第2話 天龍眼
首が痛い。
どうも寝違えたようで、ずきずきと痛む。後で湿布を……
って、さっきもそんなこと思ったっけな。
頭がくらくらして視界がはっきりしないが、俺は地面の上に突っ伏しているようだった。
周囲は真っ暗ではなく明るいし、風や葉擦れ、小鳥の声などが聞こえる。
どうやら、無事に生き返れたようである。
あるいは、全部夢でただ目が覚めただけか。だったらいいんだけどな。
「う……」
地面に手をついて、体を起こす。
地面は乾いていて、空気の湿り具合から言っても雨が降った後の気配は感じない。
まさかあれだけ激しい雨が乾くまで気絶していたとも思えないし、似たような状況なだけで元いた場所とは違うようだ。
別人の体に入って現世に戻るとか言ってたけど、元の身体の持ち主も崖から落ちて首を折って死んだのかもしれない。
そのへんは治っているのか、手で触れても普通に寝違えたようなくらいの痛みだったけど。
「……お」
しばらくそのままにしていると、視界がはっきりとしてきた。
それと同時に、視界の中の名もなき草の全てが視界のなかに浮かび上がる。
おお、これが天龍眼か。
文字を読むような、それと同時に意味が頭のなかに直接叩き込まれるような。
一瞬にして、その草の名前、全長、重量、効能、分布、水分量、目、類、科、構成元素その他もろもろが――
「て、お、ちょっ」
お、多い! 多い多い多い――情報量が多すぎる!
意味のあることからないことまで、どころか本来文字で正確に表すのが不可能なことまで、怒濤のように頭に叩き込まれる。
なんだこれ、草一本でこんな情報量があるの!? やべえな自然!
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ついには理解も認識も不可能な文字化けじみたものすら浮かび始めてずきりと頭痛を感じ、俺はさっとその草から眼をそらした。
「――あっ」
ヤバい。
顔を上げてしまった。
眼に写るのは足元の一本の草だけではなく、ごくありふれた草や繁み、木々、大地、空、雲――
そしてそれらを構成する莫大な情報量。
目の前が真っ暗になる。
いや、認識していないだけで、目が見えなくなったわけではない。
頭の中を蹂躙する無数の文字や文字にならない文字にできない情報が、ひっきりなしに頭の中をかき回す。
口から声にならない絶叫が意識することなく勝手に漏れ出した。
痛い。
目が痛い、頭が痛い、痛い、痛い、痛い――!
脳が!!
脳が火箸でかき回されるように痛い!!!
『左目を閉じろ!』
ばちん!
果たしてそれは自分の意志で動かしたものかどうか。
自分の手で自分の左目を、勢いよくぶっ叩いて押さえると同時に、頭の中のぐちゃぐちゃしたものがフッと嘘のように消え去った。
喉がからからだ。
なのに口も鼻もねばついた液体が詰まっていて、激しく咳き込んでうずくまった。
鼻からぼたぼたと、ドン引きするくらい大量の鼻血がこぼれ落ちて地面を赤黒く汚す。口からは泡立ったよだれだ。
ひどい風邪をひいた時みたいに、頭がガンガン痛んで、頭を輪に締め付けられる孫悟空の気持ちがよくわかった。
よくわかったのでもう二度と味わいたくない。全身が汗でびっしょりだ。
『加減と言うものを知らぬ奴よ。限界を超えて無防備に受け入れすぎだ。
全く、これだから脳などというもので処理しているやつはいかん』
そんなこと言われても、こんな体験は初めてなんだ。どうしたらいいのかもわからない。
抗議したかったが、喉が痛くて声が出ない。むしろ肺からずきずき痛む。あっという間に満身創痍だ。
というか……この声は天龍か?
