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道に迷うと判断して、早めに天境界を出たのが裏目に出た。
聞かなくても良いことまで耳にしてしまった。
――ハルアは王族だったらしい。
しかも、遊学中と噂の第二王子のようだ。
(……どうりで)
不遜というか、横柄というか……。
丁寧な物言いの割に、有無をも言わさない強制力があるのは、命令することに慣れているせいだ。何気ない振る舞い一つに、品の良さを感じるのも、出自のせいだろう。
所々、精緻な刺繍が施されている黒の外套や、首を覆うように拵えられた独特の長衣、胸元で光っている小ぶりの十字の首飾りも、さりげなさが一層、高貴に見える。
(知らなかったとはいえ、痛ましい偶然の連続だわ……)
もはや、何もかもが作為的なものに感じてしまう。
念のため門番に、彼の護衛をお願いしていたが、それも失敗だった。
彼らはほとんど言葉を話せないのだ。言葉がなくても、彼を護ることは出来るが、ユラにとって重要な情報は何一つ入って来ないのは、困りものだった。
「…………あのー。君は?」
おもむろに声をかけられて、ユラはびくりと体を震わせた。
「ええっと。はい。私がおさげ頭の眼鏡です」
自分でも意味が分からないことを口走って、小動物のように怯えた。
この時点で引き返そうとする決断力すら、その時のユラは持ち合わせていなかったのだ。
「ああ、君は昨日のブタの……」
「そうきましたか……」
やっぱり素顔は、腹の立つ青年ではないか。
こうなったら、とっとと絵と署名を貰って、天境界に帰るまでだ。
…………だが、やはりそう上手くは転がらなかった。
一歩前に出た途端、昨夜の青年がハルアの真横に立ったのだ。
「可愛い子だね。宣言通りおさげ頭に眼鏡じゃないか? へえ。本当に来るなんてね……」
糸のような目を光らせている灰色の髪の青年は、昨日の簡素な装いとは違い、仰々しい純白の外套を纏っていた。ハルアと違い、彼はユラの存在に不審を抱いているらしい。
「僕はラトナ。それで、そこに座ってらっしゃるのは、ハルアの兄上でイシャナ様。イシャナ様、彼女はハルアの知り合いだそうです」
「ふーん。珍しく焦っていた割には、痛ましい女の好みだな?」
黒髪の男が、一瞬だけユラに鋭い目を向けたが、すぐにそっぽを向いて、再びカップを口に運んだ。
――さすがイラーナ国の第一王子だ。
何も見なかったと言わんばかりの演技は、ある意味、王族らしい。
もしも、ハルアがこうであったら、ユラだって相応の警戒心を抱くことも出来ただろうに……。
「それで、おさげの娘さん。君ハルアと初対面じゃないんだね? ブタって何のこと?」
「それは……その」
「いい加減にしてください。ラトナ、兄上と一緒に帰れって言っていたでしょうが?」
ハルアは、乱暴にラトナを自分の後ろに追いやり、背後から冷たい視線を送っているイシャナを目で威嚇した。
「すいません。なぜか今日は観客が多くて。……まずは、昨夜の約束ですよね」
「……でも、話し合いの最中ですよね?」
「話し合いなんて、そんなもの……。とっくに、終わっていますから大丈夫です」
――大丈夫では、ないだろう。
(何だか、そこの無愛想な王子の依頼を、ハルア様が断ったみたいだけど……?)
「…………本当に、いいのでしょうか?」
「ええ。私に出来ることなら、何なりと」
まさに、その流れを期待していたわけだが、いきなり「署名も絵も欲しい」と口にしてしまっても、良いのだろうか。それに、彼の怖いくらいの友好的な態度は一体……?
