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ロカが派手な音を立てて、手にしていた調色板を床に落とす。
その音で我に返ったユラは、ハルアの前に駆け寄った。
「ど、どうするんですか? ハルア様。国王陛下にも、約束していましたよね?」
「どうするも何も……」
「……ま、まさか、何一つ手をつけてないってことはないですよね?」
しかし、ハルアは悪びれることなく、あっさり告白した。
「さあ、どうしましょうね?」
「………………どうするんですか!?」
九十日でも無理だと主張していたのに、いまだに何もしていないなんて……。
「と、とにかく主題を決めましょう。大神殿の壁画だから、偉い人で良いじゃないですか」
「君、ものすごく適当に言っていますよね?」
「時間がないんですから、とっとと決めてしまうのが一番です」
「未来永劫、残ってしまう作品ですからね。手を抜きたくありません。……しかし、まあ」
ハルアは、ユラとロカにひっつかまれたまま、調色板の上で筆を整えていた。
「君の言う通り、やはり王家と繋がる神話の世界を描いた方が大衆は喜びますでしょうね」
「じゃあ……! それだったら、三千年前のこの国の女王はどうでしょう? 魔物を違う世界に追いやった人でしたよね?」
人間界の偉い人と言って、思い浮かぶのはフィンが言っていた彼女くらいしかない。
ハルアは、その発言を見越していたのか、あっさりと受け入れた。
「……女王イラーナ=セトクウェル。我が王家の始祖と呼ばれている女性のことですね」
「そうそう! それで、決まりですね!」
話が通じて興奮したユラだったが、ハルアは黙々と作品に青い絵の具を上塗りしていた。
「……でも、彼女は正史には登場しない王ですよ」
「はっ?」
ハルアは、ユラに一瞥もくれずに、淡々と絵に向かい合いながら、静かに告げた。
「女王イラーナの名を国名にしたのは、彼女の存在を表沙汰にできないための配慮でした。魔物と取引をした女王がいたなんて、神の子孫を謳っている王家にとって、あってはならないことですから。ましてや、彼女は魔術に精通し、怪しい能力を秘めていました」
「そんな国家機密、俺たち、聞いてしまって良かったんですか?」
「ロカ君。今の話は、別に国家機密でも何でもありませんよ。知られたところで、今の王家が困ることは、ありません。単純に魔物が身近だった昔、王家が隠そうとしていたことなので、現在も公表していないだけです。図書館などで調べれば、普通に分かりますよ」
「…………私は、そんな事情、まったく知りませんでした」
三千年の時を経て、いまだに彼女の逸話が堂々と言い伝えられているのは、天境界の方だなんて、滑稽な話だ。
「二人共、女王に興味があるみたいですね。女王由来のものでしたら、私も何点か預かっています」
「…………預かって……いるんですか?」
「ええ。元々、正史には登場しない女王ですから。彼女伝来の品はあまり表に出さないんです。そういういわくつきのものは、王族の誰かが持っていた方が、都合がいいんですよ」
貴重な文化財は、公共施設にあるとばかり思っていたが……。
「この首飾りも、女王由来のものです。良い波動を感じたので、身に着けています。どうです? 三千年の年代物には見えないでしょう?」
その首飾りは最初に会った時から、ハルアが身に着けているものだった。
胸元で鈍く光っている十字の首飾りを、ハルアはユラとロカに掲げて見せてくれた。
「良い波動って……?」
「確かに、古めかしくは見えませんけど、波動って何なのでしょうか?」
「おや? ユラさんには分からないのですか?」
残念なことに、ちょっと意匠が凝っている首飾りにしか見えない。
「ハルア様は、芸術家を辞めても、怪しい商売で生計を立てられそうですね?」
冷たい視線を一斉に向けられたハルアは、なぜか、にっこりと笑った。
「それも、いいかもしれませんね」
相当、病んでいるようだ。可哀想になってしまった。
「……まあ、だからね。こんなことで心配しないで下さい。転んでもタダでは起きません。絶対に〆切には間に合わせますから」
「心配というか、絶望的というか……ですね」
気を揉みつつ、絵を描き始めたハルアの邪魔にならないよう、ユラは少し距離を取った。
そこでふと、彼の机上に、何気なく置かれている皮表紙の画帳が目に飛び込んできた。
(あっ、そういえば……?)
