第1話 不運な朝
思い起こせば、その日は朝からツイてなかった。
セットしたはずの目覚ましは壊れていて、靴紐は切れ、黒猫が家族連れで前を横切り、カラスが頭上でカアと鳴く。
今日は、友人に誘われて入った(ちなみにその友人は1ヶ月でやめた)登山部の活動の日なのだが、遅れることを連絡しようとバスの中からメールを打とうとしたら携帯の充電が切れていた。
乗っていたバスは渋滞に捕まってさらに遅れ、電車は誰かのイタズラで緊急停止ボタンが押されて点検のため立ち往生。
一時間遅れで到着した集合場所の現地駅前には誰もおらず、先輩たちは先に行ったのだろうと思い、俺も後を追って山に入った。
この時、ちゃんと携帯を充電していれば俺の運命も違ったのだろうか、と思わずにはいられない。
山に入って一時間も歩いた頃だろうか、山道の脇に小さな祠が建てられていた。
朽ちて半ば緑に埋もれたような祠だったのだが、何となく気になって足を止める。
丁度手の届くところに葉振りのいい小枝が伸びてきていたので、それをぱきりと手折って箒がわりにして、屋根や祠前に積もった落ち葉や土埃を払った。
別に信心深いわけでも、この山や祠に思い入れがあるわけでもない。
なんとなくやったことで、かけた時間もせいぜい数分程度のことだ。
一応、ぱんぱんと手を叩いて登山の安全をお祈りしておいた。
祠にはかすれた文字で「龍」なんたらと読める文字が書かれている。
地元の龍神様を祀るような祠だったのかもしれない。
それからさらに一時間ほど歩いた頃だろうか。
空が曇ってきているのに気付いた。前日の天気予報では晴れだったと思ったのだけれど。
山の天気は変わりやすいからな、と思って俺はあまり気にしていなかったのだが、実は今朝になって天気予報が変わり、この山に強い雨と風が発生することが報じられていたのだ。
そのため、登山部の活動は急遽中止となっていたのだが……
携帯の充電が切れていた俺は、その連絡のメールを見ることはなかった。
ついに暗雲垂れ込めて、これはおかしいぞ、と思ったが時既に遅し。
ぽつぽつと降りだした雨は急速に激しくなり、強い風が吹き始めて木々の枝を騒がしくかき鳴らしだした。
しかも、いつの間に登山道をはぐれたのか獣道に迷い込み、前を見ても後ろを見ても背の高い草に覆われて道がわからない。
流石の俺もこれには危機感を覚え、早く麓に降りねば危険だぞ、とともあれ元来た方角に向かって戻ろうとした。
果たして、その焦りがいけなかったのか。
ぬかるんだ足元が不意にずるりと滑り、俺は急な坂道を転がり落ちた。
激しい衝撃を受けながら転がった先には地面はなく、崖のようになっていて、俺は勢いのままそこから空中に投げ出される。
自分の口をついて出る絶叫を他人事のように聞きながら、俺は落下し――
そして、意識を手放した。
首が痛い。
どうも寝違えてしまったようで、ずきずきと首が痛む。後で湿布貼っとかなきゃ。
などと思ったところで思い出す。
そういえば崖から落ちたんだった……そう思うと、首が痛む程度で済んで良かった、と思うべきか。
雨は止んだのだろうか、雨風の音もしないし濡れたり寒かったりという感覚もない。
とりあえず、身を起こそうとした。
『目が覚めたのか』
すると、不意に声をかけられた。
男性とも女性ともつかない不思議な声。
声の主を確認しようと、俺は起き上がりながら視線を向ける。
すると、そこには光る玉が浮いていた。
「……え」
『私の声が聞こえるか?』
声は、その玉から聞こえていた。
というか、この空間にその玉しか存在していない。
玉は電球のような明るさで光っているのに、壁も床も天井も、ついでに言うと俺自身の身体も見えない。
なんだここ。どうなってんだ?
『自分の名前が言えるか?』
「あ、えっと…… 俺は、阿妻優斗」
『――く、はははっ』
何がなんだかわからないうちに聞かれた通りに名乗ったら、何故か笑われた。
「あ、あのさ。よくわかんないんだけど、ここは……その、何なんだ?
あんたは一体……?」
『それは…… 私にもわからぬ』
なんじゃそりゃ。
『それこそまさに私の求めるところ。
私はどこにいるのか、私の名は何なのか。それをお前に見てもらいたい』
「そんなこと、俺に言われても…… それに、そんなことして俺に何の得があるんだ」
『報酬か。それは……お前の命だ』
「えっ」
言われて俺は思わず身構えた。
どういうことだ。言うことを聞かないと殺すってことか?
まさかそんなドラマか漫画みたいなことを実際に言われる日が来るとは思わなかった。
『ん? ……ああそうか、お前、勘違いしているな?』
「……か、勘違い?」
『ああ。お前、もう死んでいるぞ』
「は……?」
わけのわからないことを言われて、思わず目が点になる。
名前を聞いて笑われたり、自分が何者なのかわからないと言ったり、もう死んでるとか言ったり、こいつ本当に何なのかわからない。
しかし何故か、もう死んでいると言われた途端に首がずきりと痛くなり、俺は自分の首に手を……
……いや、本当に首に手をあてているのだろうか。
そもそも俺の手は。
俺の首は本当に、そこにあるのだろうか……?