生き返ったら会いに行くまでお別れかと思っていたが…… おかげで九死に一生を得た。
『お前の左目、我が天龍眼を通じて魂が繋がっているのだ。話をするくらい雑作もない。
……仕方ない、しばらくは私が天龍眼の調整をしてやろう。慣れれば、自分でできるようになるだろう』
「すまん…… たす、かる」
『何、私のためでもある。
だが、しばらく左目は閉じたままでいろ。いいと言うまで開けるなよ』
「わかっ……た」
喉が枯れて声が出しにくいが、先程に比べると随分落ちついてきた。
左目を押さえたまま、右手の甲でぐいっと鼻と口元をまとめて拭う。
咳き込まないように、ゆっくりと息を吸って、吐く。
自然の清浄な空気がうまい。この空気が吸えるから、誘われて入った登山部が長続きしたのかもしれない。
しばらく体を休ませて頭痛が収まるのを待ちながら、改めて、自分の姿を確認する。
汗で濡れたシャツや下着は木綿のようだが、その上から着ている上着やズボンはどうやら麻で出来ているらしく、ごわごわとしていた。
特に胸や背中は固い厚めの生地であて布をしてあり、分厚くなっている。今日の陽気では少し暑いくらいだ。
手足は、丈夫そうな革のブーツとグローブ。
中古品なのか使い古しているのか、どちらもくたびれてきているが。
腰のベルトには巾着袋のようなものが結びつけられていて、中にはちゃりちゃりと小銭らしきものが入っているようだ。財布がわりかもしれない。
……えーと。
体つきは、概ね元々の俺の身体と同じくらいの背格好、だと思う。
顔は確認のしようがないが、触った感じではたるんだりシワが刻まれていたりはしないようである。たぶん、まだ若い。
崖から落ちてきた証拠か、全体的に土で汚れていた。
…………あー。
よし、そろそろ現実から眼を背けるのはやめて、最後の持ち物を確認しよう。
剣だ。
腰のベルト、小銭入れとは反対の左側に、鞘に収まった剣が下げられていた。
剣道の竹刀よりは少し短いくらい。引き抜くと鈍く光る刃があらわになり、手にもずっしりと重みを感じる。
日本刀とかではない。西洋剣、ショートソードと呼ばれる類いのものだ。
剣の良し悪しはわからないが、刃は鋭く研がれていて美術品や模造刀ではなく明らかに戦闘用。
山道を歩くためのナタの類い……じゃあないよなあ。
明らかに銃刀法違反確実な一品である。
え、なんでこんなもん持ってるのこの人……?
まあ、今となってはそれを知る本人は死んで身体は俺のものになったことだし、厄介事が降りかからなければいいんだが。
そこらに捨てていくには危険なものだし、登山部の端くれとして山に不法投棄するのも気が引ける。
山を降りるまではナタがわりに持っておくしかない。
もしかしたら日本ではなく、こういうものを持っていてもおかしくないどこか外国なのかもしれない。
……日本語通じないと厳しいなあ。
それに、財布や免許証などの身分証明になりそうなものを持っていない。今後が心配だが……
「……ともかく、まずは山を降りないとな」
行動しなければ始まらない。
まずは山道、もしくは川を目指して歩き出すことにした。
幸いにも、歩いて数十分のところで流れの穏やかな川を見つけることができた。
水は透明できらきらしている。
生水を飲むのは危険なので顔を洗うにとどめておいたが、水は冷たくて目が覚めるようなさっぱりした心持ちになった。
というか俺、食料も水筒も持っていない。
一体どういうつもりで山を歩いてたんだこの人。
まさか自殺志願者だとは思いたくないが、崖から落ちた時に荷物をなくしただけかもしれない。
もうちょっと最初の地点を探索すれば良かったか? 崖の上に置き去りだったかもしれないが。
川の流れにさっぱりした自分の顔を映してみると、短い黒髪の青年の顔が映った。
年齢は、元の俺より若干上だろうか。まだ幼さが残るようで、たぶん二十歳ちょうどくらい。
イケメンとまではいえないが、なかなか悪くない顔立ちをしている。
やや彫りが深く、ここは外国かもしれない、という疑いを深めさせた。
「……左目、まだ開けちゃダメか?」
『もう少し待て。日が暮れるまでには何とかなるだろう』
「片目だとちょっと歩きづらいんだけどな」
遠近感がつかみにくくて、なんだかふらふらする。それも日暮れまでの辛抱か……
「ああでも、場合によっては普段から隠さないといけないかもな……」
『何故だ?』
「だって、龍の目だろ? 蛇みたいに瞳孔が細かったり右目と色が違ったりすると、変に目立っちゃうじゃん」
『妙なことを気にするやつだ。人間というのはそういうものか?』
「カラコンで誤魔化せるかもしれないけど、中二病扱いされるのもなんかやだな」
カラコン? 中二病? と天龍が首をかしげているような雰囲気がしたが、特に説明を求められることはなかった。
ともあれ、川に沿って下流の方へと歩いていく。
このまま山を抜けられるかもしれないし、道や橋に行き当たればなんとかなりそうだ。