(……まあ、いいか)
ハルアは、逆毛を立てている動物をあやすように、にこにこしながら、円卓の前で、ユラを待ち続けている。腹を決めたユラは、肩掛けの鞄の中から白紙の束を取り出した。
「では、お言葉に甘えさせてもらうことにします。ハルア様」
「紙……ですか?」
「あっ、はい。実は……」
まずは白紙に署名を貰ってから、絵を頂戴する交渉に入ろうと思っていたのだ。
ユラは潜んでいた大木の陰から、覚悟を決めてハルアのもとに歩く。――が。
「殿下っ!! お代わりをお持ちして……! 」
ぱたぱたと丸いトレイに陶器のカップを一客乗せ、駆けて来る少年を目にしたユラは硬直した。
(あの子は……。美術館でハルアと一緒にいた?)
亜麻色の前髪だけを残し、体とは不釣り合いなほど、大きな白いターバンを巻いている。
昨日会った時は、顔もよく見ていなかったが……。
眼鏡を少しずらして、見遣れば、当然ユラを回避するだろうと予測していたのに、少年は勢いそのままに前進してきた。
(……何で?)
余裕で避けることは可能だが、それをしたら、まずい気がする。
(……それに、この子?)
一つの憶測がユラの脳裏に浮かんだ。
どうしようか。
――……悩んだ末。
「うわっ!」
わざとらしい悲鳴を発したユラは、正面から少年にぶつかったのだった。
「なかなか気合いの入った雄叫びでわざとらしく倒れましたね。びっくりしましたよ。君、大丈夫ですか?」
「あっ、はい。だいじょうぶです」
仰向けに転がっていたユラは、ハルアが差し出して来た手の端を控えめに掴んだ。
起き上がって、ずれた眼鏡をかけ直してみる。
(これで良かったのよね?)
普通の女の子を装うのなら、無駄に身体能力を披露したら怪しまれてしまう。
――だが、その判断が一番間違っていたらしい。
「殿下っーーー!!」
悲壮感一杯に、少年が絶叫した。
「あああああっ!」
周辺地域に迷惑がかかりそうな悲鳴をあげて、イシャナが立ち上がった。
びしょ濡れになった金刺繍入りの派手なズボンから、仄かに湯気が上がっている。
「申し訳ございません! 俺は何たることをしてしまったんだー! もう死ぬしかっ!」
「いちいち、うるさい人たちですね? こんなことで、死なせはしませんよ」
ハルアが少年の頭を軽く叩き、唖然としているユラに暢気な視線を向けた。
「ああ、ちなみに、彼はロカといって、一応、私の弟子見習いなのですけどね……」
にっこり笑って、紹介している場合ではないだろう。
「ハ、ハルア様、それは後で良いですから……」
「俺はどうしたらいいんだあぁぁぁっ!」
ロカがイシャナの前で、右往左往している。
「ともかく、下穿きを脱いでください。殿下!」
「痴れ者が! 高貴な私が皆の前で、肌を晒せるわけなかろう! まず拭く物だろうが!」
「たっ、ただいま!」
ロカは間を置かず、持ってきた上質の布巾をイシャナに手渡した。
「おいっ! ルフィア。どうしてくれるんだ! 足に火傷を負ってしまったではないか!」
(……嘘だ)
とても彼が火傷しているふうには見えなかった。
大体、茶の温度が低いことなんて、誰でも分かるのだ。もしも、本当に火傷していたら、この程度では済まない。
――でも、この男はこの国の第一王子。
つまり、偉い人なのだ。
「も、申し訳ありません! 俺、もっと冷やす物を見つけてきます! 少々お待ちを!」
それこそ、転げるような勢いで、ロカが走り出した。
「あーあー、殿下が大変なことになってしまったようだけど? どうしようね? ハルア」
取ってつけたような神妙な面持ちで、ラトナがハルアを見上げていた。
「まったく……。ついてないな」
何を考えているのだろう。ハルアは、そう呟いた後、むっつりと黙り込んだ。
「ハルア……様。あの……」
――これこそが、嵌められているのだ。
そんなこと、ハルアとて分かっているだろうに、彼は次の瞬間、にやりと笑って不敵に言い放ったのだった。
「分かりましたって。ものすごく嫌ですけど。――兄上、大神殿の壁画。私が引き受けますよ」
「おおっ。本当か!? ルフィア! それは、お前の本気で本当の言葉なんだな?」
「ええ。二言はありません。突貫費用として追加料金はちゃんと取りますけどね。ですから、彼女もロカ君も無罪に。今回のことは、水に流して下さいませんでしょうか。兄上」
「……う、うむ。それなら流してやっても良い」
何だか、とてつもないことを言い出した。
(……大神殿の壁画って?)
