52,敗北をせざるもの
アメリカの目線を架空の架空の人物、メアリー・ハリンストンで描きます。
1961年4月17日 ホワイトハウス 大統領執務室
分厚いマホガニーの扉が開く。
オーバルオフィスの中は、数日前に「勝率100パーセント」の作戦を承認した時の空気が、嘘のように冷え切っていた。
いや、外の天候のせいではない。部屋の中心に立つ男の放つ温度が、絶対零度だったのだ。
ジョン・F・ケネディ大統領は、窓の外のローズガーデンを背にして立っていた。
私とダレスが入室しても、すぐには振り返らない。その背中が、すでに拒絶の姿勢を作っていた。
私はいつもの壁際の椅子に座り、震える手でノートを開いた。
「大統領。」
ダレスが口を開いた。声は平坦を取り繕っていたが、その底には隠しきれない焦燥があった。
「状況に、予測不能な変数が発生しました。敵は我々の空襲を事前に察知し、航空機を温存していました。現在、我が方の上陸部隊はピッグス湾内で激しい空爆と砲撃を受け、身動きが取れません。」
ケネディはゆっくりと振り返った。
その目は、怒りというよりは、氷のように冷ややかな失望を浮かべていた。
「予測不能な変数、だと?」
大統領の声が、静かに部屋に響く。
「勝率100パーセントの計算式に、そんな便利な言葉が存在するとは知らなかったな、長官。」
ダレスの顎の筋肉が、微かに動いた。
老練な権力者が、若き指導者に完全にやり込められた瞬間だった。しかし、ダレスには引き下がる余裕はなかった。
「現場の損耗は致命的なレベルに達しつつあります。弾薬を積んだ輸送船も沈められました。このままでは、部隊は海に追い落とされるか、全滅します。」
ダレスは一歩、大統領の机に近づいた。
「大統領。沖合に待機している空母エセックスから、ジェット戦闘機を飛ばす許可を。空からの援護があれば、まだ彼らを救えます。ここで押せば、まだ勝てます。」
救命の懇願。いや、これはダレス自身のキャリアと、CIAという組織の威信を救うための懇願だ。
ケネディは机に両手をつき、ダレスを真っ直ぐに見据えた。
数日前に見せた、あの魅力的な笑顔はどこにもない。そこにあるのは、冷徹な国家の顔だけだった。
「拒否する。」
短い、だが絶対的な言葉だった。
ダレスの目が、わずかに見開かれる。
「……大統領、しかし彼らは我々が送り込んだ――」
「我々が送り込んだのではない。」
ケネディがダレスの言葉を鋭く遮った。
「彼らは『祖国を取り戻すために自発的に蜂起したキューバの愛国者』だ。そうだろう? それが君の作った台本だ。」
「それは建前です! 現実に彼らは今、我々の助けを待って血を流している!」
ダレスの声に、初めて生々しい「感情」が滲んだ。
それは部下を思う愛情ではない。自分の作り上げた完璧な作品が、目の前で無惨に壊されていくことへの苛立ちだ。
ケネディの表情は、一ミリも動かなかった。
「これは、連邦の敗北ではない。」
大統領は、静かに、だが重々しく言い放った。
「アメリカ合衆国は、この作戦に一切関与していない。もしここでエセックスから戦闘機を飛ばせば、それはアメリカ合衆国による明白な軍事介入であり、侵略行為だ。ソ連を本気で怒らせ、最悪の場合、第三次世界大戦の引き金になる。」
大統領は、まるで自分自身に言い聞かせるように、作戦の前提条件を繰り返した。
「数千人の亡命部隊の命と、数億人の国民の命。私は大統領として、後者を守る。我々の指紋を残すわけにはいかないのだ。絶対に。」
「……見殺しにするというのですか。」
ダレスの言葉が、重い塊となって床に落ちた。
私はノートにペンを走らせながら、息が止まりそうになった。
インクが紙に染み込む。
『これは、連邦の敗北ではない』
このたった一言で、ピッグス湾で戦っている数千人の男たちの運命が決まった。
私は悟った。
制度というものは、「人間の命」を守るためにあるのではない。「国家の顔」と「表向きの理屈」を守るために存在しているのだ。
都合の良い時は「英雄」として祭り上げられ、都合が悪くなれば「無関係なよそ者」として切り捨てられる。
それが、政治という化け物の正体だった。
「長官。」
ケネディが、話を終わらせるように言った。
「君の仕事は、戦闘機を飛ばすことではない。この件が我々に結びつかないよう、徹底的に証拠を隠滅し、言い訳を用意することだ。……以上だ。」
ダレスはしばらくの間、動かなかった。
老いた巨人が、見えない槍で心臓を貫かれたような、そんな立ち姿だった。
やがて彼は、感情を完全に押し殺した声で短く言った。
「……承知いたしました、大統領。」
ダレスが踵を返す。
私も慌てて立ち上がり、頭を下げてから扉に向かった。
分厚いマホガニーの扉が、私たちの背後で重々しい音を立てて閉まった。
その音は、ピッグス湾で救いを待つ男たちの頭上で、永遠に希望の扉が閉ざされた音のように私には聞こえた。
現場の地獄は、ここからは見えない。
血の匂いも、もうここには届かない。
ワシントンは今日も、綺麗で、冷たいままだった。
次回、その時のキューバの光景は?
ピッグス湾事件の最終章が始まります。
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