わたしが辞めた翌朝、王宮の花はぜんぶ本音を喋りはじめた。
王宮の花は、よく喋る。
たとえば謁見の間に飾られた赤薔薇は、毎晩のように低い声でうなった。
「今日の伯爵、嘘をついたわ。娘の婚約祝いだなんて言っていたけれど、本当は借金の肩代わりをさせたいだけ」
王妃様の寝室に置かれた白百合は、いつも少しだけ泣いていた。
「王妃様は、王太子殿下の前では笑うの。でも本当は、あの子がもう自分の話を聞いてくれないことを寂しがっているの」
会議室の青い竜胆は、苦々しげに花弁を震わせる。
「財務卿はまた帳簿を隠した。庭園費を削った分を、甥の商会に流した」
そうやって、花たちは人の本音を吸い上げる。
美しい言葉の裏にある嫉妬。
礼儀正しい微笑みの奥にある侮蔑。
忠誠の誓いに混じる打算。
愛している、という言葉にくっついた嘘。
王宮に置かれた花は、ただの飾りではない。
真聴花。
人の声にならないものを聴き、吸い、溜め込む花。
そして吸いすぎた花は、いつか耐えきれずに喋り出す。
だからわたしは毎晩、王宮中の花を回った。
水をやり、葉を拭き、枯れた花弁を摘み、花たちが眠れるように小さな歌を口ずさむ。
「大丈夫。今日もよく我慢したね」
赤薔薇が、わたしの指先に花弁を寄せた。
「ミリア、またあなたの手が荒れているわ」
「平気。土を触る仕事だもの」
「違うわ。これは土じゃない。誰かの言葉で傷ついた手よ」
わたしは笑ってごまかした。
花には、ごまかせないと知っていたけれど。
わたしの名はミリア・リース。
王宮庭園に勤める沈黙花師だ。
けれど、王宮でわたしをそう呼ぶ者はほとんどいない。
たいていの人は、わたしをこう呼ぶ。
花と話すだけの無能。
◇
「また花と喋っているのか」
背後から声がした。
振り向くと、セドリック・ヴェイルが立っていた。王宮文官の青い制服に身を包み、銀の飾り紐を胸に垂らしている。
昔は、同じ村の川辺で一緒に泥だらけになった幼馴染だった。
今は、わたしを見るたびに眉をひそめる婚約者だ。
「薔薇が苦しそうだったから」
「花が苦しむわけないだろう」
「真聴花は、人の本音を吸うから」
「その話を人前でするなと言ったはずだ」
セドリックは声を低くした。
「君といると、僕まで花と話す変人だと思われる」
赤薔薇が、かすかに震えた。
「セドリックは怖がっているわ。自分が笑われることを。ミリアが笑われることは、もう慣れてしまったのに」
「黙って」
わたしは思わず薔薇に囁いた。
セドリックが顔をしかめる。
「ほら、またそうやって。頼むから普通にしてくれ。僕はようやく王太子殿下の補佐に近い仕事を任されるようになったんだ。君の奇妙な噂で台無しにされたくない」
胸の奥が、ちくりとした。
昔のセドリックは、わたしが野の花の声を聞くと、目を輝かせて言った。
すごいな、ミリア。
僕には聞こえないけど、君には世界がそんなふうに聞こえているんだな。
あれは、いつまで本当だったのだろう。
「ねえ、セドリック」
「なんだ」
「わたしの仕事、何だと思ってる?」
「王宮庭園の管理だろう。水やり、剪定、花の交換。それ以上のことをしているつもりなら、君の思い込みだ」
思い込み。
その言葉は、何度も聞いた。
庭師長からも。
魔術師からも。
貴族の令嬢たちからも。
そして最近では、セドリックからも。
廊下の向こうから、笑い声が近づいてきた。
王太子殿下と、侯爵令嬢エレナ。その周りには数人の貴族たちがいる。
わたしは慌てて立ち上がり、礼を取った。
エレナ様が扇の陰で口元を隠す。
「まあ。こんな時間に庭で膝をついて。王宮はずいぶん余裕があるのね。花に話しかける係まで雇っているなんて」
周囲がくすくすと笑った。
王太子レオンハルト殿下は、わたしのほうを一瞥しただけだった。
「君が例の花師か」
「はい」
「沈黙花師、だったか。奇妙な役職だな」
殿下は隣の宰相補佐に目を向けた。
「庭園維持費の削減案に、この役職の廃止も含まれていたな」