いつもハルアが肌身離さず持っている大切な画帳だ。
たまに思いだしたかのように、頁を開き、ハルアは無心で何かを描いていた。
(…………描いていたわよね。だったら?)
「ハルア様、やっぱり構想があるんじゃないですか? この画帳にいつも何か描いて……」
悪気なく、ひょいと画帳を手に持とうとしたら……。
「駄目ですからね」
刹那に、ハルアの鋭い視線がユラに向かって飛んできた。
「…………それ、返して下さい。ユラさん」
「……えっ、あ、はい。すいません」
ユラは小声で謝り、すぐに画帳を返した。
――焦った。
どこで機嫌を損ねるのか、まったく掴みどころのない人だったが、意外に子供じみた理由で腹を立てるらしい。
(いけないな……)
このままでは、ハルアの役に立つどころか、仕事の邪魔になってしまいそうだ。
茶を淹れたり、簡単な掃除をすることくらいしか、ユラのやることはないのだから……。
(帰ろうかな…)
ユラは微妙な空気を読んで、気を取り直すように、分厚い眼鏡を押し上げた。
「えーっと、ハルア様、申し訳ありません。私に、手伝えることは何もないようです」
「はっ?」
「今日は、ここで帰りますので……」
「ちょっと待ってくださいよ」
ハルアは椅子から立ち上がって、ユラを見た。
殺気だった表情は一変し、今は情けない子犬のような顔つきになっている。
「…………もう少しだけ。……君にしかできない仕事があるんですから」
「えっ、本当に? 一体、何でしょうか?」
期待と不安半々で、恐る恐る問うと、ハルアは淀みなくきっぱりと告げた。
「そこのタルトを、一口で食べてみせて下さい」
「………………そうきましたか」
一体、どうしてそうなるのか?
「私は、芸をするために来ているわけではありませんよ」
「でも、君は不器用じゃないですか?」
「……私だってね。絵心の一つくらい」
売り言葉に買い言葉で言い放ってから、ユラは肩を落とした。
――そうだった。ユラは、究極に不器用だった。
「…………でも、お茶くみ程度なら、役に立って……」
「残念ながら、不味いです。このお茶」
「まさか、嘘でしょう!?」
「ちゃんと飲んでみたら分かります」
この人は、何を言っているのだろう。
お茶の一つくらい、ユラにだって淹れることは出来る。
先程、モーリスの茶だって、ユラ自らが淹れたのだ。
ユラは怒りで肩を震わせながら、今まで座っていた大きな椅子の前に立ち、カップを片手に一気飲みした。
(ほーら、不味くなんて……)
「おや、いい飲みっぷりですね」
「…………うっ?」
ユラは己の舌の感覚に狼狽した。
「……しぶ……っ?」
「おそらく、茶葉が多過ぎたんでしょう」
「……今日は、たまたま……」
「いつも甘い物と一緒に飲んでいるので、違和感がなかったのかもしれませんね」
いつもだったのか…………?
そんな不味い茶を、毎回、澄まし顔で飲んでいたのは、ハルアではないか?
更に、そんな不味い茶を、ユラはモーリスに出してしまったばかりだ。
(嫌がらせをされてるって、モーリス思うよね。…………絶対、思うわよ)
「だったら、最初に淹れた時に言って下さいよ……」
「別に、飲めないわけでもないので、まあいいか……と。ずるずると」
「……ああ、もうっ! すいませんでした! すぐに完璧に淹れなおしてきますから」
ハルアのカップを手にしたユラは、真っ赤な顔を隠すために、走って部屋を出た。
今まで、あんな渋い茶を出していたなんて、恥ずかしすぎる。
「あ、ユラさん。俺がお教えしますよ!」
後ろから、ロカが小走りで追いかけて来た。
そのロカを引き留めようとして、ハルアが諦めたことをユラは知る由もなかった。