『お前が何故死んだのかは私にはわからぬ。だがここにいるお前は、まぎれもなく死した魂だけの存在だ』
「……さっきから、首が痛い、んだけど……」
『ならば、首の骨が折れでもしたのやもしれぬな』
なるほど。崖から落ちて、打ち所悪く首を折って死んだ。
その推論は、妙に俺の胸にすとんと落ちた。
そうか、死んだのか…… マジかー、まだ二十歳にもなってないんだが。
早死にすぎて家族や友人に申し訳ない気分だ……
『だが、死した魂は早々に自我など薄れてしまうもの。
何処からとも知れず私の元に彷徨ってきた魂が、迷わず己の名を答えることが出来ようとは…… 面白い巡り合わせだ』
俺の名前を聞いて笑ったのは、名前が変とかじゃなくてそういうことだったらしい。
「じ、じゃあ…… ここが、死後の世界ってやつ、なのか?」
『いや、それはわからぬ』
そういえばさっきもそう言っていたが、本当にどういうことなんだ……?
『私は永きに渡ってこの場所に封じられてきた。
あまりに永く封じられた故に、ここがどこなのか、何故封じられたのか、あまつさえ自分の名前すら忘れてしまった……』
「忘れすぎだろ……」
『こうして会話するのですら何百年、いや何千年ぶりなのかわからぬ』
そう言って、そいつは妙にのんきに、どこか楽しげに笑ってみせた。
どうでもいいが、名前がわからない上に男か女かもわからない光る玉なので、何と呼ぶべきか判断に困る。
『このままでは、あと百年もすれば私は自分の存在すら失って消滅……つまり、死ぬだろう。
まあそれは別にいいのだが』
「いいのかよ」
『うむ、だがこうしてお前と会えたのだ。せめて消え行く前に、己の名くらいは思い出したい』
「……なるほど」
話が読めてきた。
薄々気付いてはいたが、どうもこいつは人間ではないらしい。
しかも、大妖怪だか悪魔だか神様だか、何かしらすごい力を持った存在のようだ。
……なんだか言ってて自分で胡散臭い話だとは思うが、死んだあとに出会った存在なのだ、そういうこともあるだろう。
つまり、こいつの居場所と名前を突き止めるかわりに、生き返らせてくれるという……
えっ、マジで? 生き返れるの?
『生き返るのとは少し違うな。
お前は死んだ、その事実は変えられぬ。
……故に、魂が離れて間もない別の身体と縁を結び、現世に帰るのだ』
「つまり……別人になってよみがえる、ってことか」
『そうだ。
……それが嫌なら、別に断っても構わぬ。私もお前も、元通り死の運命に戻るだけのこと』
「いやいやいやいや、俺は死にたくはないから!」
死生観の違う達観した光の玉と違って、俺はまだ二十歳にもなってないのだ。人生まだまだ楽しみ足りない。酸いも甘いも噛み分ける前なのだ。
別人になってもいいから、生き返れるなら生き返りたい!
『ならば、話は決まりだな。
だが、流石の私も死した魂をそう易々と現世に戻せるわけではない。そこで、お前に私の眼を授けよう』
「……え、眼? 眼って、目玉……?」
まさか、抉るの?
そして俺に渡すの?
っていうか俺の眼も抉ってそこに突っ込む気では……?
『心配するな、私の一部をお前の魂に分け与えるだけだ。
痛みも何もない。そうすることで、私の力を及ぼしやすくするのだ。
それに、私の眼は万物を見通す。その眼で見れば、そのものの全てがわかるだろう』
「じゃあ、あんたを探しだしてその眼で見れば……」
『ああ。話が早いな』
くくく、とそいつは含み笑いをする。
そういえば「名前を見てほしい」とか言っていたか。最初から、俺にその眼を渡して生き返らせるつもりだったのだろう。
「……というか、その眼で自分を見ればいいんじゃ?」
『自分の眼で自分の顔は見れまい?』
おっと、そりゃそうだ。
なるほど。つまり万物を見通す眼も、自分のことだけは見れない、ということか。
『それに、この場ではお互いに実体が無い。見ることのできないものを見通すことも出来ぬ』
「万物を見通すって言ったじゃないか」
『私の眼ではなく、お前の魂が認識できぬのだ』
「ぐぬぬ……」
もしかしたら、今いる場所が何もない真っ暗闇に見えるのも、俺が認識できないだけで実は色んなものがあるのかもしれない。例えばこいつの生活用品とか。
光の玉に見えるそいつも、認識できる魂にとっては、ジャージ着てだらけたおっさんとかに見えるのかもしれない、とか思うとちょっとくすっときた。
『ふふ、久方ぶりの会話も楽しいものだ。
お前も同じ気持ちでいてくれるようだが……そろそろ行動に移るとしよう。
あまり時間をかけて、お前の自我が薄れてしまっては台無しだからな』
「おっと、確かにそりゃたまったもんじゃない。じゃあ、名残惜しいがさっさとやってくれ」
『ああ。じっとしていろよ』
そう言うと、今まで定まった一点に浮かんでいた光の玉がすーっと俺の方に近付いてきた。
正確には、左目。視界の左側がまばゆい光に塗りつぶされていく。
眩しさに眼を細めても、そもそも瞼が無いせいか眩しさは変わらず、光の玉の実態もわからない。
「……そういえば、お前の居場所を探すのはいいんだけどさ、何かヒントとかないのか?
名前……はわかんないんだっけ。せめて、何してたとか、どういう場所にいたとか」
『さて、全ては朧気な記憶の彼方でよくは思い出せぬが……』
光の玉はすうっと音もなく俺の左目に入り、視界はほとんど真っ白になる。
あまりに眩しいが、眼の痛みは感じなかった。
『――天龍。私は確か、そう呼ばれていた。故にその眼は、天龍眼』
天龍…… 龍か。
死んでもこうして生き返るチャンスに巡り会えたのは、あの小さな祠の龍神の加護だったのかもしれない。
でも、だったら最初から死なないようにしてほしかったなあ。
そんなことを思いながら、俺の視界と意識はまばゆい光に飲まれていった。