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「天境界」という世界がある。
天界と人間界の狭間にある世界だ。
神のように不死ではないが、かといって人間のように儚く終わる生命というわけでもない、そんな天虚が生きている世界である。
人間たちは、この世界に暮らす者たちを「妖怪」「悪魔」「妖精」など、その国、独自の言葉で呼び、畏れたり、敬ったりしていた。
もっとも、人間界で「天虚」を目の当たりする機会は少ない。
遥かなる昔、人間と天虚は共存していたのだが、天境界の王が人間界に戦争を仕掛けたことによって、神を交えた三つ巴の争いになった。
結果、破れた天境界の王は、以後天境界から人間界の往来は一部の例外を除き、禁止にすることを誓い、神を仲立ちに人の代表と条約を結んだのだ。
人間界に残っているのは、敗戦の折、天境に帰ることが出来ず、そのまま棲みついてしまった少数の天虚たちである。
天境王は、愚直なまでに三千年もの間、人間と交わした条約を守り続けた。
そのため、天境界と人間界は交わることは、ほとんどなかった。
しかし、今すべてが変わろうとしていた。
―――天境界の統治者が、引退したのだ。
天境界の統治者が自らの後継として指名したのは、今まで誰もその存在を知らなかった一人の養女。 見た目普通の少女ユラであった。
「……今日は無理。絶対に無理です!」
ユラは、がっくりと肩を落としながら、衣装部屋の真ん中で膝を抱えて座っていた。
自分の努力は、一体何だったのか……。
人間界に行く理由をでっちあげるのも手間だったのに、尊敬していた人物が、まさかの性悪だったなんて、あんまりだ。
出来たら、このまま、すべてを忘れて眠ってしまいたい。
そしたら、少しは、さっぱりするかもしれない。
……なのに、それが間々ならないというのが現在のユラの立場だった。
「ユラ様。そろそろ、定例会に行きませんと……」
侍女のマサキが遠慮なく淡々と告げた。
「じゃあ、先に、兄さんの顔を見てからに……」
「トワ様はお休みされております。あとになさってください」
トワとはユラの双子の兄のことだ。
体が弱く、横になる日が多いが、大切な兄である。
特にハルアの作品に関しては、トワもまた熱狂的な愛好者なのだ。
本当は、トワも人間界に行く予定だったのだから、報告くらいしておきたかった。
「でも……」
「時間です」
容赦ない一言に、ユラは泣きそうになった。
どうして、自分はこんなことをしているのか、ユラ自身分からないのだ。
「マサキ。思ったんですけど、今日は不参加でも良いのではないでしょうか。私が行ったところで、どうせ何も分からないですし。もういっそ、一日休みにして……」
――一日くらい、ゆっくり休みたい。
切実な願いであったが、しかし、ユラはぐっと言葉を飲み込んだ。
マサキがユラの気持ちを先回りして言い放った。
「今、ようやく着替えたばかりじゃないですか? もう、脱ぐのですか?」
マサキに手伝ってもらい、今、やっと衣装に着替えたばかりだ。
ユラが父の跡を継ぐまで、身に着けたことのなかった、独特の白い着物とぶかぶかの羽織。
布を前で合わせて、帯で止める衣装を身に着けたのは、ごく最近のことである。
地位をすべて手放した父自らが威厳を保つための正装として、ユラの真っ赤な髪に際立つ白装束を提案してくれて、ユラも同意した。
そこまでは良かったのだが、しかし、実際一人では着ることも脱ぐことも間々ならないので、どうしても、マサキの手を借りなければならない。
今頃になって、サボらせないための策だったのでないかと疑っているが、ユラ自身、公の場で、何を身に着けたら良いのか分かりもしないので、マサキに文句など言えなかった。
(着替えの心配で、仕事に行かなきゃいけないなんて、本当、滑稽な話よね……)
