94,言葉、愛、それ以上のもの【幕間最終話】
結局ケネディ暗殺で雪解けは遠のきます。
言葉、それ以上のもの(1964年〜1965年・ハバナ/ニューヨーク)
1964年。ハバナ。工業省。
カメラの位置を直す音。
照明を引きずる靴音。
通訳の咳払い。
外では、革命後の街がまだ若い熱を帯びたままざわめいている。
リサ・ハワードは、指先でメモ用紙の端を揃えながら、正面の男を見た。
チェ・ゲバラ。
軍服は、カストロのそれよりいくぶん簡素だった。
だが、その分だけ、人間の皮膚の下にある理念がそのまま立っているようにも見えた。
フィデル・カストロが国家の顔なら、この男はもっと別のものだった。
国家を飛び越え、人の怒りや理想や若さの方へ伸びていく顔。
まだ政治家でありながら、すでに政治家だけでは収まりきらない顔だった。
ケネディ暗殺から、まだそう遠くない。
あの一本の電話線はもう切れている。
だが、言葉まで死んだわけではない。
リサはそう信じたかった。
「準備はいい?」
スタッフが尋ねる。
「ええ。」
リサは答えた。
「彼が話してくれる限りは。」
カメラが回り始める。
「コマンダンテ・ゲバラ。」
リサは穏やかな声で切り出した。
「アメリカでは、あなた方の革命は今も脅威として語られています。では逆に、あなたはアメリカにキューバへ何をしてほしいのですか。」
ゲバラはほとんど間を置かずに答えた。
「何もしないでほしい。」
その即答に、部屋の空気が少しだけ張った。
「少なくとも、我々を放っておいてほしい。自分たちの歴史を、自分たちの手で作る権利くらいは認めてほしい。」
リサは頷いた。
それは怒鳴り声ではなかった。
むしろ、驚くほど静かな言葉だった。
だが静かだからこそ、削れなかった。
「それは自由の要求ですか。」
「自由という言葉は、あなた方の国ではあまりに都合よく使われる。」
ゲバラは答えた。
「だから私は、もっと単純に言う。干渉するな、ということだ。」
リサは次の紙へ目を落としかけ、やめた。
予定どおりの質問を並べても、この男はその枠の外へ出る。
ならばこちらも、少しだけ枠を外した方がいい。
彼女は、わずかに前へ身を乗り出した。
「あなたの正義は。」
ゲバラは、その問いにだけ真正面から答えた。
ほとんど反射のように、ためらいなく。
「人間が人間による搾取を、この世界からなくすことだ!」
部屋の誰も動かなかった。
それは演説ではなかった。
覚え込んだ標語でもなかった。
この男が、自分の胸の中央に一行だけ書いて生きている言葉のように聞こえた。
リサはわずかに目を細めた。
「迷わないのね。」
「迷っていたら、ここにはいない。」
彼はそう言って、初めてほんの少しだけ笑った。
撮影はなおも続いた。
革命。主権。アメリカ。第三世界。
質問はカメラの前を流れていった。
だが、本当に残ったのは、予定された問答ではなく、その言葉の向こうに見える人間の輪郭の方だった。
やがてスタッフが合図を出し、撮影が止まる。
照明が一段だけ落ち、部屋に現実の色が戻ってきた。
リサはメモを閉じた。
ゲバラはまだ席を立たなかった。
「あなたは、キューバにそこまで肩入れして大丈夫なのか?」
不意に、彼が言った。
それは取材対象が記者へ向けるには、少しだけ奇妙な問いだった。
だがリサは驚かなかった。
この男は最初から、カメラの前の質問だけで終わる人間ではなかった。
「心配してくれるの?」
「そうは聞こえなかったか――」
「半分くらいは。」
ゲバラは小さく鼻で笑った。
それから、さっきまでの革命家の顔とは少し違う、もっと乾いた目で彼女を見た。
「アメリカの女記者が、ここまでキューバに出入りして、政権中枢の人間にインタビューをして、無事で済む保証はない。」
「無事で済む仕事なんて、最初から選んでないわ。」
リサは言った。
「それに、私は誰かの広報係をしているつもりもない。」
「だが君は、何かには肩入れしている。」
その言い方に、彼女は少しだけ笑った。
「そうね。」
彼女は一拍置いてから言った。
「誰にも肩入れしない――と言いたいところだけど、違うわね。私が正しいと思うものを、世界に伝えることよ。」
今度はゲバラが黙る番だった。
カメラはもう止まっている。
照明も半分落ちている。
それでも、この短いやりとりの方が、さっきまでの公式な受け答えよりずっと深いところに届いた気がした。
「正義、か。」
ゲバラは低く言った。
「便利な言葉よ。」
リサは肩をすくめた。
「そっちだって使ってるでしょう。」
「私は搾取をなくすと言った。」
「それを正義と呼んでいるのは、あなた自身じゃない。」
一瞬だけ、ゲバラの目に面白がる色が差した。
「なるほど。君は確かに、ただのテレビ女ではない。」
「そう言われるの、二度目だわ。」
「一度目は誰だ。」
「あなたのボス。」
その返しに、ゲバラは珍しく、はっきり笑った。
それから、ふと窓の外へ目をやる。
「革命は、憎しみだけじゃ長く続かない。」
その言葉は、独り言のようでもあり、説明のようでもあった。
「何か別のもので支えられていなければ、人はここまで来られない。」
リサは、その言葉を黙って聞いた。
フィデル・カストロと、この男のあいだには、単なる役割分担では説明のつかないものがあると彼女は感じていた。
片方が島に残り、片方が島の外へ出る。
片方が国家を背負い、片方が理念を背負う。
そういう別れ方をしながら、なお二人は同じものを握っている。
あの日カストロに宣言した、
「俺は、革命家になりたい」
という言葉を笑って受け入れてくれたカストロがよぎった。
