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「……絶対に、署名をもらおう」
イラーナ国の都ランカの国立美術館の人ごみの中で、ユラは自分に言い聞かせるように、一人呟いた。
握りしめているのは、彼の書いた本と、自分で用意した高級品の鉛筆、少し厚めの白い紙の束だ。
ユラの敬愛する「彼」はハルアという名の芸術家である。
数年前から、イラーナ国内で活動を始めた「ハルア」は、あっという間に大衆に知られるところとなり、その名声は、もはや大陸にまで広がっていた。
イラーナは、国土自体は小さいものの、天然資源が豊富な金満国だ。
ここ数百年争いのない奇跡的な平和国家を築いていることもあって、人口は爆発的に増え、娯楽、芸術文化は大陸随一の進展を遂げていた。
実力のある芸術家たちが様々な地域から集まり、苛烈に競い合っているイラーナ国内において、珍しいほど「ハルア」は、圧倒的な人気を誇っていた。
彫刻、絵画、書画……。何をやっても素晴らしい才能を発揮する彼だが、その素顔は、ほとんど知られていない。それもまた神秘的で、彼の魅力の一つであった。
ユラが彼のことを男性だと知っていたのは、本の最初に、簡潔な作家紹介文があったからだった。
そうでなかったら、彼の性別すら未だに知らなかっただろう。
――秘密主義の天才芸術家。
そんな彼が、いよいよ、初めての彼自身の企画展に姿を現すのだ。
(この日を、どれだけ待ちわびたことか……)
彼の新刊から情報を入手してから、数カ月。
この日のために、苦労を重ねて、時間を作り、準備万端に当日を迎えたのだ。
変装も、気合を入れた。目立つ赤髪を三つ編みに結い、分厚いレンズの眼鏡を掛けて、金色の瞳を誤魔化してみた。
多分、自分が本気になったら、こんな回りくどいことをしなくても、彼と会うことは出来ただろう。それでも、ユラは彼の作り出した作品を見なから、彼と対面したかったのだ。
(やっぱり、ここに来て良かった……)
昔の王宮の跡地に建てられた広大な美術館は、沢山の人でにぎわっていた。
展示室の天井は高く、開放的で、真っ白い壁に並んでいる彼の絵と、さりげなく置いてある彼の作った彫刻の数々は、場の雰囲気と見事に調和している。
大空に青い鳥が悠々と飛んでいるハルアの絵。何度鑑賞しても、ユラは飽きなかった。
(私もこういう絵を描けたら、いいのに……)
ユラは絵を描くことが好きだった。
上手くはないが、描いていると心が落ち着くのだ。
(……まだ、ハルアは来ないよね?)
彼がここに来るのは、昼過ぎだと聞いていた。
――ならば。
「青い鳥」は幸せを運んでくるのだと、子供の頃、兄から聞いたことがあった。
(どうか、幸せが舞い込んできますように……)
願掛けのつもりで鉛筆を握ったユラは、彼のその絵を参考にしつつ、白紙の隅っこに鳥の絵を描いた。
人だらけの中、立ったまま描いたので、どうしても線が震えてしまうが、それでもユラは楽しかった。
(……まっ、こんなものよね?)
