98,必要な敵
敵の存在は国内を結束させる。
当時のアメリカは国内の分断がそこまで深刻でした。
1964年1月 ワシントンD.C. 国防総省
南ベトナムのジエム政権の崩壊は誤算だった。
そこまでは、もう国防総省の中でも共有されていた。
共有されていた、というより、
それ以上否定できなかったという方が近い。
問題は、その先だった。
誤算があったから、引くのか。
誤算があったから、もっと深く入るのか。
それとも、誤算を誤算のまま抱えた上で、別の形に組み直すのか。
国防総省の空気は、その問いに苛立っていた。
※※※※※※※※※※
長官室には、昼の光が浅く差していた。
ロバート・マクナマラ長官は机の上に三枚の紙を並べていた。
私は向かいに座り、何も書かずに待った。
「ミス・ハリントン。」
「はい。」
「前回、あなたは言いました。誤算は、相手を合理で動かせる対象として見たところから始まったと。こちらが定義すれば、敵も味方も反発すると――。」
「はい。」
「その通りだと思います。」
長官はあっさり言った。
私は少しだけ意外に思った。
この人は、自分の間違いを認めない人ではない。
ただ、認めたあとでも止まらない人なのだ。
長官は一枚目の紙を指で押さえた。
「では、最初の選択肢です。引く。」
紙には短く、数字と箇条書きが並んでいた。
「関与を縮小する。責任を限定する。南ベトナムの混乱は南ベトナムの問題として扱う。道徳的には、もっとも穏当です。」
「ですが。」
私は言った。
「政治的には、もっとも危ない。」
長官は私を見た。
少しだけ口元が動く。
「ええ。」
二枚目の紙に手が移る。
「二つ目。全面的に踏み込む。」
私は紙を見る前に分かった。
この省の一部が、いちばん好む答えだった。
「強い関与を明確に示す。曖昧さをなくす。相手にも味方にも、我々が本気だと分からせる。」
「最も分かりやすい方法です。」
「ええ。軍には好まれるでしょう。」
私は三枚目の紙に目をやった。
長官はまだそれに触れない。
「ですが、それは閣下のお考えではない。」
「そうです。」
長官は言った。
「全面戦争は、管理できない。」
その言葉に、この人の本質が出ていた。
善悪ではない。
管理できるかどうかだった。
「では三つ目ですね。」
私が言うと、長官は最後の紙に指を置いた。
「限定的な圧力です。」
部屋が静かになった。
「引かない。だが、全面的にも行かない。相手にこちらの意思を伝えるだけの力は示す。制服組には後退ではないと見せる。議会と世論には無謀ではないと見せる。」
私はその紙を見た。
短い文のあいだに、長い計算が詰まっていた。
「つまり。」
私は言った。
「必要なのは勝利ではなく、崩壊を先送りすることですね。」
長官は黙った。
否定しない沈黙だった。
「国を割らせないために。」
私は続けた。
「外で、ある程度明快な姿勢を見せる。そうしないと、内側の不安が全部こちらへ戻ってくる。」
「そうです。」
長官はやっと答えた。
「今のアメリカは、引くという動作に耐えられません。」
その言い方は、奇妙に正直だった。
私は少しだけ視線を落とした。
「分かりやすい敵が必要なのですね。」
長官は、そこで初めて少し不快そうな顔をした。
「その言い方は、好みません。」
「ですが、違いません。」
長官は返事をしなかった。
私は続けた。
「外に明確な敵がいないと、内側の不安は内側へ向かいます。軍部の不満も、政権の脆さも、世論の苛立ちも、全部国内に返ってくる。だから、敵を管理しなければならない。」
「管理できる敵なら、です。」
長官が静かに言った。
「そこが問題です。」
私はうなずいた。
「はい。」
ここで私は、あの会議のあとの言葉を思い出していた。
人を動かせる対象として見たところから誤算が始まる。
それなのに私たちは、
また同じ前提の上に立っていた。
「閣下。」