「はい。特別手当が発生しております。花の管理であれば、通常の庭師で十分かと」
会議室の竜胆が、遠くでざわめく気配がした。
「違う。違う。あの人、帳簿を隠している。庭園費が邪魔なのは、そこからお金を抜いたことを知られたくないから」
わたしは唇を結んだ。
花の声は、わたしにしか聞こえない。
ここで訴えても、また笑われるだけだ。
王太子殿下は面倒そうに言った。
「では、沈黙花師の役職は本日限りで廃止する。長年勤めたことには感謝するが、王宮に不要なものを置いておく余裕はない」
不要。
その言葉を聞いた瞬間、不思議なくらい心が静かになった。
怒りも、悲しみも、すぐには出てこなかった。
ただ、足元の土の匂いだけがはっきりした。
「承知いたしました」
わたしは頭を下げた。
セドリックが目を見開いた。
「ミリア」
「本日限りで、辞めます」
「待て。形式上の話だ。少しすれば、僕から取りなしてやる」
取りなしてやる。
赤薔薇が、低く笑った。
「セドリックは、ミリアが本当にいなくなるとは思っていないわ。自分が呼べば戻ると思っているの」
わたしは薔薇を見た。
それから、セドリックを見た。
「いいえ。もう戻りません」
「何を意地になっている」
「意地じゃないよ」
自分でも驚くくらい、声は穏やかだった。
「疲れただけ」
王太子殿下は興味をなくしたように歩き出した。
エレナ様はすれ違いざまに、わたしの手を見た。
「土で汚れた手ね」
胸元の小さな蘭が、震えた。
「エレナは羨ましいの。自分の手で何かを育てたことがないから」
わたしは、その声も黙って飲み込んだ。
◇
最後の夜、わたしは王宮中の花を回った。
謁見の間の赤薔薇。
「ミリア、どこへ行くの」
「まだ決めていない。でも、王都の外れに薬草診療所があるでしょう。前に花の苗を分けたら、所長さんが人手を探しているって言っていたから」
「そこに薔薇はある?」
「たぶんないかな」
「じゃあ植えて。わたしより、よく眠れる薔薇を」
「うん」
会議室の青い竜胆。
「財務卿の帳簿、言わなくていいの?」
「わたしが言っても信じないよ」
「なら、わたしたちが言う」
「駄目。あなたたちは黙っていないと」
「ミリアがいないのに?」
返事ができなかった。
王妃様の寝室の白百合。
「王妃様は、今日も泣いていたわ」
「知ってる」
「王太子殿下は、本当は何をしていいかわからないの。でもそれを誰にも言えない」
「それも知ってる」
「ミリアは、何でも知っているのに、いつも黙っていたわ」
「花が喋るよりは、ましだもの」
「あなたも花みたい」
白百合は、甘い香りを揺らした。
「黙って、吸って、溜め込んで、誰にも知られず枯れそうになっていた」
「わたしは花じゃないよ」
「そうね。だから歩いて出ていける」
わたしは笑った。
泣いたら、花たちがもっと苦しくなると思ったから。
最後に、王宮庭園の中央に咲く古い白薔薇の前に立った。
この白薔薇は、王宮でもっとも古い真聴花だ。初代王妃が植えた花だと聞いている。
花弁は月の光を含んだように淡く、根は王宮の地下深くまで伸びている。
「白薔薇」
「ミリア」
「今までありがとう」
「それは、こちらの言葉」
白薔薇の声は、年老いた女性のように静かだった。
「あなたは三年間、わたしたちの声を土へ返してくれた。嘘も、嫉妬も、怒りも、悲しみも。人間が自分で抱えるべきものを、わたしたちが吸いすぎないように」
「明日からは、新しい庭師さんが来ると思う」
「その者は、わたしたちの声を聞ける?」
「……聞けないと思う」
「なら、眠れない」
白薔薇の葉が、夜風もないのに鳴った。
「ミリア。もう、黙っていなくていいの?」
わたしは、じっと白薔薇を見た。
花に「黙って」と言い続けた三年間だった。
会議室で汚職を聞いても。
舞踏会場で嘲笑を吸っても。
王妃様の孤独を抱えても。
王太子殿下の焦りを吸っても。
セドリックの苛立ちを聞いても。
黙って。
お願い。
眠って。
朝になれば、きっと少し楽になるから。