「お待ちください。ハルア様。 壁画って、どういうことなんですか?」
「あれ? 君、そこまでは聞いていなかったんですか?」
まるで、盗み聞きされたことを楽しんでいるような、溌剌とした口調でハルアは答えた。
「実は私、兄上から大神殿の壁画の依頼を受けていたんですよ。今、大神殿がぼろぼろで、丁度、父の在位三十年を記念して立て替えていましてね。九十日で作成しろだなんて、無茶を言うから、断ろうとは思っていたのですが……」
「…………無茶……なんですよね?」
「ええ。そうです。無謀以外の何物でもないですよ。他の作り手は知りませんけど、私は準備に時間をかけるんです。何を描くか決めてもいないのに、いつ出来るなんて言えません。だから、こういう仕事のやり方は好きじゃないんです。正直、式典までに間に合わせることが出来るかどうか、分からないですね」
「それ絶対、私のせいじゃないですか!」
「いや、君のせいじゃありませんよ。君がここに来なかったとしても、彼らは私にこの仕事を押し付けるつもりだったでしょう。私に拒否権はなかったのです」
「そうなんですか」
「でも、責任は感じておいて下さい。私のためにも」
「………………はあ?」
(何だろう。この人、本当に意味が分からない)
芸術家だからなのか、王子だからなのか、それともユラの感覚が変なのか……。
「それにしても、本当に邪魔ばかり入りますね。君は、私の署名が欲しいのでしょう?」
ハルアは、そそくさと地面に散らばってしまった紙を拾い、ユラに手渡した。
「……そうですけど、どうして、分かったんですか?」
「白紙を持って、私のところに走って来ましたから……。君は昨日美術館でもそうでした。正直、署名の何が良いのか、私にはさっぱり分からないのですが、昨日の彼女が望むのなら、署名でもどんなことでもいたしましょう」
――だったら、一言多いのではないだろうか?
「…………なるほど。君、遠くからだと気配は読みにくいけど、近くに寄ると、感情はだだ漏れな人なんですね? 面白いです」
「はっ?」
……何が?
しかし、問いかけようとしたユラの袖を、ハルアは笑いながら強引に引っ張った。
イシャナとラトナの目から逃れるように、屋敷の方にユラを連れて行く。
「あの、本当に何なんですか? 一体?」
「署名をするのに、手元に筆記具がないのですよ」
「だったら、私……」
「いえ、私の筆記具で署名させて下さい。私は屋敷に一度戻りたいのです」
謎のこだわりを発揮したハルアは、そのまま突き進み、庭に面している大きなガラス窓のある部屋の前で、やっと立ち止まった。そして、くるりとユラに向き直り、顔を寄せる。
「――実はですね。兄上とロカ君と、ラトナには内緒で、君に聞きたいことがあったので、あの場を離れたかったのですよ」
「何でしょうか?」
「ここだけの話」
ハルアが声を落としたことに、ユラは息をのむ。
(正体がバレた? いや、バレてもおかしくはないけど。でも、面倒には違いないのよ……)
しかし、その瞬間を身構えていたユラに対して、飛んできた質問はとんでもなかった。
「……昨日、君の描いた絵は、一体何だったのでしょうか?」
「………………はっ?」
「いや、気になって仕方なかったんです。君の絵。ああいうの見たことがなかったので」
「…………速やかに忘れて下さい」
「仕方ないですね。でも、私、気になると、徹底的に知りたくなる性分なんです」
「厄介な性分ですね」
「だから、当然、昨夜の女性のことも気になっています」
びくりと反応したユラに対し、ハルアは今度こそ、きっぱりと言い放った。
「――――昨夜の女の人は、君でしょう」
「あっ……」
ユラは肩すかしを食らわされた直後に、頭突きされたような気分になった。