上手とは言えないが、個性的に描けたのではないかと、満足の笑顔で和んでいた。
しかし、遊んでいる時間なんてなかったのだ。騒々しさが波のように押し寄せてはきた。
「何っ?」
――そして、喧噪が、嵐に変わった。
「ハ、ハルアだ!」
人だかりの中、誰かがそう叫び、入口の方向を指差した。多分、それがいけなかったのだろう。
一瞬の沈黙を挟んで、展示室にいた全員が入口目指して猛然と走りだしたのだ。
「えっ、あっ、ちょっ、ちょっと!」
複数の人に押された衝撃で、ユラの眼鏡がずれて、抱えていた紙が床に散らばった。
「やだ! 何で! こんな時に!」
すっかり油断していた。
おかげて、出遅れてしまったではないか……。
絶対に、手ぶらで帰ってたまるかと、ユラは眼鏡をかけ直し、紙を拾おうと素早く上体を屈めた。
――まさに、それと同時だった。
割れんばかりの歓声がユラのもとに届いた。信じたくはないが、それが何を意味するのか、察することは出来てしまう。
――とうとう、ハルアが到着してしまったのだ。
「そんな……」
こうしてはいられない。それにしたって、予定の時間より遥かに早いではないか。
ユラは慌てて、大理石の床を滑り、遠くに飛んでしまった紙を集め始めた。
…………しかし、最後の一枚。
ひょいと伸ばした手の先に、何者かの手が乗っていた。その手は、ユラが取ろうとした紙の上に乗っている。
「あの……」
「美術館だというのに、賑やか過ぎますね」
返ってきたのは、間延びした男性の声だった。
彼につられて、ぼんやりとしてしまったユラだったが、その男性は、声の調子とは裏腹に手の動きは早かった。
彼は、あっという間に、ユラが取ろうとしていた紙を拾い上げ、姿勢を正していた。
「あ、有難うございます! 拾って下さって」
ユラは、笑みを浮かべたまま顔を上げた。――が。
男の黒髪と険しい顔が飛び込んできた時点で、ようやくユラは気が付いた。
その紙に、ユラの描いた青い鳥があったのだ。
「……これ、何ですか?」
――やってしまった。
その紙の中央には、先ほどユラが描いた幸福を呼ぶ「青い鳥」が翼を広げて存在を訴えていた。よりにもよって、その紙を初対面の人に見せてしまうとは。
「返してください!」
恥ずかしさの余り、ユラは男の手から紙を奪おうとするが、軽やかに避けられてしまい、ユラはそのまま前のめりに転びそうになった。
「ちょっと……!」
「やっぱり、これ君が描いたんですね? でも、これは、さすがに、何というか……」
男は神妙な面持ちで、ユラの描いた鳥を、角度を変えて多方向から凝視している。
「私、急いでいるんです!」
痺れを切らして、声を荒げたものの、男は泰然としていた。
ややしてから、ようやく紙から目を離した男は、ユラを一瞥する。
初めて彼の顔を眼鏡のずれた隙間から見た。
――その一瞬に、ユラはどきっとした。
思った以上に、男は若かった。
彼の瞳は鮮やかな空の色をしていた。
瞳と同じ色の紐で、長髪を横から括っている。前開きの黒い長衣の上に、ゆったりとした同色の上着を羽織っただけの質素な装いなのに、上品に感じるのは、腰のあたりで緩く巻いている藍色の帯と、胸元にぶら下がっている銀十字の首飾りのせいだろう。
こんなに美しい男性を、ユラは今まで目にしたことがない。
(今日は、何だか凄い日かもしれないわ)
ほんの少しだけ、心の奥で喜んでしまったのだが……。
「……ブタ……ですか?」
「はっ?」
「これ、ブタに見えますけど、ブタじゃないですよね。大体、これ、動物なんでしょうか? 新種の昆虫か何か? さっぱり、分かりません」
「それは…………」
答えられない。
男は顎を撫でながら、まじまじとユラの描いた「鳥」を観察していた。
「こんな物を見たのは初めです。それに、貴方のような赤髪の女の子に出会えたのも、とても興味深い。私に、これが何なのか、まずその野暮ったいおさげ髪を解いて教えてくれませんか?」
――嫌味なのか、ナンパの変態なのか。
更に、そこまで言われてこの絵が「鳥」を描いたものだったなんて、告白する勇気もなかった。
(それにしても、鳥をブタだなんて、どうやったら、間違えられるのかしら?)
胴体の中に格納する形になってしまったが、ちゃんと羽も描いたつもりだったのに……。
(そりゃあ、ささっと描いたし、酷い出来だったかもしれないけど、でも、いくらなんでも初対面の人間に、にっこり笑顔で何を描いたか分からないって、言い過ぎじゃないの……)
そこは、見なかったことにしてくれるのが人情ではないのか?
見た目と、性格というのは本当に一致しないらしい。
こんな男、いくら綺麗な外見をしていたところで、話していたくもなかった。
「もういいです。それ、いらないので、処分して下さい。私、本当に急いでいるんで……」
署名のために用意していた紙はまだあるのだと、白紙の束を抱え直したユラは、つんと横を向いたまま、男の前を通り過ぎようとした。
この男との出会いは、なかったことにしよう……と、すぐに忘れる予定だった。
――なのに、男はユラのおさげ髪を、ひょいと引っ張ったのだった。
「えっ、何!?」
さすがに、怒りが頂点に達した。
失礼にもほどがあるだろう。
(いっそ、力技で失神させてやろうかしら?)