そう言い続けてきた。
でも、わたしはもうここにいない。
水もやれない。
葉も拭けない。
声も土へ返せない。
なら。
「苦しかったら」
喉が震えた。
「喋っていいよ」
白薔薇が、ゆっくりと花弁を開いた。
「本当に?」
「うん。もう、黙らなくていい」
その瞬間、庭園中の花が小さく息を吸った気がした。
わたしは持っていた鍵束を庭師長の机に置き、王宮を出た。
振り返らなかった。
◇
翌朝、王宮の花はぜんぶ本音を喋りはじめた。
最初に悲鳴を上げたのは、王妃付きの若い侍女だった。
彼女が寝室の白百合に朝露を吹きかけた瞬間、白百合が上品な声で言った。
「王妃様は昨夜、王太子殿下が幼いころに描いた絵を抱いて泣いていたわ。『あの子はいつから、わたくしの顔を見ずに返事をするようになったのかしら』って」
侍女は水差しを落とした。
廊下のすみれが、すかさず喋った。
「その水差し、昨日も落としたわ。でも侍女長は黙っておいてくれたの」
厨房の鉢植えが叫んだ。
「料理長は怖い顔をしているけど、昨日のスープが薄かったのは新人のせいじゃないわ! 料理長が恋文を書きながら塩を入れ忘れたのよ!」
「誰だ喋ったのは!」
「わたしよ、窓辺のバジルよ!」
厨房は大混乱になった。
舞踏会場では、昨夜の飾り花がまだ残っていた。
金木犀が楽しげに言う。
「昨日『まあ素敵なドレス』と言った伯爵夫人は、本当は『袖が三年前』と思っていたわ」
小薔薇が続けた。
「でも言われた子爵令嬢は、本当は『あなたの扇も古いですわ』と思っていたわ」
近くにいた夫人たちが固まる。
「な、なにを」
「花が喋っている……?」
「いやだわ、気味が悪い」
そのとき、胸元に飾られていた小さな蘭が言った。
「気味が悪いのは、さっきまで仲良しのふりをしていたあなたたちよ」
王宮中で、花が喋った。
廊下のすみれは、夜勤の兵士がこっそり婚約者への詩を書いていることを暴露した。
礼拝堂の白い花は、司祭が祈りの途中で昼食のことを考えていたと告げた。
書庫の押し花は、若い文官が禁書を読んで泣いたことを言った。
王太子の執務室の薔薇は、殿下が昨日の報告書を読まずに署名したと告げた。
最初は笑い話だった。
けれど、会議室の青い竜胆が口を開いた瞬間、空気が変わった。
「財務卿は、庭園維持費を削ったのではないわ。三年かけて抜いていたの。甥の商会に、石材費として流した」
会議室にいた全員が、財務卿を見た。
財務卿は椅子を蹴って立ち上がる。
「馬鹿な! 花の戯言を信じるのか!」
竜胆は静かに続けた。
「帳簿は執務室の暖炉の裏。二重底の箱の中。昨日の夜、あなたは『沈黙花師が辞めるなら、これで隠せる』と思った」
「黙れ!」
「それから、宰相補佐。あなたは王太子殿下に、沈黙花師は不要だと進言した。庭園費を調べられたくなかったから」
宰相補佐の顔が、真っ白になった。
王太子レオンハルト殿下は、額に青筋を浮かべた。
「花をすべて撤去しろ」
命令はすぐに下された。
近衛兵たちが庭園へ向かい、花を切ろうとした。
けれど、最初の兵士が鋏を入れた瞬間、切られかけた薔薇が甲高く叫んだ。
「痛い! でもミリアは、いつも切る前に謝ってくれた!」
兵士の手が止まる。
別の薔薇が怒鳴った。
「乱暴者!」
小さなすみれが震えながら言う。
「怖い。ミリアは夜風が強い日、わたしたちに布をかけてくれたのに」
庭園の白薔薇が、ゆっくりと声を響かせた。
「人間たちよ。わたしたちを黙らせたいなら、ミリアを呼び戻しなさい」
王太子殿下は歯を食いしばった。
「ミリア……あの花師か」
セドリックが進み出た。
「殿下、私が連れ戻します。彼女は私の婚約者です。少し感情的になっているだけで」
その瞬間、執務室の薔薇が笑った。
「セドリックは嘘をついているわ」
場の視線が、セドリックに集まる。
薔薇は甘い香りを漂わせながら言った。
「セドリックは、ミリアの婚約者でいるのが恥ずかしかった。けれど、彼女の力は便利だった」
「黙れ」
