71,見えない境界
引き裂かれる星条旗編。
本編はメアリーの目線です。
前半。ケネディを暗殺したのは――。
幼い頃、世界はとてもシンプルに分割されていた。
私が育った南部バージニアの街角には、ペンキで書かれた「White Only(白人専用)」と「Colored(有色人種用)」の看板が当たり前のようにぶら下がっていた。
――物理的な隔離。
子供だった私にとって、それは「差別」という暴力ではなく、川や山と同じ、最初からそこにある「アメリカの景色」に過ぎなかった。
だが、その無邪気な錯覚は、1958年の取材で打ち砕かれた。黒人との共学化を拒み、公立学校を丸ごと閉鎖する(マッシブ・レジスタンス)という白人の大人たちの狂気。私はそこで初めて、こののどかな景色が血の通った暴力で維持されていること、そしてそれを壊そうとする黒人たちの「抗えない時代のうねり」を肌で感じたのだ。
大学を卒業した私は、ポトマック川を渡り、連邦政府のあるワシントンD.C.へと向かった。
しかしそこで私は、この国が「まだ完全に分裂している」という残酷な現実を別の形で思い知らされることになった。
北部の首都には、南部のようなあからさまな差別の看板はない。誰もが「自由と平等」を口にする。だが、地図の上にはレッドライニング(赤線引き)という見えない境界線が引かれ、黒人は精巧な不動産と金融のシステムによって完璧にスラムへと隔離されていた。
看板で縛り付ける南部と、偽善とシステムで締め出す北部。南北戦争から100年経っても、この国は形を変えて真っ二つに割れたままだったのだ。
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あれから5年。1963年の春。
大統領執務室のテレビモニターには、アラバマ州バーミングハムで、平和的に行進する黒人の若者たちに警察犬が放たれる凄惨な映像が映し出されていた。
かつて私がバージニアで感じたうねりは、今や全米を飲み込む嵐になっている。
このうねりはもう、誰にも止められない。もしこの波が完全に国を飲み込めば、南部の看板も、北部の見えない境界線もすべて洗い流され、アメリカという国の「景色」が根底から変わってしまうだろう。それは100年続いたこの国の背骨を一度へし折るに等しい、あまりにも巨大で危険な変化だ。
「……南部州を、これ以上刺激する必要はない。」
マホガニーのデスクから、若き大統領が忌々しそうにテレビの電源を切った。
先のキューバ危機で世界を救ったこの英雄は、国内のドロドロとした人種問題に深く踏み込むことを極端に嫌がっていた。
「私は今のままでも、来年の選挙に勝てる。わざわざ自分から火中の栗を拾って、南部州の保守派を怒らせる理由がない。」
ケネディはそう踏んでいた。今の高い支持率を維持し、当たり障りのない態度を貫けば、自分は無傷で再選できる、と。
だが、南部で生まれ育ち、あの「学校閉鎖の狂気」を目の当たりにした私には分かる。
大統領のその「何もしないことで逃げ切れる」という慢心と現実逃避こそが、この国に修復不可能な、致命的な『歪み』を発生させるのだ。蓋をしてやり過ごせるような波ではない。中途半端な姿勢を見せれば、南部からも黒人からも見放され、その歪みに政権ごと引き裂かれる。
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大統領が国内の火消しから目を背けている間、ホワイトハウスの死角では、恐るべき空洞が口を開けていた。
私はかつて所属していた中央情報局(CIA)の不気味な現状を思い返していた。
1961年のピッグス湾事件の失敗により、絶対的権力者であったアレン・ダレス長官は更迭された。世間は「これでCIAの暴走は終わった」と安堵したが、それは致命的な見立て違いだ。
ダレスは確かに冷酷な策士だったが、同時に、巨大な諜報機関の狂気や、冷戦下の好戦的なエネルギーを自らの一存でコントロールし、ホワイトハウスとのバランスを保つ「巨大な防波堤」でもあったのだ。
その防波堤が、取り払われた。
今のCIAからは、具体的な計画の匂いが全く漏れてこない。ただ、冷たくて重い「完全な沈黙」があるだけだ。彼らは大統領の制御を完全に離れ、独自の「国家防衛」に向けて暗闇の中で静かに牙を研いでいるのではないか。この国は今、内外の歪みによって限界を迎えようとしている。
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「メアリー。……君の分析を聞こう。」
大統領の声で、私は現実へと引き戻された。
私は手元のノートを開き、大統領の逃げ道を塞ぐ、冷徹な生存戦略を口にした。
「大統領。あなたは今のままでも、次回の選挙に勝つことは出来るでしょう。ですが、それでは国が割れます。この『景色を変えてしまうほどの巨大なうねり』を暴動へ発展させず、国を一つのまま軟着陸させるためには、ただの勝利では足りません。」
私は、モニターの暗い画面を見据えたまま言葉を続けた。
「中途半端な妥協が最も危険な歪みを生みます。今ここで『解放派の大統領』として完全に腹を括り、争点を明確にすべきです。南部の票を失おうとも、それに倍する黒人票とリベラル層を取り込み、誰もがひれ伏す『かつてないほどの大勝利』を収める。その圧倒的な権力をもって、強引にこの国を縫い合わせるのです。それ以外に、この分断を軟着陸させる道はありません。」
私の進言に、大統領は深く、重い溜息をついた。そして静かに頷くと、予想外の言葉を口にした。
「君のその『システムを見抜く目』は、今の政権に欠かせない。……来年の選挙が終わったら、君には国防総省へ異動してもらうつもりだ。」
私はわずかに息を呑んだ。
ペンタゴン。そこは今、マクナマラ国防長官が、戦争を渇望する主戦派(タカ派)の猛獣たちをたった一人で論理と数字で抑え込んでいる、もう一つの巨大な火薬庫だ。
「マクナマラは孤立している。彼の防波堤を内側から支える、君のような冷徹な目が必要なんだ。」
それは、大統領からの最高の信頼の証だった。
だが、私はすぐに首を横に振った。
「光栄です、大統領。ですが、どうか来年の選挙が終わるまでは、このポジションに私を留め置いてください。」
私は、真っ暗になったテレビモニターを見つめ返した。
「この国が真っ二つに割れるのを防ぎ、かつてない大勝利をもって新しい景色へと『軟着陸』する瞬間を、私はこの部屋で見届けたいのです。」
大統領は少しだけ驚いたような顔をし、やがて優しく微笑んで頷いた。
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それは、私の運命を決定づけた致命的な選択だった。
大統領は私の進言を受け入れ、公民権問題を最大の争点にして「かつてない大勝利」を目指す覚悟を決めた。だが、長年当たり前の景色として見て見ぬふりをしてきた100年分の分断を、政治の表舞台に引きずり出した瞬間——南部が地下深くで培養してきた「根深き憎悪」が、一気に白日の下に露呈することになる。
そしてその剥き出しの憎悪は、沈黙するCIAや、戦争を渇望するペンタゴンの猛獣たちといった「別の闇」と、不気味に繋がり始めていくのだ。
私は自らの手で、国を繋ぐための軟着陸のシナリオを、あの特異点へと向かう片道切符に書き換えてしまっていた。
黒人への公民権運動が高まります。
なぜケネディは、公民権運動の中心アメリカ南部州のテキサス・ダレスでパレードしたのか――。
その背景が語られます。
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