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山火事

仕留めた大鹿の血抜きを終え、解体した肉を町の共同作業場に吊るした頃には、日は沈み寒さが押し寄せてきた。


ゲリットは猟で使用した刃の汚れを丁寧に拭き取りながら、自分の小屋へと足を踏み入れた。使い込まれた革鎧を脱ぎ、弓と矢筒を壁の定位置に掛ける。ようやく訪れた一日の終わりの静寂。土間の椅子に深く腰を下ろし、ふうと長く息を吐き出した、その時だった。


――ピカッ、と。


窓の外が、不自然なほど白く輝いた。

落雷か。いや、空は晴れていたはずだ。ゲリットは訝しげに立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。外の様子を確かめようと、木枠に手を伸ばした瞬間。


鼓膜を破るような轟音とともに、世界が吹き飛んだ。


視界が激しく回転し、圧倒的な質量の「力」が小屋を丸ごと粉砕した。ゲリットの体は木の葉のように宙を舞い、次の瞬間には降り注ぐ瓦礫の下敷きとなっていた。


「あ……、うぅ……っ」


全身の骨が軋むような激痛に、くぐもったうめき声が漏れる。口の中は土と血の味がした。

ひどい耳鳴りが「キィィィィン」と脳内を掻きむしり、平衡感覚が狂っている。ゲリットは痛む腕に無理やり力を込め、のしかかる太い梁を渾身の力で押し退け、なんとか這い出した。


そこに広がっていたのは、馴染みの町はなく平たくなった残骸だった。


密集していたはずの家屋群は無惨にひしゃげ、猛烈な炎を上げて燃え盛っている。人口が多い分、惨状も凄まじかった。耳鳴りがひどく何も聞こえない、人々の絶叫と泣き叫ぶ声がすべて遠くに聞こえる。町民たちが火だるまになって転げ回り、あるいは崩れた建物の下敷きとなって助けを求めている。

見上げると、町を囲む山が業火に包まれていた。赤黒い炎が天を焦がし、突風に乗って無数の火の粉が雪のように町へと降り注いでいる。


「熱ッ……!」


頬に落ちた火の粉を払い除け、ゲリットは絶望的な状況に歯を食いしばった。火の勢いが異常だ。普通の火災の熱量ではない。

視線を巡らせると、崩壊した中央広場の方で、町の薬師兼魔法使いであるアデバヨが、必死に防壁の結界と水の魔法陣を展開しようとしているのが見えた。しかし、山全体を焼く異常な熱波と、焼けていく家屋の多さの前に、彼の魔法すらも焼け石に水だった。


「川だ! 町の外れの川へ逃げろ!!」


ゲリットは喉が裂けるほどの声で叫んだ。

すでに全身が炎に包まれている者を助ける余裕はない。燃え盛る柱を蹴り飛ばし、瓦礫の隙間から這い出ようとしていた隣人の腕を乱暴に掴み上げて引きずり出す。


「歩ける者はこっちへ来い! アデバヨ、前を歩いて魔法で火の粉を弾け!」


すべてを救うことはできない。その残酷な事実を猟師の勘で悟ったゲリットは、猛烈な熱波に皮膚を焼かれながら、手の届く範囲の者だけを強引に引き連れ、水場へと必死に駆け出した。


 ザバンッ、と重い水音が夜の闇に響いた。


ゲリットは、衣服を焦がし泣き叫んでいた若い男を抱えたまま、凍てつく川の淀みへと転がり込んだ。ジュウウウ、と焼け焦げた肉と布が急速に冷やされる不気味な音が鳴る。

続いて、数人の町民が、息も絶え絶えに水面へと倒れ込んできた。


「……ゲホッ、ガハッ!」


肺に入った水を吐き出しながら、ゲリットは浅瀬の泥濘に這いつくばった。振り返った彼の目に映ったのは、もはや「火災」などという生易しい言葉で表せる光景ではなかった。山のすべてが燃え一つの炎という生命体にすら見えた。


「なんなんだ、あれは……」


泥まみれになったゲリットは、中州から自分の町だった場所を見つめ、呆然と呟いた。

炎の色がおかしい。赤や橙ではなく、悍ましい紫や、光を吸い込むような漆黒の炎が舐め回すように建物を崩していく。炎が舐めた場所からは「空間そのもの」が溶け落ちるように歪み、燃え尽きたはずの柱や死骸が、あり得ない形に捩じ曲がりながら蠢いていた。物理法則も、生命という概念すらも炎に汚染され、崩壊していく光景。


「……王都の方角だ」


川縁の石にすがりつきながら、アデバヨが血を吐くような声で呻いた。彼の瞳には、魔法使いとしての発達した視覚が捉えた真の絶望が映っていた。


「熱や火じゃない……空間と理そのものの揺らぎだ。王都の方角から、呪いそのものが広がってきているんだ……!」

「広がる? どこまでだ」

「分からない! だが、ここにいたら……あんな風に、生きたまま肉体も魂も違う『何か』に作り変えられちまう……!」


アデバヨが指差した先では、逃げ遅れた町民たちが黒い炎に包まれながら、悲鳴すら上げられず、泥や樹木と融合したような異形の肉塊へと変貌していくところだった。


ゲリットは奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めた。

助け出せたのは、自分の足元で震えているたった三人の町民と、アデバヨだけだ。昨日まで笑い合っていた隣人たちも、狩りの獲物を売っていた肉屋も、すべてあの悍ましい汚染の中に消えた。


ほかの町民もどこかで逃げ出しているかもしてない。しかし、探している余裕はない。猟師の直感が、背筋が凍るような警告を発し続けている。あれに追いつかれれば、死以上の絶対的な破滅が待っている。


「……立つんだ」


ゲリットは、背中に背負ったままだった濡れた弓の弦を確かめ、重い声で言った。


「ゲリット……?」

「泣くのは後だ。歩ける奴は立て! 歩けない奴は俺が担ぐ!」


痛みにうずくまる町民の襟首を掴み、強引に引き起こす。


「アデバヨ、お前は魔法で周囲の汚染を少しでも遅らせろ。俺が先頭を歩く」

「どこへ逃げるつもりだ!? 王国全土が呑み込まれるかもしれないんだぞ!」

「なら、国の外まで歩き続けるだけだ。あの理不尽が届かない場所までな」


燃え盛る故郷と、空を覆い尽くす異界のオーロラのような汚染の光を背に、ゲリットは振り返ることなく歩み始めた。

水と泥に塗れた五人の生存者たちは、状況もよくわからないまま国境線に向け歩き始めた。

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