「去年、隣国大使の怒りを事前に察したのはミリア。けれど報告書にはセドリックの功績と書かれた」
「黙れ!」
「春の舞踏会で、王妃様が倒れる前に香りを変えたのもミリア。王妃様の寝室の百合が、毒のにおいを吸ったから。けれどセドリックは『私が異変に気づいた』と殿下に報告した」
セドリックの喉が鳴った。
「違う。僕は、彼女の言葉を信じて動いただけだ」
白薔薇が言った。
「信じていたなら、なぜ笑った?」
セドリックは何も言えなくなった。
王太子殿下は、はじめて黙った。
花たちは止まらなかった。
「ミリアは三日寝ずに、戴冠記念式典の花を眠らせたわ」
「ミリアは手を血だらけにして、毒を吸った根を洗ったわ」
「ミリアは王妃様の涙を誰にも言わなかったわ」
「ミリアは王太子殿下が本当は怖がっていることも、ずっと黙っていたわ」
王太子殿下が顔を上げる。
「私が、怖がっている?」
白薔薇は穏やかに答えた。
「あなたはいつも思っていた。父王のようにはなれない。母に失望されたくない。臣下に軽く見られたくない。だから、聞こえないふりをした。見えないふりをした。ミリアのことも」
王太子殿下の唇が震えた。
会議室の竜胆が、最後に言った。
「花は嘘を作らない。ただ、あなたたちが落としていった本音を抱えていただけ」
◇
そのころ、わたしは王都の外れにいた。
薬草診療所は、思っていたよりも小さかった。
白い壁はところどころ剥げていて、屋根には苔が生え、庭の薬草は好き勝手に伸びている。
でも、王宮より息がしやすかった。
「本当に来たんだな」
診療所の前で、リュカ・オルウェンが驚いた顔をした。
彼は若い薬草医で、以前、王宮庭園で余った苗を引き取ってくれた人だ。王宮の人たちみたいな華やかさはない。白衣の袖には薬草の汁がついていて、髪も少しはねている。
「人手を探してるって言ってたから」
「言った。言ったけど、王宮勤めを辞めてまで来るとは思ってなかった」
「辞めたの」
「え」
「昨日」
リュカは何か言いかけて、やめた。
聞きたいことはたくさんあったはずだ。
でも、彼は聞かなかった。
ただ、診療所の庭を指さした。
「じゃあ、まず休んでから、あの薬草を見てくれるか。根が詰まってる気がする」
わたしは庭にしゃがみ込んだ。
薬草は真聴花ではない。だから人の本音は喋らない。
ただ、葉が少しだけ乾いていて、土が固くなっている。
「水が足りないんじゃなくて、土が息をしてない」
「土が息?」
「根元を少しほぐして、腐葉土を混ぜれば元気になると思う」
「わかった」
リュカはすぐに鍬を持ってきた。
「変だと思わないの?」
「何が」
「土が息をしてない、とか。花に話しかける、とか」
リュカは少し考えてから言った。
「俺には聞こえない。でも、聞こえないものがないとは限らないだろ」
胸の奥が、ふっと軽くなった。
たったそれだけの言葉で、三年間抱えていたものが少し溶けた気がした。
「それに」
リュカは薬草の葉を見た。
「話しかけられて嫌がる生き物は、そんなに多くないと思う」
わたしは笑った。
王宮を出てから、はじめてちゃんと笑えた。
診療所には、真聴花がなかった。
誰かの嘘を吸いすぎて震える花もない。
本音を抱えて眠れない薔薇もない。
王妃様の涙を香りに変える百合もない。
あるのは、熱を下げる草。
傷をふさぐ葉。
咳を鎮める花。
そして、誰の秘密も吸わない土。
わたしはそこで、半日かけて薬草の根をほぐした。
夕方近くになって、診療所の前に王宮の馬車が止まった。
降りてきたのは、セドリックだった。
息を切らし、髪を乱し、いつもの整った文官服もどこか崩れている。
「ミリア」
わたしは薬草の鉢を抱えたまま振り向いた。
「何?」
「戻ってくれ」
その一言で、だいたい何が起きたのかわかった。
「花が喋った?」
セドリックは顔をこわばらせた。
「知っていたのか」
「昨日、言ってきたから。苦しかったら喋っていいよって」
「何てことを」
セドリックは額を押さえた。
