55,ダレスからの餞別(せんべつ)~古い紙幣~
キューバ危機までのアメリカは、アメリカ自身も変化の時代でした。
中央情報局(CIA)に入る『南部』アメリカ出身の(架空の人物)メアリー・ハリンストンの目線でこの章は語ります。
ピッグス湾事件のもう一人の主役、CIA長官ダレスとの別れを描きます。ダレス長官はただの悪者だったのか――。
1961年秋 ワシントンD.C. CIA長官執務室
木枯らしが窓を叩く音がする。
ワシントンの秋は短く、すぐに底冷えのする厳しい冬がやってくる。
CIA長官執務室は、見違えるように殺風景になっていた。
壁を覆っていた分厚い報告書のファイルはすべて段ボール箱に詰められ、机の上にはインク瓶の丸い跡だけが虚しく残っている。制度の残骸だ。
私は、新しい任務のためにホワイトハウスへ移る前、最後の挨拶と整理の手伝いのためにこの部屋を訪れていた。私はなぜかこの老人を憎むことができなかった。
アレン・ダレスは、窓辺に立ち、枯れ葉が舞う空を見つめていた。
背広の肩の線が、以前より少しだけ小さく見える。あのピッグス湾の失敗以来、彼はすべての責任を一身に背負い、世間からは「無謀な作戦で若者を死に追いやった冷酷な官僚」として十字架に架けられた。
そして今日、彼は正式にこの部屋を去る。
「片付けは、これで終わりました。」
私が声をかけると、ダレスはゆっくりと振り返った。
その顔には、憑き物が落ちたような、奇妙な穏やかさがあった。
「ご苦労だったね、ミス・ハリントン。」
「大統領から、正式にホワイトハウスへの異動辞令を受け取りました。これからは、あちらで記録を取ることになります。」
ダレスは、ふっと短く笑った。
「そうか。それは名誉なことだ。君のあの『聞きにくいことを聞く目』は、若い大統領の暴走を止めるのに役立つだろう。」
ダレスは歩み寄り、机の引き出しの最後の一つを開けた。
「でも厄介だぞ、ミス・ハリントン。……私は、このあたりで引けてよかったよ。」
独り言のような、微かな本音。
だが、私は彼をこのまま綺麗な被害者として送り出すつもりはなかった。何千人もの命が失われたのだ。彼のその冷徹な計算のせいで。
私は、最後の意地悪な質問を、彼に真っ直ぐにぶつけた。
「長官。……あなたが深く関わっていた、ユナイテッド・フルーツのことは悔しくないんですか?」
中南米で絶大な利権を持ち、ダレス自身も深い関わりがあると噂されていた巨大企業。
キューバが社会主義化すれば、その莫大な利権は永遠に失われる。彼がカストロを排除したかった本当の理由は、愛国心などではなく、その私腹を肥やすためだったのではないか。
世間が彼に浴びせている最も醜い疑惑を、私はあえて言葉にした。
ダレスは、怒りもしなかった。
ただ、薄く笑っただけだ。
「いいさ。」
ダレスは、負け惜しみとも、開き直りとも取れる乾いた声で言った。
「妻と、余生を贅沢に過ごすだけの蓄えは十分にある。世間が私を強欲な悪党だと思いたいなら、そう思わせておけばいい。悪役がいないと、大衆は不安になるからな。」
彼は引き出しの奥から、小さな木箱を取り出した。
そして、その中から色褪せた「一枚の紙切れ」を摘み上げると、私の方へ差し出した。
「餞別だ。持っていきなさい。」
私はそれを受け取り、手のひらの上で見つめた。
古い紙幣だった。だが、ワシントンで見慣れた緑色のアメリカ・ドルではない。デザインも粗末で、端は擦り切れ、ひどく古びている。
「見たことのない紙幣ですね。」
「南北戦争の時に発行された、南軍の軍票だ。」
ダレスは、窓の外から視線を戻し、私の目を真っ直ぐに見た。
「アメリカが二つに割れ、同じ国の人間同士が殺し合った時代。敗れた南側の政府が刷った、呪われた金だ。ただ……
今では、価値は全くない――」
私は息を呑んだ。
彼のその目を見た瞬間、私の中で、これまでのすべての景色が、音を立てて反転していくのを感じた。
ダレスは、キューバでの作戦会議の時、私にこう言ったのだ。
『我々が最も恐れるのは、秩序が壊れ、国が乱れることだ。この国は一度、真っ二つに割れた。あれは昔話ではない』と。
この冷酷な男は、強欲な資本家でも、血も涙もない機械でもなかった。
彼は、ただ狂気的なまでに恐れていたのだ。
貧困やイデオロギーの対立がアメリカ国内に波及し、再びこの国が二つに割れ、血で血を洗う内戦(あの時代)に戻ってしまうことを。
だから彼は、海外の小国を犠牲にしてでも、泥を被り、陰謀を企て、暗殺を指示し、すべての憎悪を自分に集めてでも、「強くて安定したアメリカ」の表看板を守り抜こうとしたのだ。
正義のためではない。
だが、純粋な悪でもなかった。
ただ、一つの国が割れるという圧倒的なトラウマを背負い、二度と同じ悲劇を繰り返させまいと、暗闇の中で手を血に染め続けた、一人の不器用で孤独な老人。
それが、アレン・ダレスという巨人の正体だった。
「捨ててくれても構わないよ。」
ダレスはそう言い残すと、木箱を閉じ、愛用のコートを羽織った。
振り返ることはなかった。彼はそのまま執務室の扉を開け、静かに廊下へと消えていった。残されたのは、彼が背負っていた重すぎる十字架の気配だけだった。
私は、誰もいなくなった部屋で、手のひらの上の古い軍票を見つめていた。
価値のない、敗者の紙切れ――
だがそれは、硫黄島で片足を失って帰ってきた私の父が、沈黙の中で必死に守り抜こうとしていた「家族の平穏」と同じ重さを持っている気がした。
正義も、秩序も、結局は誰かの人生の言い訳に過ぎない。
だが、その言い訳のために、すべてを投げ打って悪役を引き受ける人間がいる。
だからこそ、この世界は恐ろしく、そして
――どうしようもなく愛おしい――
私は、軍票をそっと自分の手帳の間に挟み、窓ガラスに触れた。
ガラス越しのワシントンの空は、どこまでも高く、澄み切った青色をしていた。
もうすぐ、新しい大統領の、新しい時代が始まる。
ホワイトハウスの、甘く危険な匂いが私を呼んでいる。
私は手帳を胸に抱き、一歩、新しい世界へと足を踏み出した。
次回から新章『終末時計が告げる刻~キューバ危機~』に入ります!
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