっとユラを見つめる。
(……何で、私にそれを言うの?)
意図の読めない熱を孕んだ視線に、ユラの心拍数は悪戯に上昇してしまう。
「……ずっと、一目会えれば良いと思っていました。でもね。最近、それだけじゃ足りないような気がするのです。私は一体どうすれば、良いのでしょうか? ユラさん」
「どうすればって……?」
こっちが聞きたかった。
………………だって、要するに。
「貴方は、そういう目で、父様を見てたんですか?」
「………………はっ?」
ハルアが目を丸くしているが、ユラには意味を理解する余裕もなかった。
「あーっ、はいはい、分かってますって。その赤髪の金色の目の魔物と貴方を私が必ず会わせますから。だから、もう少し待って……」
「………………はいっ?」
「…………あのぉ」
――と。
微妙な距離で向い合っている二人に、ガラス窓を叩いて何者かが来訪を告げていた。
「…………君は」
そこには…………。
つい先日初めて会ったばかりなのに、懐かしく感じる獣耳の少年リエルがちょこんと立っていた。




