29.モルカ台地――7
彼方の空に蠢く、どこか奇妙な色合いをした靄のようなもの。魔王種の軍勢らしいそれから目を離すこともできず、ジリジリとした時間が流れ――。
『主よ、そう狼狽えるな』
『うわっ?』
不意にざらついた冷たい感触が頬を撫でた。
一泊遅れて黒獅子に舐められたと気づく。
『これまでと同じだ。有象無象の群れなど我が蹴散らしてやる』
『……はは。頼りにしてるぜ』
悠然と佇むアスラの姿は、その言葉通りいつもと何ら変わらない。それだけの事に少し勇気づけられた気がした。
……俺は、乗せてくれる相手がいないと無力な出来損ないだ。だからって自分の力のみで立つことを放棄するつもりも無いが……今だけは縋らせてもらおう。
今確認されているだけでも敵の数は数百。それもその一体一体が魔王の蔓延る向こう側から現れた侵入者だ。多くて頭数三十にも満たないような、それも格下の敵と戦ってきたこれまでとは訳が違う。
万全に備えてもまだ足りない。柔軟かつ明確な策を用意しておく必要がある。
とはいえ、俺一人の頭で思いつく事には限りがある。
こういう時こそ――。
「おーい。リュート、アスラー。作戦会議するよー」
『分かった、すぐ行く』
考えていたことは同じだったらしい。
シャロの呼びかけに応え、俺もまた助言者の元へ向かった。
『――レム、何か良い策はあるか?』
「生憎ですが、わたしは軍師ではありませんよ」
『っと……そうだったな。済まない』
「ダメ元で聞いてみるけどさ、アイツらの情報は何かある?」
「いえ……申し訳ありませんが」
「だよねー……」
下がった俺に代わってシャロが尋ねるも、答えは芳しくない。
「こんな夜にも行軍できるということは、二通りの理由が考えられます。一つは優れた視力でもう一つは視力以外の発達した知覚手段、あるいはその両方ですね」
「目くらましが効くかは五分ってところかな。ライオンと虫のキメラってことは、他に考えられるのは……」
「聴覚、嗅覚、そして触角による探知が候補として挙げられますね」
「うーん……」
心当たりがあるのか、シャロはそれを聞くと腕を組んで考え込む。
これまでも敵の攪乱係としての経験を数多く積んできたシャロだ、何か突拍子もない手札を切ってくれるかもしれないな。
『――あっ』
『どうした?』
定期的に東の様子を窺っていたリーネが小さく声を上げた。
つられて視線を東の空に向けると……敵群の靄が、高度を下げているように見えた。
『休むつもりか?』
『おそらく。……あと、新しく得られた情報があります。群れの中に何体か、指揮官クラスの個体が紛れているようです』
「外見で区別することはできますか?」
『翅が他の個体より大きいですね。ただ、それを収納されると……この距離では、少し見分けられないです』
――と、その時のこと。ガゼルから念話が飛んできた。
『待たせたな。最低限の態勢は整えた』
『ちょうど俺らの方からも報告がある。敵は山脈を越えて少し進んだところで一度休息するらしい様子を見せている』
『そうか』
こちらから報告すると、ガゼルは少し安堵したような感じが伝わってくる。
時間的に猶予ができたこともあるが、敵も休息は必要とする生身の相手だと認識できたのも大きいのだろう。
……逆に、必要なら休息という判断を取れるだけの知能も備えているという事でもあるが。それは今まで相手にしてきた魔物たちと同じことだ。
とはいえ脅威は依然目の前にある。ガゼルは声を引き締め続きを促してきた。
こちらも敵の外見や数など、分かっている情報を伝えていく。
『――それで、奴らはどれ程の時間でこちらに侵入してくる?』
『休息の時間にもよるが、リーネの見立てによればこれまでと同じペースで進軍が続くと仮定して、行動再開から二時間程度らしい』
『既に最寄りの支部に話は通してある、彼らと合流して連携を取ってくれ。俺も今から最精鋭を率いて向かう、昼前には合流できるはずだ』
『そうか。……いや、ちょっと待て』
果たして魔王種を相手にどれだけ戦えたものか……そんな事を考えていると、聞き逃すわけにはいかない発言が聞こえた。
確かに今は猫の手も借りたい状況だ。本部の最精鋭となるとそれは心強い。
だが……。
『まさかお前が前線まで出てくるとか言わないよな?』
『何故だ?』
『お前は俺らの頭だ。万が一があっちゃ困る』
『……お前もそう言うのなら、確かにオレは頭なのかもしれん。だが、頭だけ残っても身体を失っては同じことだろう』
『…………』
『勿論このようなところで死ぬ気はない。だからそう心配するな』
子供を諭すような声を残して切れる念話。
まだ釈然としないものは胸中にわだかまっているが……ずっと黙っているわけにもいかない。
会話が途切れた時を見計らって、俺はリーネたちに念話の内容を伝えた。




