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「ハルア様は、ああいう方なんです。苛々するだけ損ですよ」
「苛々しているわけではないですよ。ロカ君」
ユラは、洗ったカップを握りしめながら声を震わせた。
「あの飄々と嫌味が言える才能に、腹を立てているだけです」
「怒っているんですね」
火を起こし、水の入ったポットを温めながら、ロカは背後の箪笥の中から、筒状の缶を取り出した。
蓋を開ければ、薬のように、つんと鼻につく匂いが広がる。
ユラが普段使っている、花の香りがする茶葉とは別物のようだ。
「これ薬用効果のある茶葉なんですよ。滋養強壮に良いんです」
「ロカ君は、ハルア様のことを心配しているんですね?」
「ハルア様は、締切りの前になると、結構無茶しますからね……」
「どうして、ロカ君はハルア様の弟子になろうと思ったんですか?」
ロカはあどけなさばかりが際立つ、薄茶色の大きな瞳を瞬かせた。
ユラがここに来るとき、ロカはいつも忙しそうで、こんなふうな会話すら交わしたことがなかった。
…………一体、モーリスとの間に何があったのか?
せっかくの機会だと、遠回しに質問をしたつもりだったが……。
「それは……」
言ったきり、ロカは難しい顔で沈黙してしまった。
(私、変なこと聞いてしまったのかしら?)
慌てて話題を変えようとしたユラだったが、ロカは不釣り合いなくらい大きな帽子を押さえ、震える声で答えてくれた。
「他に道がなかったのです。俺は」
「…………えっ?」
ロカは少しためらってから、やがて腹を決めたのか、静かに帽子を脱ぎ、その下の包帯のように、ぐるぐる巻きにしていたターバンを取った。
眩い金髪。その頭頂部に、獣の耳が生えている。
「…………あっ、可愛い耳ですね」
(やっぱり、狐の……かしらね?)
ふさふさの耳は、外気に触れてぴくぴくと動いていた。
「…………ユラさんは、驚かないんですか?」
「何を驚くんですか?」
驚くも何も、つい先日、ロカのお仲間の獣耳の天虚に会ってきたばかりだ。
それに、天境界では猫だって普通に喋っているのだ。獣耳くらい可愛いものだ。
「…………やっぱりな。貴方なら大丈夫かと思ったんです。ハルア様の周囲は変わった人ばかりだけど、貴方は輪を掛けて、変わっているみたいだから……」
「信用して頂き、ありがとうございます」
ロカには、ユラの下手な変装がまったくバレていないようで、本当に有難いことだ。
意外に、夜目は利かないのかもしれない。
きらきらした宝石のような碧眼はユラではなく、虚空を見つめていた。
「こんな耳ですからね。貴方やハルア様はともかく、普通に生きていくことが難しくて。俺の家族は、山奥で自給自足の生活をしていました。でも、俺はそういう生活が嫌で……。ここに来たんです」
「そう……だったんですか」
ロカの身内から、大凡のことは聞いていたが、本人の口から聞くと、やっぱり嬉しかった。
「結局、俺を雇ってくれる職場なんてなくて。荒んで、あちこちで暴れていたら、ラトナ様に捕まっちゃったんです。それで、お金のために働きたいって言ったら、ハルア様に引き渡されて、ハルア様が俺を雇うって。俺の考えに共感したんですって。自分も同じだって言っていましたから……」
それは聞いていた話と少し違う。
でも、きっとそうなるように、モーリスが仕組み、ロカがそれに乗ったのだ。
多分、ハルアは最初の時点でロカの正体に気づいていたに違いない。
裏があることを知りながらも雇ったのだ。
――天虚と接触を持ちたかったから。
ハルアは魔物が好きだと公言している。
どうしようもない、王子様だ。
「ハルア様は、芸術家にはなりたくなかったそうです」
「そう……みたいですね」
ハルアは度々、そんなことを言っている。
さっきも……。
沸騰しはじめた薬缶に、視線を落としたロカの横顔には、暗い翳があった。
「…………世の中、上手くいかないものですよね。あれだけの才能があって、王子としての地位もあって、でも、それは本来やりたいことじゃない……なんて」
「本当に、そう思います」
もしも、ハルアのように絵を描くことが出来たら……。
トワのように楽器を演奏することが出来たのなら……。
ユラは、それだけで幸せだったはずだ。
(こんな力……)
拳を固める。
しかし、ユラとて人のことは言えないのだ。
雷帝の地位が欲しいと思っている天虚にとっては、突然、エンラの後継者に指名されたユラは不愉快な存在以外の何者でもないのだから……。
「今、取り掛かっている作品のように、時間をかけているものもあれば、俺が知らないうちに仕上がっている作品もあるんですよ。天才なのは認めますけど、まったく、一言くらい俺にも話してもらいたいもんですよね。…………でも、元々信用されていないみたいだから、仕方ないのかな?」
「そ、そんなことないですよ!」
「…………そう……でしょうか?」
ユラが強く言っても、ロカが半信半疑なのは、きっと彼もまた後ろめたいからだ。
ハルアに対して言いたいことがあるのに、自分にやましいことがあるから、口に出来ないでいる。
襲撃だって、嫌々だったのかもしれない。
「…………ロカ君も、色々苦労しているんですね」
ユラは、ロカの頭にぽんと手を置いた。
「ユラさん」
「ロカ君の気持ち、とてもよく分かります」
ユラもまた、単独行動ばかり取っている。
トワとマサキ以外、自分の真意を明かしていない。
八連衆も上辺だけの付き合いだ。
「私、何とかしますから……」
「えっ?」
ロカが顔を上げた。
純朴な瞳に、ユラの心がざわつく。
「私、頑張りますから。だから、ロカ君もきちんとハルア様と向き合って下さいね」
「ユラさん」
「さあ、お茶を淹れちゃいましょう」
「……は、はいっ?」
ユラは満面の笑みを浮かべると、ロカに指示を仰ぎ、その通り手を動かした。
―――結果。
どぶ川のような臭いのする黒色の茶が出来上がった。
「えっと、もしかして、これ」
作り方を間違えてしまったのだろうか?
しかし、ロカは平然と、黒い液体をカップに並々注いでいた。
(……これって、嫌がらせなんじゃ?)
ロカは屈託なく笑う。
「このお茶は、とっても体に良いんですよ」
「そう……なんだ」
むしろ、体には毒になるかもしれない。
しかし、反論できずに、そのままハルアに差し出してみれば、彼は予想していたのだろうか、仏頂面のまま一気に呷った。ある意味、彼はとても良い人なのかもしれない。
(……壁画、本当にどうするんだろう?)
他人事でありながら、ユラも心配になってしまう。
そんなに無茶な仕事を、エンラに会いたい一心で引き受けたくせに、彼はエンラについて一切ユラに訊いてこない。
ユラもまたロカがいる前で、天境界の話もできないから、お互い様ということだろうが。
…………今日も、何事もなさそうだ。
しかし、常に物言いたげに自分を見つめている視線を、鈍感なユラはまったく気づいていないだけだった。