「王宮中が混乱している。貴族たちは互いを疑い、財務卿は拘束された。王太子殿下は君を呼び戻せと命じている」
「そう」
「そう、じゃない。君なら止められるんだろう。花を黙らせられるんだろう」
「できるよ」
セドリックの顔が明るくなった。
「なら」
「でも、しない」
彼は動きを止めた。
「なぜ」
「もう辞めたから」
「君は自分が何をしているかわかっているのか、花が大変なことになっているんだぞ」
「大変なのは、花じゃなくて王宮でしょう」
「同じことだ」
「違うよ」
わたしは鉢を地面に置いた。
「花は、ずっと黙ってくれていただけ。あなたたちの嘘も、悪意も、悲しみも、ぜんぶ吸って。わたしはその花を眠らせていただけ。王宮を守っていたんじゃない。花を守っていたの」
セドリックは苦しそうに言った。
「それでも、君の仕事は必要だった」
「昨日不要って言われた」
「それは殿下が知らなかったからだ。僕だって、君がそこまでしていたとは」
赤薔薇の声が、ふと記憶の底で蘇った。
セドリックは、ミリアが本当にいなくなるとは思っていない。
「知ろうとしなかっただけでしょう」
セドリックは黙った。
その沈黙を破ったのは、リュカだった。
「彼女は昨日、ここに来たばかりだ。少なくとも今日は休ませたらどうだ」
セドリックがリュカを睨む。
「あなたには関係ない」
「ある。今日からうちの薬草係だから」
「薬草係?」
セドリックは信じられないという顔でわたしを見た。
「王宮に戻れば、もっと良い待遇にできる。僕から殿下に進言する。君の役職も復活するはずだ」
「戻らない」
「ミリア!」
セドリックの声が荒くなった。
「君は昔からそうだ。自分の聞こえるものばかり信じて、周りを困らせる。少しは普通に」
「普通って何?」
わたしの声は静かだった。
「聞こえないふりをすること? 苦しんでる花に黙ってって言うこと? 笑われても平気な顔をすること? 手柄を取られても、邪魔になったら捨てられても、呼ばれたら戻ること?」
セドリックの顔から血の気が引いた。
「わたし、もう普通じゃなくていい」
リュカが、何も言わずにそばに立っていた。
味方ですらない。
わたしの代わりに怒るわけでもない。
ただ、わたしが自分で話し終えるまで、黙ってそこにいた。
それが嬉しかった。
「王宮に伝えて」
わたしはセドリックに言った。
「花は、飾りではありません。ずっと、あなた方の代わりに黙っていただけです」
「それで済むと思っているのか」
「済ませるのは、あなたたちの仕事」
「殿下が直接来るぞ」
「来ても同じことを言う」
セドリックはしばらくわたしを見ていた。
その目には、怒りと焦りと、少しだけ後悔のようなものがあった。
けれど、そのどれも、もうわたしを引き戻す力はなかった。
「君は変わった」
「うん」
わたしは頷いた。
「やっとね」
◇
王太子殿下が来たのは、翌日の朝だった。
さすがに馬車は質素だった。護衛も少ない。
けれど、顔色は悪かった。
王宮ではまだ花が喋り続けているらしい。
財務卿の横領は白日の下にさらされ、宰相補佐は謹慎。いくつかの貴族家では、婚約話が白紙になった。逆に、互いに言えなかった本音が花によって明かされ、仲直りした夫婦もいたという。
花は嘘も暴くが、優しさも暴く。
厨房のバジルは、新人料理人をかばい続けた料理長の本音を喋った。
近衛隊の詰所にあった鉢植えは、若い兵士が故郷の母に会いたがっていることを話した。
王妃様の白百合は、王太子殿下を愛しているという本音を、一晩中喋り続けたらしい。
殿下は診療所の庭で、わたしに頭を下げた。
「戻ってほしい」
王族が平民上がりの花師に頭を下げる。
それを見て、リュカが目を丸くした。わたしも少し驚いた。
でも、答えは変わらなかった。
「戻りません」
殿下は顔を上げた。
「条件は出す。役職も待遇も改める。君の功績も正式に認める。沈黙花師を王宮の正式な職として」
「遅いです」
敬語が少しだけ出た。
王太子相手だからではない。