ゆるゆると、言葉に出来ない感情をおもいっきり込めて、鈍い動作で立ち上がる。
「……ユラ様」
マサキが間を置いて、呼吸を整えた。彼女もユラに言いたいことを飲み込んだのだろう。
(……分かってはいるんだけど)
マサキは、ユラが王の仕事に就いてから、侍女にと、父がつけてくれた女性だ。
数百年もの間、父の下で侍女頭をしていたという話で、ユラよりよほど博学で、頭の上がらない存在だった。
茶髪を頭の上で一つに束ね、膝丈のズボンを穿いている。小柄で可愛らしい外見とは違い、彼女は成熟した大人である。
出来ることなら、引きこもっていたいと願っているユラとは、対照的に、てきぱきと動き、口調もはっきりとしていた。
ユラのいい加減な態度が気に入らないのだろう。分かりきったことだ。
「弱音を吐くのは、いけないことだと分かっていますけど、でも、どうしても慣れなくて」
「……そうでしょうね」
「辞められないのは、分かっていますが……。でも、本当、一杯一杯な感じで」
「要するに、辞められないけど、辞めたいのですね?」
「――できることなら、即刻」
「しかし、貴方がこんな形で辞めたら、貴方に跡目を譲ったエンラ様の沽券に関わるでしょう。エンラ様は雷帝の地位をユラ様に譲って、姿を消されたんですから」
「……ですよね。はい」
エンラというのは、元天境王である父の名前である。
雷を使役することから、「雷帝」と呼ばれていた。
しかし、ユラが継いだのは、エンラの特殊能力だけだった。
何一つ、天境のことを知らず、ほぼひきこもりの生活を送っていたのに、三か月前、突如、臣下の前で、エンラから雷帝の後継者として指名されてしまった。
更に最悪なことに、何がなんだか分からずに混乱しているユラを置いて、エンラはふらり、どこかに消えてしまったのだった。
激流の中心地に孤独のうちに放り込まれたユラは、流れ流されて……
――このように、困った状況になってしまったわけだ。
「ともかく、ユラ様。この世界は、実力なんですよ。性格とか、向き不向きなんて関係ないのです。貴方様の能力が誰よりも優れているからこそ、雷帝の後継者に選ばれたのです。それを自覚して、精々偉そうに威張りくさるのが重要なことなんです」
「……あの。そんなことが自分に出来るのなら、こんなに悩んだりしてませんよ」
「しかし、それが出来なければ、命がありません。天虚とて無限の命じゃないんですから」
「そんな物騒な……」
「本当のことです。そうでなければ、ここまで危機感を煽りません。天境界はそういう場所なんです。今まではエンラ様の独り勝ちでしたが、これからは分からないんですよ!」
(何だ。それ……)
勘弁して欲しい。
力がすべてのそら恐ろしい世界ではないか。
(どこに行っちゃったのかな? 父様は……)
捜索隊は出しているが、いっこうに見つからない。そもそも、エンラが自発的に姿を消したのなら、ユラの手で捜しだすことなど、不可能だ。
「いいですか? ユラ様。保身のためにも、貴方は必ず定例会に出なければならないのです。エンラ様が教えて下さった雷帝の心得は、実践されていますよね?」
「それは、もちろんですとも。私には、それ以外できませんからね」
頼りない笑みを浮かべたままでいれば、逆にマサキに睨まれて、ユラはうつむいた。
「……本当に、貴方様は、分かってらっしゃるんですか?」
「もちろん、分かってますって! マサキの言う通り『笑わない。喋らない。極力、無言で威嚇する』ですよね。ちゃんと、実践していますよ」
「それなら宜しいのですが。ともかく、ユラ様。それを絶対に忘れないで下さいね」
「無闇に力を誇示するのもどうかと……」
「――……いいですね?」
「はい」
念押しされて、ユラは、怯えた小動物のように、大きくうなずいた。
…………だけど。まったくもって、意味が分からない。
その心得は、絶対間違っているだろう。