96,反発と自己決定
変わろうとしているとき、それを押しつけられると反発してしまう。そんな心理が国や国民をシンプルに分断してしまう――。私の解釈です。
1964年1月 ワシントンD.C. 国防総省
国防総省の廊下は、ホワイトハウスより静かだった。
人が少ないわけではない。軍服もいるし、背広もいる。電話も鳴る。
ただ、誰もが自分の声を少しだけ抑えて歩いている。
ここでは、大きな声は自信ではなく、統制のなさに見えるのだろう。
案内の若い士官が、一枚の扉の前で止まった。
「こちらです、ミス・ハリントン。」
私はうなずいた。
採用面接ではない。辞令はもう出ている。
それでも、ただの挨拶では終わらないことくらいは分かっていた。
ノックのあと、短い返事があった。
「どうぞ。」
※※※※※※※※※※
ロバート・マクナマラ長官は、机の後ろではなく、窓際に立っていた。
最初に受けた印象は、整っている、だった。
背が高い。姿勢がいい。無駄がない。
数字と統計だけでできた冷たい機械のような人を、私はどこかで想像していたのかもしれない。
思っていたより若く、人間の顔をしていた。
長官は振り向き、私を見た。
「ミス・ハリントン。」
「はい。」
「お越しいただき、ありがとうございます。どうぞお掛けください。」
私は椅子に腰を下ろした。
長官も向かいに座り、机の上の薄い書類を指先でそろえた。
「経歴は拝見しました。学生新聞、CIA、ホワイトハウス。なかなか変わった経歴ですね。」
私は少しだけ首をかしげた。
「大学の助教授から軍、フォードの社長を経て国防長官になられた閣下ほどではありません。」
一瞬だけ、部屋が静かになった。
言いすぎたかと思うより早く、長官の口元がわずかに動いた。
「なるほど確かにそうですね。」
「失礼でしたらお詫びします。」
「いえ。」
彼は書類を閉じた。
「その返しを最初にしてくるあたり、大統領の評判は正しかったようです。」
空気が少しだけやわらいだ。
ちょうどいい。ここで笑いが起きると、相手は次の言葉を選び直す。
選び直した言葉には、その人の癖が出る。
長官は続けた。
「辞令はもう出ています。ですから、今日は採用の可否を決める場ではありません。」
「はい。」
「大統領から、あなたのことは聞いていました。記録は正確だ。しかも、記録以上のものを運んでくる。ただ、その割に自己主張しない。そういう話でした。」
私は黙っていた。
褒め言葉にも、警戒にも聞こえたからだ。
長官は少しだけ口元を緩めた。
「欠点も聞いています。都合の悪いことも、そのまま事実として持ってくる。女性なのにずけずけしている、と。」
「お聞きになった、順序が少し気になりますわ。」
「でしょうね。」
「ですが、そこまで大統領がお話しになったということは、閣下は私を試すつもりで呼ばれたわけではないのですね。」
長官の目が、少しだけ細くなった。
質問の形をしているが、半分は確認だった。
この人は、自分が会話の主導権を握っていると思っている。そこを否定する必要はない。ただ、整理の仕方だけをこちらに寄せればいい。
「どういう意味でしょう。」
「私に能力があるかどうかは、もう十分お聞きになっている。」
私は言った。
「それでも私をここに置く以上、確かめたいのは能力ではなく、見方でしょう。」
長官はすぐには答えなかった。
当たっている時、人は否定を急がない。
やがて彼は、机の上の紙から手を離した。
「ええ。私から大統領に相談したのです。」
私は何も言わず、続きを待った。
「私は政治家と話す時には、だいたい困りません。議会にも、記者にも、数字の言葉を翻訳して説明できます。ですが、省の中ではそれがうまくいかない。とくに制服組には。」
ここで初めて、この場の本当の用途が見えた。
人事の確認ではない。伝わらないことについての相談だ。
「こちらは合理的に話しているつもりでも、向こうには冷たく聞こえる。慎重に組み立てているつもりでも、弱腰に聞こえる。将軍たちには、かなり手を焼いています。」
私はそこで初めて、少しだけ身を乗り出した。
「それで、大統領は私を。」
「ええ。」
長官はうなずいた。
「あなたなら、会議で何が決まったかだけではなく、どこで話がねじれたのかまで見てくるだろう、と。」
「便利な人もいるものですね。」
「便利です。スパイ向きです。」
長官はそこで初めて、もう少しはっきり笑った。
「そういう評判も聞いています。ダレスにも気に入られていたそうですね。」
私は肩をすくめた。
「ワシントンは、人事より先に噂が届く街ですから。」
「その通りです。」
短いやりとりだった。
でも、ここで部屋の空気はもう変わっていた。
※※※※※※※※※※
最初は、長官が質問し、私が答える部屋だった。
今は違う。
私は答えているように見せながら、この人がどこで困っていて、何を自分で言いにくいのかを先に並べている。
人は、自分の悩みを正確に言い当てられると、その先の会話を相手に委ねやすくなる。
長官は指先で机を軽く叩いた。
「ミス・ハリントン。大統領は、なぜあなたをここへ送ったのだと思われますか。」
私はすぐには答えられなかった。
大統領が私をどう見ていたのか。
自分でそれを言葉にするのは、少し怖かった。
「分かりません。」
まずそう答えた。
「ですが……たぶん私は、会議で何が決まったかということと同じくらい、物事や誰がどこで引っかかったかという、違和感を見るからだと思います。」
長官は黙っていた。
否定しない沈黙だった。
「ケネディ大統領が亡くなってから、よく考えるようになりました。」
私は続けた。
「テレビでは、同じ映像が何度も流れました。そのたびに、まわりの人たちは好きなことを言ったんです。若すぎた、南部を刺激しすぎた、公民権に踏み込みすぎた、と。」
長官は腕を組んだ。
「それで、何が引っかかったのですか。」
「“南部”という言葉です。」
私は答えた。