友情と呼んでもよかった。
兄弟愛と呼んでもよかった。
あるいは、もっと危険で、もっと巨大な、革命家にだけ許される愛と呼んでもよかった。
※※※※※※※※※※
だが、時代はいつも皮肉である。
リサ・ハワードは1964年秋、公然たる党派的政治活動への関与などを理由に、ABCニュースの番組を降板させられる。
表向きの理由は政治だ。
だが、キューバへの近すぎる距離が、その失脚に濃い影を落としていたことを、彼女自身が知らなかったはずはない。
メディアという最大の隠れ蓑を失い、彼女の持つ影響力は静かに絶たれていく。
1965年7月4日、彼女は自ら命を絶つ――。
時代に言葉を運んだ女もまた、時代に食われたのだ。
ゲバラもまた、長く生きる側の人間ではなくないだろう。
世界へ出た革命家は、いずれ世界そのものに追い詰められていく。
まだ死んではいない。だが、その匂いはすでに時代の中に漂い始めていた。
一人は言葉を運んだ。
一人は革命を運んだ。
生き延びたわけではない。勝ち切ったわけでもない。
だがゲバラもリサも確かに、一九六〇年代という火の中を駆け抜けた。
彼女の死の半年あまり前――
※※※※※※※※※※
1964年12月。ハバナ、ホセ・マルティ国際空港。
チェ・ゲバラは、ニューヨークでの国連総会に向かう飛行機のタラップの下に立っていた。
見送りに来たフィデル・カストロは軍服姿のまま、何も言わずゲバラの肩を抱いた。
長い言葉はいらなかった。
あの日、切れた電話線の代わりに、二人が選んだ新しい回線だった。
カストロは国に残る。
ゲバラは外へ出る。
片方は島という拠点を鍛え上げる。
片方は、その拠点から世界へ撃ち出される。
その役割分担の底にあったのは、単なる政治的合理性ではない。
同志を送り出す者の不器用な友情。
送り出される者が、その重みを黙って引き受ける信頼。
愛と呼ぶには硬すぎるが、憎しみだけでは絶対に出来上がらない結びつき。
そういうものだった。
おそらく、いつか、自分は世界に出る。
二人の本当の革命は、これから向かう国連総会の壇上の言葉で始まる。
そう考えていたのが、カストロか、ゲバラか、それとも二人ともだったのかは、もう誰にも分からない。
だが、その沈黙の抱擁には、たしかにそういう予感があった。
※※※※※※※※※※
1964年12月11日。ニューヨーク第19回国連総会
壇上へ向かうゲバラ、。記者たちが言葉を求めて彼を取り囲んでいた。
ありふれた質問だが、時代そのものが一人の革命家の胸の奥を覗き込もうとしているようでもあった。
「革命家にとって、最も重要なことは何ですか。」
チェ・ゲバラは、少しだけ目を細めた。
おそらく、自分は世界に出る。
ゲバラとカストロ本当の革命は、壇上の言葉で始まる。
島に残るフィデル・カストロ。
危険を承知で言葉を運んだリサ・ハワード。
切られた帝国との電話線。
それでもなお、この彼に投げ込まれ続ける記者の声。
それらを一瞬のうちに胸の中で通り過ぎさせてから、彼は静かに答えた。
「バカらしいと思うかもしれないが――。」
その声は、これから世界の壇上で帝国主義を震え上がらせる男のものとは思えないほど、穏やかで澄んでいた。
「真の革命家は、偉大なる愛によって導かれる。人間への愛、正義への愛、真実への愛。……愛の無い真の革命家など、私には想像できない。」
それは恋愛の言葉ではなかった。
甘い慰めの言葉でもなかった。
島に残った者が、送り出した同志への友愛。
世界の痛みへ向かっていく革命家自身の激しさ。
そして、危険を承知で言葉を運んだ女記者の意志。
それらすべてを呑み込んだうえで、ようやく成立する種類の「愛」だった。
※※※※※※※※※※
スポットライトが、チェ・ゲバラの顔を白く切り取る。
モノクロームの光の中で、彼はもはや一国の閣僚というより、時代そのものが呼び出した証人のように見えた。
帝国主義。
第三世界。
搾取。
戦争。
声は高くはない。
だが、一語ごとに逃げ場がなかった。
その声は、アフリカとアジアとラテンアメリカ、植民地と従属と飢えの記憶を抱えた人々の胸を、容赦なく揺さぶっていく。
そして、ついに彼は言う。
「¡Patria o Muerte!(祖国か、死か!) Venceremos!(我々は勝利する!)」
それは単なるスローガンではなかった。
第三世界の良心そのものを揺さぶる、宣告だった。
その声は、海を越え、時代を越え、やがてベトナムのジャングルへ届いていく。
さらにその後には、アメリカ全土の若者たちの胸にも、消えない刻印のように残ることになる。
リサ・ハワードは、もうその声を運べない。
だが、彼女が運んだ言葉と、それ以上のものは、まだ時代の中を走っていた。
そして、戦争と政治の季節がやってくる。
(幕間 完 ―― 次章切り裂かれた星条旗後編『ベトナム戦争編』へ続く)
1960年代のアメリカはアメリカ自体も揺れている危うい季節でした。
公民権運動そしてベトナム戦争。
お話の主役をメアリーにもどします。
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しています。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿よていです!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
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