昨日まで働いていた場所に、ちゃんと別れを言うためだった。
「殿下は、王宮に花が必要だからわたしを呼びに来たんですよね」
「ああ」
「わたしが必要だからではなく?」
殿下は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「なら、戻れません」
「……君は、私を恨んでいるか」
考えた。
恨んでいないと言えば嘘になる。
怒っていないと言えば、それも嘘だ。
けれど、わたしの中にある一番大きな感情は、もうそれではなかった。
「疲れました」
わたしは正直に言った。
「誰かが嘘をつくたびに花が苦しんで、それを眠らせて、朝になったら何もなかった顔をする。そういう場所に戻るのは、もう嫌です」
「王宮は、変わる」
「変わるなら、花を黙らせないところから始めてください」
殿下は眉を寄せた。
「花を喋らせたままにしろと?」
「はい」
「王宮中の秘密が筒抜けになる」
「秘密を花に押しつけなければいいだけです」
リュカが小さく笑った。
王太子殿下は、苦虫を噛み潰したような顔をした。
けれど、反論はしなかった。
「花が喋る王宮など、まともに政治ができない」
「嘘を花に隠してもらわないとできない政治なら、もともとまともじゃないんじゃないですか」
庭に風が吹いた。
薬草の葉が揺れる。
真聴花ではないから、何も喋らない。
それでも、わたしには聞こえた気がした。
大丈夫、と。
王太子殿下は長い間黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「母が、君に謝りたいと言っていた」
「王妃様には、白百合の水を朝に替えてあげてくださいと伝えてください。夜の涙を吸っているので、朝には少し苦くなっています」
「……まだ、気にかけるのか」
「王妃様じゃなくて、百合を」
殿下は、初めて少しだけ笑った。
「そうか」
彼は踵を返しかけて、もう一度振り向いた。
「ミリア・リース」
「はい」
「君は王宮に戻らない。そうだな」
「はい」
「なら、せめて教えてほしい。花とどう向き合えばいい」
わたしは少し考えた。
「嘘をつかないことは、たぶん無理です」
「最初から厳しいな」
「人間だから。でも、嘘をついたあと、それをなかったことにしないでください。花は、捨てられた本音を吸います。言えなかった言葉、隠した怒り、飲み込んだ悲しみ。そういうものが溜まると、苦しくなる」
「なら、どうすればいい」
「話せばいいと思います。人と。ちゃんと。花に吸わせる前に」
殿下は、静かに頷いた。
「わかった」
彼が本当にわかったのかは知らない。
でも、少なくともそのときだけは、聞こえないふりをしていなかった。
◇
それからしばらく、王宮は大変だったらしい。
花を全部抜こうとした貴族は、自分の胸飾りの花に「昨日、妻への贈り物を侍女に選ばせた」と叫ばれた。
会議室では、本音を喋る竜胆の前で誰も下手な嘘をつけなくなった。
王太子殿下は、最初の一ヶ月、毎朝白百合の水を替えに王妃様の部屋へ行ったという。
白百合はある日、こう言ったらしい。
「王妃様は、今日とても嬉しいわ。でも照れているから、王子に『早く仕事へ行きなさい』と言うつもりよ」
王妃様は真っ赤になり、王太子殿下は声を出して笑ったと聞いた。
セドリックは、王宮文官を辞した。
彼の手柄のいくつかが、わたしから奪ったものだと明らかになったからだ。
一度だけ、手紙が届いた。
謝罪の言葉が並んでいた。
昔の自分は君の声を信じていた。
いつから信じることより、信じていると思われることを恐れるようになったのかわからない。
君に戻ってほしいとはもう言わない。
ただ、笑ったことを謝りたい。
わたしは返事を書かなかった。
でも、その手紙を燃やしもしなかった。
診療所の古い引き出しにしまった。
許したわけではない。
忘れたわけでもない。
ただ、わたしの毎日はもう、セドリックへの怒りだけでできていなかった。
診療所の庭は忙しい。
