スカートの中の秘密①
白い光が視界を埋め尽くし、次の瞬間——世界がひっくり返った。
目を開けると、そこは高原だった。
若葉が風に揺れ、草は柔らかく茂り、どこまでも続く青空が頭上に広がっている。
空気は澄み切っていて、深く吸い込むだけで肺の奥が洗われるようだった。
土の匂い。
草の香り。
そして、耳に痛いほどの静けさ。
——ああ、ここは日本じゃない。
理由は説明できないのに、確信だけがあった。
この透明すぎる空気も、この果てしない地平も、俺の知っているどの土地にも当てはまらない。
その時、背中にずしりとした重みを感じた。
「……重っ」
反射的に身体を捻り、近くを流れる川を覗き込む。
水面に映ったのは——俺じゃなかった。
そこにいたのは、剣を腰に差し、盾を背負った青年。
見覚えのある顔。
というより、見慣れすぎた顔。
「……オデッセ?」
ゲームの中で何百時間も見続けた、自分の操作キャラ。
無駄に整った顔立ち。無駄に映える体格。
「うわぁ……マジだ」
思わず声が漏れる。
「というか、いわゆる転生ってやつじゃん、これ。まぁ……前より男前だから、良しとするか」
どうせ一度死んだ身だ。
神にどう再利用されようが、今さら文句を言う筋合いもない。
「……とはいえ、死因がエナドリっぽいのはちょっと嫌だなぁ。もう少しこう、マシな最期がよかった。派手なやつ」
愚痴を零しても、空は黙ったままだ。
仕方がない。
やることは決まっている。
サブクエをこなして、ポイントを稼いで、願いを叶える。
「“願い”——か……」
俺はしばらく高原を見渡していた。
——その時。
遠くから、耳を引っ掻くような、悍ましい獣の声が響いた。
ぞわり、と背中を冷たいものが走る。
俺の中で、時間が止まった。
心臓が一拍、遅れて鳴り出す。
全身に鳥肌が立ち、無意識のうちに息を殺していた。
……ヤバい。
これは本能の警告だ。
ゲームじゃない。リスポーンもセーブもない。
声の主は、俺の予想よりもずっと早く姿を現した。
木々の陰から、ぬうっと現れる巨大な影。
トカゲと恐竜の中間のような体躯。
全身を覆う鱗は鈍く光り、地面を抉る鋭利な爪と、肉を裂くためだけに存在する牙。
それはもう、捕食者として完成された形をしていた。
喉が、勝手に鳴る。
「……待て待て待て、こいつは……まさか——バジリスクか!?」
ゲームやアニメなら、多分、序盤の強敵だろう。
しかし、生で見ると、それは——即死級の脅威。
獲物を見つけたバジリスクは、ためらいなく猛進してきた。
視線が、完全に俺を捉えている。
地をえぐる爪音。荒い息遣い。顎から垂れる唾液が陽光を弾き、獣の本能だけで突き進む巨大な影が迫る。
——食われる。
そう理解した瞬間、身体が固まった。
腰に差した剣に手を伸ばす余裕すらない。今までは△ボタン一つで済んでいたのに。
盾を構えるか? いや、無理だ。頭ではわかっているのに、身体が追いつかない。
視界いっぱいに迫る、禍々しい顎。
並んだ牙の一本一本が、やけに現実味を帯びて見えた。
俺は歯を食いしばり、反射的に目を閉じた。
——その瞬間だった。
バシュッ、と空気を裂く鋭い音。
続いて、肉を断つ嫌な感触を伴う音と、「ギャン」という、情けない悲鳴。
先程まで空間を満たしていた殺気が、嘘のように霧散した。
「……え?」
恐る恐る目を開ける。
バジリスクの左目に、一本の矢が深々と突き立っていた。
巨体がよろめき、怒りと痛みに満ちた咆哮を上げる。
視線を辿ると、木々の陰に揺れる人影があった。
細く、華奢な輪郭。
次第に姿を現す、淡いピンク色の髪。
黒を基調とした正装に、腰の剣。スカートタイプの制服——騎士の装いだ。
手元には、まだ弦の震えが残るボウガン。
俺を救ったのは、間違いなく——彼女だった。
少女は一切の迷いなく、ボウガンを放り捨てる。
同時に剣を抜き、バジリスクとの距離を一息に詰めた。
地面すれすれを滑るような剣先が草を薙ぎ、風を生む。
斬られた葉が宙を舞い、その軌跡は、まるで意思を持った旋風のようだった。
旋風はバジリスクの巨体を正面から飲み込み——
少女は剣を上向きに突き立てる。
逆手に持ち替え、鱗を剥がすような力使いで、刃を体内へ押し込む。
狙いは一点。迷いはない。
剣先は心臓部に到達した。
完璧な致命傷。
