56,【幕間】窮鼠(きゅうそ)の牙~キューバ編
新章『終末時計が告げる刻~キューバ危機~』はキューバとアメリカの幕間から始まります。
1961年末 キューバ・ハバナ 革命宮殿
夜のハバナは、乾いた海風とラム酒の甘い匂いがする。
だが、革命宮殿の最奥にある執務室だけは、重厚なマホガニーと紫煙が織りなす、戦艦のブリッジ(艦橋)のような冷ややかな空気に満ちていた。
「今日も一人、見つかったそうだ。」
フィデル・カストロが、琥珀色の液体の入ったグラスを揺らしながら言った。
「厨房の下働きだ。私のスープに、よく分からない粉薬を混ぜようとしていたらしい。マフィアの鉄砲玉か、CIAの工作員かは知らんがね。」
ソファに深く腰掛けたエルネスト・チェ・ゲバラが、喘息の息を微かに漏らしつつ、葉巻の煙をゆっくりと天井に向けて吐き出した。
「粉薬か。先週は爆発する葉巻で、その前は猛毒を塗ったダイビングスーツだったな。」
「全くだ。とんだ人気者になった気分だよ。西半球で最も命を狙われている男だ。」
カストロがグラスを傾け、皮肉げに笑う。
ピッグス湾でアメリカの計画を水際で粉砕して以来、ワシントンからの刺客は日常茶飯事になっていた。彼らは、その作戦を『マングース』と呼んでいるらしい。
「暗殺の羽虫はいい。何度でも手で払えば済む。」
ゲバラの声は、氷のように冷たかった。彼は自分の命が狙われることなど、鬱陶しい羽音程度にしか感じていない。だが、その冷徹な目に、わずかに苦渋の色が混じる。
「問題は、首を真綿で絞めてくるやり方だ。アメリカの海上封鎖と禁輸措置が、目に見えて効き始めている。交換部品が入らずに工場の機械が止まり、海路を塞がれて輸送船が来ない。」
ゲバラは短くなった葉巻を見つめた。
「ピッグス湾の勝利で、人民はまだ革命の理想と熱狂の中にいてくれている。だが、人はイデオロギーでは腹を満たせない。このまま物資が尽き、飢えが起きれば、事態は極めて深刻だ。……ワシントンの連中は、人民の空腹が最も鋭い刃になって我々に向くことを、よく知っている。」
ゲバラはふっと自嘲するように笑い、友を見た。
「お前が広場で声を張り上げれば、何十万の人間が熱狂し、空腹を忘れて結束する。お前のあの理屈を超えたカリスマがあるからこそ、この島はまだギリギリのところで形を保っている。……俺はつくづく、人民に飯を食わせる『政治』というやつには向いていないらしい。」
弱音ではない。冷徹な自己分析だった。
カストロはグラスを机に置き、深く響く声で笑った。
「気にするな、ゲバラ。お前は政治家ではないし、そうなる必要もない。」
カストロは立ち上がり、ゲバラを見下ろした。
「お前は、腐敗した構造を解剖し、敵の急所を的確に突く冷徹な戦略家だ。革命には私のような熱を語るスピーカーも必要だが、何よりお前のような容赦のない知性が不可欠なんだ。……で、その大局が見える目にはどう映る? ワシントンは、この真綿で首を絞めるやり方だけで満足すると思うか?」
「大国は、敗北という事実を消化できない生き物だ。」
ゲバラが、再び軍医としての冷徹な目で状況を解剖する。
「威信を潰されたワシントンは、必ず盤面を直接ひっくり返しに来る。」
「その通りだ。」
カストロは窓の外――真っ暗なフロリダ海峡の方角へ目を向けた。
「次は、亡命者の寄せ集めなどという手品は使わない。本物の暴力(アメリカ正規軍)だ。巨大な艦隊でこの島を包囲し、空を戦略爆撃機で埋め尽くし、無数の海兵隊が上陸してくる。我々がいくら泥の上に立って魂を叫ぼうが、近代兵器による圧倒的な物量と飽和攻撃の前では、三日と持たない。精神力で絨毯爆撃は防げない。それが現実だ。」
沈黙が降りた。
大国の本気を前にすれば、いかなる英雄的ゲリラもただの肉の塊に還元される。
「盾が要る。」
カストロが、静寂を破った。
「ワシントンの狂犬どもが、絶対に手を出せなくなるような、最強の盾だ。」
ゲバラの目が、微かに細められた。彼は、友がどこに話を着地させようとしているのか、すでに読み切っていた。
「……フルシチョフから、提案があったのか。」
「そうだ。」
カストロは静かに頷いた。
「我々の島に、ソ連の兵器を置く。ただの兵器ではない。アメリカの喉元に直接突きつける、核の槍だ。これがあれば、ワシントンはもう軽々しく軍隊を送れなくなる。」
悪魔の取引だった。
アメリカの侵略から国を守るために、別の巨大な帝国の「核の最前線基地」になる。米ソの冷戦という巨大なチェスボードにおいて、最も危険なマス目に自ら進んで立つということだ。
第三次世界大戦が起きれば、キューバは間違いなく最初の火の海になる。
「ケバラ。お前はどう見る。」
カストロの問いに、ゲバラは短くなった葉巻の灰を落とし、そして、わずかに口角を上げた。
狂気を孕んだ、純粋な革命家の笑みだった。
「主権を守るために、大国の核の傘に入り、モスクワの盤面の駒になる。……ひどい矛盾だ。」
ゲバラは立ち上がり、カストロの横に並んで真っ暗な北の海を見た。
「だが、帝国の喉元に直接ナイフを突きつける。その構図は悪くない。アメリカの市民どもに、自分たちの政府が他国に何をしてきたか、その恐怖の代償を毎晩ベッドの中で味わわせてやる絶好の機会だ。俺たちはただの盾になるんじゃない。心臓を狙う槍になるんだ。」
「同感だ。」
カストロもまた、暗闇に向かって低く笑った。
「黙って盤面から掃き出されるくらいなら、世界で最も危険な駒になってやる。ソ連の船を受け入れよう。極秘裏にな。」
二人の男は、自分たちの島が人類史上最大の火薬庫になることを選んだ。
それが、大国のエゴに踏み潰されないための、最も知的で、最も狂気に満ちた「次の一手」だった。
次回アメリカ編の幕間を
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