39.モルカ台地――17
身体の一部が魔物化したリュートを本陣に連れて戻ると、余計な混乱の元になりかねない。
そう判断したリーネの判断は、念話でガゼルに最低限の連絡だけ済ませリュートを乗せたエルピスに跨って敵群へ突撃と離脱を繰り返し魔法で損害を与えていくというもの。
アバドン片体の目を盗むように立ち回り削った蟻獅子の数は優に数十を数える。
突然に敵が仲間割れを始めた時、リーネたちは警戒して一度戦線から下がっていた。
『一体……何が……?』
「魔眼」の力の限りを尽くし戦場を見据えるリーネ。
その瞳はやがて、一つに束ねられようとしている魔力の線を見出した。
……その線のうちの一本が、自らの背後に伸びている事も。
『ッ、リュートさん!』
『御主人!?』
弾かれたように振り向くと、そこではリュートが淡く発光する魔物化した部位に引きずられるように宙へ浮かぶところだった。
慌ててその身体を引き留めるリーネだが、小柄な上に非力な少女の力で食い止められるものではない。
リュートの身体が完全に宙に浮いたところで、エルピスがその脚を嘴で捕らえ留めようとするが引力は一向に弱まる様子を見せない。
互いに一歩も譲らないまま力だけがどんどん強くなり……リュートの身が軋む感覚がエルピスに伝わる。
反射的に力が弱まった瞬間、リュートの身体は「集合地点」へとぐっと引き寄せられる。
再び今度は別の脚を捕まえるエルピスだが、そこから続く出来事は変わらない。
繰り返すうちにじりじりと戦場に近づき……やがて、蟻獅子たちが気づく。
状況を察したアスラも駆けつけたが、事態は好転しない。
壁で阻もうとすれば引力は構わずリュートの身体を引いて圧殺しようとし、元凶になっている魔物化した部位の除去を試みても融合して剥がれようとしない。
集合地点へ放ったアスラとリーネ二人がかりの攻撃も、溶け合って魔力の塊となった片体には吸収される。
『御主人!』
「主……!」
『リュートさん!』
やがて……三人の抵抗も空しく、リュートの身体は魔力塊へと呑みこまれた。
「主を……リュートを、返せぇぇええええええええッ!!」
その場の誰も耳にした事のない絶叫がアスラの口から放たれた。
咆哮は炎となって群がる蟻獅子を蹴散らし、双剣を構成する炎を黒く染めて獅子が駆ける。
彼女が剣を振るうたびに闇色の軌跡が刻まれ、意思など持たないように見える暗緑色の魔力塊が苦しむように蠢く。
その形はやがて片体を更に凶悪にしたようなフォルムに変じ――。
「ッ……!」
一閃。
蟷螂の鎌にも似た前腕が、防御しようともしないアスラの右腕を切断する軌道で閃く。
……間近で魔力塊の変貌を警戒していた【魔眼聖女】が、いち早く反応した。
『させませんっ、「タスラム」!』
磨き上げられた技量によりほとんどノータイムで放たれた混沌の魔弾は腕鎌の軌道を逸らす。
空を切るに留まるかと思われた腕鎌。しかし……分裂するように生えた魔力の刃が、今度こそアスラの身を斬り裂いた。
駆け出したエルピスがその身体を受け止める。
『アスラさん、落ち着いて!』
「離せ! 我はまだ戦える!」
『……ごめんなさい。「グレイプニル」』
「なっ……!?」
リーネを振り払い再び敵に向かおうとするアスラを、背後から伸びた魔力の鎖が縛り上げた。
「リーネ、貴様――」
『落ち着いてくださいっっ!!』
別人のような形相で口を開こうとするアスラ。
それを阻んだのは、意思の限りを込めたリーネの思念だった。
『闇雲に挑んでもリュートさんを助けられる見込みはありません。誰より重要な貴女が、一番冷静でないといけないんです!』
「………………」
『アスラさん!』
「………………」
『……一度、傷の治療をします。それが終われば皆と合流して、リュートさんを助ける策を練りましょう』
返事は無い。だが、鎖を引き千切ろうと抵抗する力は無くなる。
ひとまずはそれで充分だと判断し、リーネは戦場から一度下がるようエルピスに頼んだ。