「何ですか。」
「それでも三つ目を選ぶのですね。」
長官はためらわなかった。
「ええ。」
「なぜ。」
長官は机の上の紙を見たまま答えた。
「一つ目は、内側を壊すからです。二つ目は、外側まで壊す。三つ目は、その中ではいちばん長く持つ。」
私はその言葉を、しばらく黙って聞いた。
長持ちする。
それは勝利ではない。
正義でもない。
延命だった。
その時、ふいに父の義足の音を思い出した。
硫黄島で片足を失った父は、幸福だったわけではない。
だが、自分が何のために傷ついたのかを、少なくとも途中で見失わずに済んだ世代の人でもあった。
代償は大きい。
その代償を、美しく言い換えるつもりはない。
けれど、外に敵がいた時代には、国が一つである感覚が、まだ残っていた。
今のアメリカには、それがない。
内側は裂けている。
言葉は増えたのに、何のために傷つくのかを共有できなくなっている。
だからこそ、外に向かう緊張が、内側を束ねる力として必要になる。
その理屈が、嫌になるほど分かってしまった。
「マキャヴェリみたいですね。」
思わずそう言うと、長官は少しだけ目を上げた。
「褒め言葉ですか。」
「いいえ。」
私は正直に言った。
「ですが、国家の話としては、たぶん正しいですわ。」
長官はそこで初めて、ほんの少しだけ笑った。
「あなたは、都合の悪い言い方をしますね。」
「記録係ですので。」
「ええ。困ったことに。」
長官はそう言って、三枚の紙を重ねた。
「ミス・ハリントン。これは道徳の話ではありません。」
「分かっています。」
「国を保つ話です。軍の分断だけでない。国内の政治的な分裂、それを保つ話ためのです。」
「はい。」
「それでも、私は全面戦争は避けたい。」
「はい。」
「将軍たちにも、議会にも、国民にも、後退ではない形でそれを見せなければならない。」
私は少しだけ息を吸った。
その瞬間、長官が考えていることが、嫌になるほどよく分かった。
必要なのは、
大きすぎる勝利ではない。
分かりやすすぎる敗北でもない。
制御された緊張。管理された敵。限定された危機。
そういうものだった。
「閣下。」
「何ですか。」
「そういうやり方は、いちばん難しいと思います。」
長官は静かに聞いていた。
「大きな戦争を避けようとする分だけ、危機を小さく見積もるからです。管理できると思う。限定できると思う。相手も、こちらの意図の範囲で動くと思ってしまう。全体をコントロールするのは至難の技と思います。」
「それでも、今は他にない。」
「はい。」
私は答えた。
「たぶん、ありません。」
その答えは本心だった。
そして、そう思ってしまう自分が嫌だった。
長官は立ち上がった。
会話は終わりだった。
「ミス・ハリントン。」
「はい。」
「今の話は、外へ出さないでください。」
「もちろんです。」
「ですが、記録は残してください。」
「どこまで。」
長官は少しだけ考えた。
「私が何を選ばなかったかも含めて。」
私はうなずいた。
「分かりました。」
長官は窓の外を見たまま、最後に言った。
「国は、ときどき、正しいことだけでは保てません。」
私は返事をしなかった。
その言葉が正しいかどうか、まだ判断できなかったからではない。
もう、あまりに正しすぎる気がしたからだ。
廊下へ出ると、空気は変わっていなかった。
白く、乾いていて、静かだった。
私は手帳を抱えたまま歩いた。
その時の私は、まだ信じていた。
必要な敵を、
必要な大きさにとどめ、
必要なだけ利用して、国の内側を割らせずに済ませることが、まだ人間にできるのだと。
国内の分裂を外に向けるための敵としてベトナムを見せることが必要になります。
ベトナム戦争本格参戦のきっかけはアメリカによる工作という意見が歴史では主流です。
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