86,仮面のサロン、最初の握手
この幕間では、リサを中心に解読されないようにイニシャルが沢山出てきます。
以下一覧です。スリリングなスパイ物語のような実話が始まります。
F.C.(フィデル・カストロ)――キューバ革命の最高指導者/『農園主』
L.H.(リサ・ハワード)――ABCの看板記者
W.A.(ウィリアム・アットウッド)――米国側の実務担当
L.(カルロス・レチュガ)――キューバ国連代表、表の窓口
R.V.(レネ・バジェホ)――カストロの側近兼主治医/『主治医』
K(ジョン・F・ケネディ)――アメリカ大統領/『クライアント』
J.D.(ジャン・ダニエル)――フランス人ジャーナリスト、最後の伝言役
分からなくなったらここをみて下さい。
1963年9月23日。ニューヨーク、マンハッタン、アッパー・イースト・サイド。
翌夜のアパートメントは、外交官と記者と野心家たちで埋め尽くされていた。
氷の触れ合う軽やかな音。
マティーニの甘い香り。
部屋の隅で流れるモダンジャズ。
国連総会に合わせて集まった各国の外交官や、政治屋たちの熱気。
誰もが笑っていた。誰もが互いを信用していなかった。
リサ・ハワードは、そのすべてをよく知っていた。
この部屋で交わされる握手の半分は社交で、残りの半分は取引だ。
だからこそ、ここは都合がよかった。
誰かが二人きりで話していても、誰も不自然に思わない。
ここでは秘密ですら、社交の一部に見える。
「素晴らしい夜ね、大使。」
リサはグラスを片手に、Lへ微笑みかけた。
冷戦のパラノイアが世界を覆う中、資本主義の牙城ニューヨークのど真ん中で、敵国の外交官が談笑している。
その異常な光景すら、彼女の持つ“テレビの顔”は、「リベラルな文化交流」という都合のいい仮面へ変えてしまう。
「ええ、リサ。あなたのパーティーはいつも最高だ。」
レチュガはワインを受け取り、半分冗談めかして言った。
「ワシントンの人間も、国連の人間も、みんな君に見られている気がして気を抜けない。」
「それでも来たじゃない――。」
「ABCの看板特派員に招待されて断れば、それはそれで目立つ。」
その返しにリサは笑った。
そして一歩だけ距離を詰める。
「大使。……紹介したい友人がいるの。」
レチュガの目が、ほんのわずかに細くなる。
その変化を見て、リサは内心でうなずいた。
彼はもう気づいている。ただの社交ではない、と。
だが、この場で露骨に身構えるほど未熟ではない。
喧騒の中から現れたのは、背広姿のウィリアム・アットウッドだった。
肩書きだけ見れば、国連代表部の上品な実務屋。
だがリサには分かっていた。今夜の彼は、政府の顔ではなく、もっと危うい何かの代理人としてここにいる。
「特別顧問を紹介する必要があるとは、私はまだそれほど時代遅れだったかな。」
レチュガはそう言って笑った。
だがその声には、乾いた警戒が混じっていた。
「今夜は肩書きより、相性の方が大事なの。」
リサは軽く言った。
そして二人を、笑い声の届かない書斎の奥、小さな丸テーブルへと導く。
薄暗いランプの下。
狭いテーブルを囲むようにして、男が二人、女が一人という構図ができあがる。
リサはグラスを片手に優雅な微笑みを浮かべたまま、それ以降は一切口を開かなかった。
ただの「美しい壁」として、これから行われる極秘の密談をパーティーの一部に偽装するためだけに、そこに立ち尽くす。
「……何の用だね、アットウッド特別顧問。」
Lの低い声に対し、アットウッドはグラスを傾けるふりをしながら、ただ事実だけを静かに口にした。
「私のクライアントは、雪解けを模索している。」
レチュガの表情は動かない。
だが、その瞳孔がわずかに開くのを、アットウッドは見逃さなかった。
春にリサがハバナから持ち帰った、あまりにも細く、あまりにも危険な“対話の意志”。
その糸に対して、アメリカ側が初めて、明確な重みを返したのだ。
「そちらの『農園主』に伝えてほしい。我々は、非公式のテーブルに着く用意がある、と。」
Lはすぐには返さなかった。
グラスの脚を指先でなぞりながら、相手の顔をじっと見ている。
言葉より先に、誰がどれだけ本気かを測っていた。
「その『クライアント』とは、一体誰だ。」
ようやく彼は口を開いた。
「軍部や情報機関の狂犬どもを完全に抑え込めるほどの権限が、その男にあるのか?」
アットウッドは一拍置いた。
その沈黙は、ためらいではなかった。
名前を言わないための、慎重な間だった。
「時期が来れば分かる。」
彼は冷ややかな汗を飲み込み、静かに言い放った。
「この糸は、絶対に切るな。」
Lは目を細めた。
その瞬間、書斎の外から誰かの笑い声が大きく響き、すぐまた遠ざかった。
部屋の外では、世界はいつも通り社交を続けている。
だがこの小さな丸テーブルの上では、国家の温度が一度だけ変わろうとしていた。
「ハバナへ暗号電報を打とう。」
Lは低く言った。
「だが、一本でも線を間違えれば、君も私も死ぬぞ。」
「承知している。」
アットウッドは短く答えた。
そのやりとりを、リサは黙って聞いていた。
いや、聞いていたというより、見届けていたと言うべきだった。
春にハバナで受け取った紙切れが、ここで初めて、別の国の重さを持ち始めている。
彼女はその瞬間、自分がただの記者ではなく、この回線の最初の目撃者になってしまったことを知った。
華やかなジャズの調べが、狭いテーブルで交わされた絶対零度の密約を、完全に掻き消していた。
やがてLはゆっくり立ち上がり、いつもの外交官の顔へ戻った。
「今夜はいい酒だった、リサ。」
「また招くわ、大使。」
「その時は、もっと平和な話がしたいものだ。」
「努力してみる。」
二人は笑った。
その笑顔の意味を、この部屋で本当に理解していたのは三人だけだった。
Lが去ったあとも、アットウッドはしばらく窓の外を見ていた。
マンハッタンの夜景は相変わらず美しく、何一つ変わったようには見えない。
だが、リサにははっきり分かっていた。
その夜、まだ誰の名前も持たない一本の回線が、マンハッタンの上空で静かに結ばれた。
だがそれは、まだ“表の線”にすぎなかった。
本当に危険なのは、ここから先――ホワイトハウスの奥で、その線を誰が握るのかが決まる瞬間だった。
ワシントンとハバナをつなぐ点が線になります。
こんなに長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しています。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。
3/21時点で改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
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