実際、それを実行できる能力がユラにはあるのだ。
ただ、そんな大それたことを実行する勇気がないだけで……。
ユラは自分の髪を引っ張りながら、振り返った。
「いい加減、やめて下さい。 一体、何なんですか。貴方は!?」
「綺麗な髪ですね。結って色素を薄めているつもりでも、艶やかな赤……だ」
(……さて、どうしようかな?)
本格的に力で訴えたくなってきた。
しかし、ユラの爛々と燃え始めた瞳の色を無視して、青年は淡々と言い放つのだった。
「君、そんなにハルアに会いたいんですか?」
「あっ、当たり前でしょう。何のために朝から頑張って並んでいたと……」
「ああ、それ私ですよ」
「はっ?」
「本当ですって」
(ばっ、馬鹿なことを……)
よくぞ、この場で吐いてはならない大嘘を真顔で繰り出してきたものだ。ユラの方が嗤ってしまう。
「何を言っているんですか。ハルア様は、今、ここに着いて……」
「いや、顔がばれると面倒な事情があったので、囮を使ったんです。一応、自分の単独、初展示会ですしね。華やかな場は避けたかったのですが、どんな様子か見ておきたくて」
何だか、やけに辻褄が合っている。嫌な感じだ。
ユラは作った冷笑を、ひっこめる機会を失ってしまった。
「……まさか、それで、貴方は真っ先に展示室に?」
「私は展示物の微調整をしたかったんです。初日の客が皆「ハルア」目当てで良かった。若い男の芸術家という噂だけで、作品を見もせずに「ハルア」を見に行く。つまらないことです。でも、おかげて、作戦は大成功です。展示室に人がいたら、面倒だなって思っていたので、あえて、私本人が来ると噂を流してみたのです」
「それはそれはーー……。思惑通りいって、良かったですね」
真っ白になった頭で、適当に返せば、男の方がユラに接近してきた。
「それにしても、君も珍しい。この国にいて、私の顔を知らないなんて。顔がバレたらまずいというくだりを聞いても、ぴんと来なかった……と?」
「すいません。異国での生活が長かったもので」
「益々、それは素晴らしい。もっとも、君も作品ではなく「ハルア」目当てのようですが?」
彼は楽しげに口角を上げる。一体何が楽しいのか……。
綺麗な顔立ちをしていたが、冷たい印象が拭えなかった。
ユラは目の前で起こっていることが、信じられなかった。いや、信じたくなかった。
(この人がハルア? 待って? あの美しい絵を描くハルアがこの変な人? 本当に?)
きっと、騙されているのだ。本物のハルアであれば、人の描いた絵を貶すようなことは、絶対にしないし、初対面の女性の髪をいきなり掴んだりしない。
作品から溢れているのは、優しさだったはずだ。
――でも。現実は思い通りには、転がらなかった。
「ルフィア様!」
ターバンぐるぐる巻きにしている少年が、息を切らして走ってくる。確かに、彼のことをルフィアと呼んだ。青年は明らかに不機嫌に眉を寄せている。
「だから、その名で呼ばないで下さいって。聞こえちゃいますから」
「申し訳ありません!」
二人のやりとりを、ぼうっと観察しながら、ユラは確信に至っていた。
(…………なるほど。そういうことなの)
本名が「ルフィア」で「ハ」を足して「ハルア」とは……。
彼は近づいてきた少年に、早口で指示を出していた。
絵の配置のことだったり、彫刻の置き方だったり、見開きで飾っている本の頁数の変更だったり……。事細かなことの一切を申し伝えていた。
―――やはり、彼が「ハルア」なのだ。
疑う余地すらなくなってしまった。
(この人が……、ずっと私が憧れていた「ハルア」なんて)
ユラが「ハルア」に抱いていた太陽のような温かな印象は、木端微塵に砕け散ってしまった。
半ば放心状態で、両手で顔を覆っていると、思い出したかのように、ハルアは鋭い視線をユラに向けて尋ねてきた。
「……あっ、それで、あの芸術的なブタは、一体何なんですか? 私にぜひっ!?」
彼の反応を確認する前に、ユラは全速力で、その場から逃げ出した。
(さようなら……。ハルアさま)
その時のユラは、彼がどういう気持ちで自分を呼び止めたのかなんて、考える余裕すらなかった。