バジリスクは喉を震わせ、かすかな声を漏らしただけで沈黙した。
巨体が地に倒れ伏すのと同時に、少女は剣を引き抜き、血を一振りで払う。
……終わった。
「つ、強ぇ……」
思わず声が漏れた。
「ありがとうございます! 本当、助かりました!」
少女は剣を鞘に収め、長いピンクの髪についた草を指で払う。
白い肌に、彫刻の見本みたいに整った顔立ち。
前世にいたら、確実に国宝扱いだ。間違いない。
ただ一つ、違和感があった。
黒基調の制服は所々が破れ、色も褪せている。新品とは程遠い、年季の入り方だ。
それに——
この顔、どこかで見覚えがある。
確か、あの“神”が見せてきた映像の中にいた……勇者の一人。
職業は、たしか“魔法使い”だったはずだが。
「……何、じろじろ見てるの」
透き通るような声。
あれだけ豪快にバジリスクを仕留めた人物とは思えないほど、静かだった。
「あ、いや……もしかして、知ってる人かもって」
「私は、あなたのこと知らない」
そう言いながら、彼女はスカートについた草を払う。
そして、ちらりとこちらを見て——
「てか、あなた。私が戦ってる最中、スカートの中見てたでしょ」
……否定できない。
だが不可抗力だ。というか、そもそもこの短さはどうなんだ。
普通は中にレギンス履くやつだろ。
なんで生足むき出しで、こんなに色っぽい装備なんだよ。
「鑑賞料、10ゴル」
真顔で手を差し出してくる。
「……10ゴルって、どのくらい?」
「豚肉二枚」
「よくわかんないけど、もうちょっと価値あってもいいと思うが」
「え、あ……そう?」
少女はピンクの髪を人差し指に絡め、わずかに視線を逸らした。
ほんの一瞬、照れたように。
「その、聞きたいんだけど……君って、魔法使いだったりしない?」
自分でも曖昧だとわかる言い方だった。
記憶の中の名前が、どうしても霧がかかったみたいに定まらない。
「名前は確か……“サスペンション”、みたいな。そんな感じの」
少女は一度、口を閉ざした。
風が草を撫でる音だけが、その場を満たす。
そして、
「……知らない」
否定なのに、即答ではない。
まるで“答えないこと”を選んだような言い方だった。
「え、でも——」
「私は“竜騎士”よ」
ぴしり、と空気を断ち切るように言い切る。
「りゅ、竜騎士?」
「そう」
少女は腰に手を当て、剣の柄に親指をかける。
「ドラゴンすらも、この剣で討つ存在。騎士の中でも最上格に位置づけられる称号よ」
黒基調の制服を、誇らしげに示す。
「この服は、その証。ただの騎士候補や、見習いが着られるものじゃない」
「……なるほど」
さっきの動きを思い出す。
迷いのない踏み込み、鱗を剥がす剣筋、心臓を正確に貫く一撃。
確かに、ただ者じゃないのは確かだろう。
「へぇ……君、相当強いんだな。騎士として」
そう言うと、少女は一瞬だけ口角を上げた。
「ふふん」
胸を張り、ほんの少し顎を上げる。
「まぁね。“強い”って言われるのは、嫌いじゃないわ」
その表情は、年相応の得意げさを隠しきれていなかった。
そして——
彼女の自慢げな態度に、まるで呼応するかのように。
空が、蠢いた。
低く、腹の底を殴るような振動。
それは音というより、圧だった。
バジリスクの咆哮など、比べものにならない。
爆発が、空の向こうで起きたかのような轟き。
空気が裂け、雲が押し退けられ、
“それ”は巨影とともに降ってきた。
「「ドラゴン!?」」
二人の声が、完全に裏返った。
着地の衝撃で地面が跳ねる。
次の瞬間、巨大な翼が広げられ、背後の空そのものが塞がれた。
でかい。
いや、でかすぎる。
翼の一振りで台風みたいな暴風が巻き起こり、木々が根こそぎ倒される。
砂と葉と小石が弾丸みたいに飛び交い、俺たちは反射的に地面へ伏せた。
両手で地面を掴まないと、吹き飛ばされる。
視界の端で、巨大な鱗が光る。
車ほどもある顎。
垂れる唾液。
瞳は、獲物を見下ろす捕食者のそれだった。
「き、騎士様!!」
俺は必死に叫ぶ。
「めっちゃ強そうなの来たけど!! ほら、竜騎士なんだよね!? やっちゃってください!!」
縋るような声だった。
だが——
「……ごめん」
彼女の声は、驚くほど静かだった。
「無理」
「……へ?」
間抜けな声が、喉から零れる。
彼女は一歩、後ろへ下がり、もはや、さっきまでのドヤ顔は影も形もなかった。




