88,黒い電話機
この幕間では、リサを中心に解読されないようにイニシャルが沢山出てきます。
以下一覧です。スリリングなスパイ物語のような実話が始まります。
F.C.(フィデル・カストロ)――キューバ革命の最高指導者/『農園主』
L.H.(リサ・ハワード)――ABCの看板記者
W.A.(ウィリアム・アットウッド)――米国側の実務担当
L.(カルロス・レチュガ)――キューバ国連代表、表の窓口
R.V.(レネ・バジェホ)――カストロの側近兼主治医/『主治医』
K(ジョン・F・ケネディ)――アメリカ大統領/『クライアント』
J.D.(ジャン・ダニエル)――フランス人ジャーナリスト、最後の伝言役
分からなくなったらここをみて下さい。
表の回線だけでは足りなかった。
Lは有能だった。
国連代表として、正規の手順で報告し、正規の手順で返事を待つ。その慎重さはキューバの外交官として正しい。
しかし、アメリカとキューバが核戦争一歩手前まで行ったあとに必要なのは、“正しさ”よりも速さだった。
リサ・ハワードは、それを本能で理解していた。
十月末。ニューヨーク、アッパー・イースト・サイド。
夜の街は相変わらず美しかったが、彼女の部屋の中だけは、まるで別の戦場の前線司令部のように静まり返っていた。
カーテンは半分だけ閉める。
窓際のスタンドは落とす。
レコードはかけない。
その代わり、キッチンの蛇口をほんの少しだけ開け、水音を細く流し続ける。
サイドテーブルの上には、黒い電話機、灰皿、そして白紙のまま伏せられたメモ帳だけが置かれていた。
アットウッドはその様子を見て、眉をひそめた。
「そこまでやるのか?」
「そこまでやらなきゃ嫌なのよ。」
リサは煙草に火をつけ、黒い電話機を見た。
昼間はただの家具にしか見えない。
だが夜になると、それは突然、世界の裏側へ通じる黒い穴になる。
「盗聴を恐れてるのか?」
「恐れてないわ。」
彼女はゆっくり煙を吐いた。
「確信してるの。」
アットウッドは答えなかった。
その沈黙が肯定だった。
「確認する。」
彼は低く言った。
「農園主はF.C.(フィデル・カストロ)。主治医はR.V.(レネ・バジェホ)。クライアントはK(ケネディ大統領)。私は代理人。君は女主人。」
「覚えてるわ。」
「名前は出すな。途中で妙な音が入ったら切れ。向こうが本物でもだ。」
「本物でも?」
「聞かれている線で続けるよりは、切った方がましだ。」
リサは肩をすくめた。
「あなた、向いてるわね。」
「何に。」
「臆病な仕事に。」
「臆病じゃない人間は、こういう仕事を長くやれない。」
彼女は少しだけ笑った。
だがその笑いは、部屋の空気を軽くはしなかった。
※※※※※※※※※※
同じ頃。ハバナ。
薄暗い執務室の隅で、R.V.(レネ・バジェホ)が受話器を手にしたまま立っていた。
その横で、フィデル・カストロは窓辺に寄りかかり、葉巻の火を赤く滲ませている。
部屋の壁には世界地図が掛けられ、その前にチェ・ゲバラが腕を組んで黙って立っていた。
「先ずは試す――本当ですか?」
バジェホが低く言った。
「最初の一本は試す?」
「最初だからだ。」
カストロは平然と答えた。
「この提案が本物なら、向こうの女は簡単にはに乗らん。」
「記者にしては酷だな。」
ゲバラが言う。
「記者だからだろう。」
カストロは小さく笑った。
「ただのテレビ女なら、ここで落ちる。」
バジェホは一瞬だけためらった。
だが、結局は何も言わず受話器を耳に当てた。
※※※※※※※※※※
ニューヨーク。
リサは受話器を取る前に、もう一度だけアットウッドを見た。
彼は頷きもしなかった。ただ立ったまま、目だけで「始めろ」と言っていた。
最初の呼び出しは長かった。
一度、二度、三度。
海を越え、交換を重ね、いくつもの耳と機械を経由して、それでもどこかへ届いているはずの音。
四度目のあと、ようやく回線が開いた。
だが、向こうは何も言わなかった。
ノイズだけが、薄く、ざらついた砂のように流れている。
遠い熱帯の空気ではなく、もっと人工的で、乾いた雑音だった。
リサは何も言わなかった。
アットウッドが指先だけで合図する。
切れ。
彼女は無言で受話器を戻した。
「今のは?」
「分からない。」
「向こうかもしれない。」
「だから切ったのよ。」
アットウッドは唇を噛んだ。
疑いすぎれば線は死ぬ。信じすぎればこちらが死ぬ。
その境目を、今夜はずっと手探りで渡るしかない。
二度目の呼び出し。
今度は短かった。
二回目のベルの途中で回線が開く。
「……こちら、果樹園です。」
男の声だった。
スペイン語訛りはあるが、言い方が妙に平板だ。
リサの指先が、受話器の縁で止まった。
果樹園。
その言葉は、事前に決めた符牒にはなかった。
アットウッドには、まだ分からない。
だがリサには一瞬で分かった。
向こうは本物ではないか、あるいは本物でも、こちらを試している。
彼女は目を伏せたまま、何でもない調子で答える。
「まぁ、夜更けまで大変ね。こちらは果物より砂糖の出来の方が気になるけれど。」
向こうが、ほんのわずかに間を置く。
「今年は雨が多くて。」
違う。
その答え方ではない。
春以来、R.V.は“雨”という語を使わない。彼はいつも「湿気」と言う。
リサはまばたきひとつでアットウッドへ視線を送った。
違う。
「お気の毒に。」
彼女はあくまで穏やかに答えた。
「では、また昼間にでも。」
そのまま受話器を置く。
部屋の中には、水道の細い音だけが残った。
アットウッドが一歩踏み出す。
「偽物か?」
「少なくとも、主治医じゃない。」
「盗聴か、確認か。」
「どっちでも同じよ。こっちが生きてるって教えた。」
アットウッドはメモ帳へ手を伸ばしかけ、すぐにやめた。
書けない。
今夜は何も残せない。
その時、黒い電話機がもう一度鳴った。
一度。
短く、鋭く。
まるで、さっきの会話そのものが前座だったとでも言うように。
リサは受話器を見つめたまま動かなかった。
今度こそ、本物かもしれない。
あるいは、もっと質の悪い罠かもしれない。
黒いベルが、もう一度鳴る――。
電話越しの駆け引きが始まります。
こんなに長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しています。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿よていです!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
よろしければ、ブックマーク/感想/★で応援してもらえると励みになります。