「私はバージニア育ちですが、自分を南部の人間だと強く意識したことは、正直あまりありませんでした。ワシントンD.C.とは川一本しか隔てていない。大学へ出て、役所へ入り、ホワイトハウスで働いているうちに、自分はただこの国の一員だと思っていました。」
私はそこで少し言葉を選んだ。
「でも、あのあと、北の人たちが“南部”をひとつの言葉で片づけたんです。遅れた土地、反動の土地、いつまでも古い考えにしがみつく土地、と。」
長官は何も言わない。
私はそのまま続けた。
「その時、私は初めて、自分の中にも南部があることを意識しました。私の知っているバージニアは、それだけではありません。礼儀があり、土地への愛着があり、家族を守る意識がある。もちろん差別も偏見もあります。残酷さもあります。ですが、それだけではありません。」
「南部が不当に中傷されている、と言いたいのですか。」
「いいえ。」
私は首を振った。
「そうではありません。言いたいのは、人は、自分がどういう人間かを他人に決められると反発する、ということです。」
それを口にした瞬間、自分の中でも少し形がはっきりした。
「南部の人間が、黒人に権利を与えることそのものだけに怒っているとは、私には思えません。
もちろん、それに怒っている人一部はいるでしょう。
――ですが、もっと深いところでは、自分たちが“そういう土地”、“そういう人間”としてまとめて扱われ、そのうえで“自分達でも気づいてる正論”を連邦から押しつけられていることに反発しているのだと思います。」
「正しさへの反抗ではなく。」
「ええ。アイデンティティと自己決定の問題です。」
私ははっきり言った。
「人は、正解だと分かっていても、自分で選ぶ前に答えを押しつけられると反発します。
そうされると思想の問題でなくなり、自分は何者かという問題になるのだと思います。」
長官はそこで初めて、はっきりと考え込んだ。
「それは、軍にも当てはまるかもと――。」
「はい。」
私は答えた。
「将軍たちも同じです。閣下は、彼らを好戦的で、感情で動く人たちとして見ておられる。
たぶん、その理解は間違っていません。
でも、彼らにしてみれば、自分たちは命をかけて国を守ってきた側です。その自分たちが、今は“そういう人間”として扱われている、と感じれば、政策の前に反発が出ます。」
長官は返事をしなかった。
私は少しだけ続けた。
「南部もそうです。将軍たちもそうです。たぶん、閣下ご自身もそうなのではありませんか。」
「私が、ですか。」
「はい。皆、閣下のことを“数字だけの人”と呼ぶ。冷たい、経営屋だ、戦争を表にする、と。私はそういう悪口をたくさん聞きました。」
長官の目が、ほんの少しだけ細くなった。
怒ったというより、正確に触れられた時の反応だった。
「あなたは、そうは思わないのですか。」
「数字だけの人ではないと思っています。」
私は答えた。
「むしろ、人を数字でしか動かせなくなった国を怖がっている人に見えます。」
その時、長官は初めて小さく息を吐いた。
笑ったわけではない。ただ、少しだけ緊張がほどけたように見えた。
「なるほど。」
長官はそう言って、机の上のメモ用紙を一枚、私の方へ滑らせた。
「では、お願いがあります。」
私はペンを取った。
「これまで通り、正確に記録してください。都合のいい形に整えず、事実として持ってきてほしい。会議の結論だけではなく、誰がどこで引っかかったかも見ていてほしい。私には見えにくい反発の起点を、あなたは見ているようですから。」
私はうなずいた。
「分かりました。」
長官は続けた。
「そして、もうひとつ。省内の対立を、単純に合理と感情の対立として扱わないでください。私は、そこを見誤っていたのかもしれない。」
「はい。」
「人は、内容だけで争っているわけではない。どういう人間として扱われているかでも争う。納得できる。」
「そう思います。」
長官は私をまっすぐ見た。
「あなたの経歴と分析能力は、書類で十分に分かります。ですが、今日それ以上のことが分かりました。あなたは、出来事を読むだけでなく、人が反発する起点を読んでいる。普通の記録係ではありません。」
私は少しだけ眉を上げた。
「褒めてくださっているのですか。」
「褒めています。警戒心をもって。」
私は笑った。
今度は、長官もほんの少しだけ笑った。
「ですが、今のアメリカには必要です。」
その一言で、この部屋での話は終わったのだと分かった。
私は立ち上がった。
長官も立ち上がる。
「ミス・ハリントン。」
「はい。」
「ここでは、多くの人が国家や戦争や軍について語ります。ですが、その話のほとんどは、結局アメリカの話です。」
「そうでしょうね。」
「あなたは、そのことを忘れないでください。」
私はうなずいた。
扉の前で一度だけ振り返る。
長官はもう机の上の書類に目を落としていた。
私は廊下へ出た。
来る時と同じ、白くて長い廊下だった。
でも、さっきより少しだけ奥行きが深く見えた。
その時の私は、まだアメリカの中しか見ていなかった。
南部の沈黙も、省内の対立も、
軍の反発も、大統領の不安も、
全部この国の内側のこととして考えていた。
海の向こうにも、同じように押しつけられ、定義され、反発し、生きている人間たちがいることを、
私はまだ本当の意味では見ていなかったのだ。
ネットで右とか左とかという分断と同じ構造が組織でも国家でも起きてしまいます。正しさはわかってる。自己決定の問題。メアリーのこの言葉はマクナマラを前に進めます。
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しています。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿よていです!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
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