熱冷ましの草は気難しく、水をやりすぎるとすぐ根腐れする。
咳止めの花は朝日が好きで、夕日が嫌い。
傷薬に使う葉は、リュカが雑に摘むとすぐ苦くなる。
「リュカ、葉っぱに嫌われてる」
「葉っぱに好かれる方法を教えてくれ」
「まず、摘む前に謝る」
「本当に?」
「本当に」
リュカは真面目な顔で葉に向かった。
「すまない。患者に必要なんだ。少し分けてくれ」
わたしは笑った。
「何だ」
「ちゃんと言うんだと思って」
「君が言えと言った」
「うん」
「嫌がってるか?」
「嫌がってない。ちょっと偉そうって思ってる」
「葉が?」
「うん」
リュカは眉を寄せた。
「薬草にも性格があるのか」
「あるよ」
「じゃあ、俺は今までだいぶ失礼だったな」
そう言って彼は、次から本当に薬草に挨拶するようになった。
花の声は聞こえなくても、聞こうとする人はいる。
そのことを、わたしは王宮の外で知った。
◇
春が来た。
診療所の庭に、一本の白薔薇を植えた。
王宮の白薔薇から、最後の夜に分けてもらった小さな枝だ。
リュカは心配そうに鉢を覗き込んだ。
「これは、喋るのか?」
「たぶん」
「王宮みたいに?」
「ううん。この子はまだ、誰の秘密も吸ってないから」
「じゃあ、何を喋る」
わたしは白薔薇の小さな蕾を見た。
まだ声はしない。
けれど、根が土を探っている気配があった。
「お腹すいた、とか」
「花も腹が減るのか」
「たぶんね」
リュカは少し笑って、白薔薇のそばに水を置いた。
「なら、ここでは変なものを吸わせないようにしないとな」
「嘘をつかないつもり?」
「無理だな」
「だよね」
「でも、ついたらなるべく自分で片づける。花に押しつけない」
わたしは彼を見た。
その横顔は、王宮の誰よりも地味だった。
王太子殿下みたいに輝く金髪ではないし、セドリックみたいに整った制服も着ていない。
袖には土。
頬には薬草の汁。
爪の間には、わたしと同じように黒い土が入っている。
でも、その手は花を乱暴に切らない。
「リュカ」
「何だ」
「ありがとう」
「何に?」
「聞こえないものを、ないことにしないでいてくれて」
リュカは照れたように目をそらした。
「俺は医者だからな。見えない痛みも、ないことにしたらまずい」
白薔薇の蕾が、ほんの少し揺れた。
声はまだ聞こえない。
でも、急がなくていい。
ここでは、誰も花に黙れと言わない。
誰もわたしに、普通になれと言わない。
王宮ではその後、「花の前で嘘をつくな」という奇妙な決まりができたらしい。
謁見の間の赤薔薇は、今でもときどき貴族の見栄を暴く。
会議室の竜胆は、怪しい予算案が出るたびに咳払いをする。
王妃様の白百合は、王太子殿下が水を替え忘れると「親不孝」と呟くという。
王宮は以前より、少しだけ静かではなくなった。
でも、少しだけ息がしやすくなったとも聞く。
わたしはもう、王宮の花を眠らせに行かない。
夜ごと嘘を土へ返すこともない。
誰かの本音を黙って抱えた花に、「我慢して」と囁くこともない。
診療所の庭で、白薔薇の蕾が開いた。
春の朝だった。
リュカと並んで見ていると、白い花弁が朝露を弾いた。
そして、とても小さな声で言った。
「おはよう」
わたしは笑った。
「おはよう」
リュカが目を瞬かせる。
「今、喋ったのか?」
「うん」
「何て?」
「おはようって」
彼は真剣な顔で白薔薇に向き直った。
「おはよう」
白薔薇はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、春の光の中で静かに咲いていた。
その花は、王宮の白薔薇のように人の嘘を暴かなかった。
誰かの秘密を吸って震えることもなかった。
胸の奥に沈めた本音を、勝手に喋り出すこともなかった。
ただ、診療所を訪れる人の肩から、ほんの少し力を抜くような香りがした。
わたしが辞めた翌朝、王宮の花はぜんぶ本音を喋りはじめた。
そしてわたしの庭の花は、ようやく黙って咲けるようになった。




