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ゲバラとカストロ ~革命は二人で始まり、一人で終わる~  作者: 相馬ゆう
2つのアメリカ、2つのキューバ
44/52

43,メアリーの旅立ち

キューバ危機までのアメリカは、アメリカ自身も変化の時代でした。

中央情報局(CIA)に入る『南部』アメリカ出身の(架空の人物)メアリーの目線でこの章は語ります。

1960年6月 卒業式の一週間後 バージニア州 ハリントン家


卒業式の芝生の匂いは、もう家には残っていなかった。

残っているのは、磨いた床の匂いと、朝のコーヒーの匂いだけだ。


いつものように、窓は半分だけ開いている。

初夏の湿った風が入ってくる。

カーテンが少しだけ揺れる。

同じ家なのに、空気が違う。

“終わった”空気ではなく、“始まる”空気だ。


玄関にスーツケースが置いてあった。

新しいものじゃない。

祖父の時代の革鞄だ。

角が擦れて、持ち手だけが妙に艶を出している。

この家の“伝統”は、こういう物に染みている。


母は台所で動いていた。

パンを焼く音。皿を置く音。

言葉は少ない。

母は不安になると、言葉より先に手を動かす。


父はダイニングの椅子に座っていた。

新聞を広げているが、読んではいない。

読んでいるふりだけをしている。


父の不安は、こういう形で出る。

“読むべきもの”に目を落としていれば、見なくて済むものがある。

戦場から帰ってきた男は、たいていそうだ。

怖いものを見ないためじゃない。

怖いものを見たあとでも、朝を続けるためだ。


そんなパパが――今日はとても愛おしい。


私は薄いグレーのワンピースを着ていた。

卒業式のガウンより、ずっと軽い。

でも、肩が少しだけ重い。

布の重さではない。

私の中に増えた“言えないもの”の重さだ。


机の引き出しに、白い封筒が一つ入っている。

薄いのに、角が鋭い。

差出人は“政府”としか読めないような文字。

名前が書かれているのは私の方だ。

――メアリー・バリントン


私はその封筒を見ないようにして、朝ごはんの席に座った。


母が卵を置く。


「食べなさい。向こうで食べられるか分からないんだから。」


“向こう”――

母は“ワシントン”と言わない。

言うと、実在してしまうからだ。


――母もまたバージニアで生まれ、バージニアを形にしたような我が家に嫁ぎ、父が戦場にいるときはこの家守った――


私はトーストをちぎって口に運んだ。

バターの匂いがして、少しだけ安心する。


母が私の手元を見て、言った。


「……お祈りは?」


「あ。」


私は笑いかけて、止めた。


「忘れてた。」


母の目が揺れる。

言葉が先に出る不安だ。


父は何も言わない。

新聞を一度だけ、きれいに畳んだ。


それも不安だ。

父は怒る時は怒鳴らない。

この家の作法が崩れそうな時、父は“音”を減らす。

余計な音を減らして、心拍だけを聞く。

そうすれば、次の一歩を外さずに済む。


私はそれを知っている。

父は表に出す言葉より、動作の方が雄弁だ。


「大丈夫よ。」


私は明るく言い直す。


「すぐ慣れる。向こうの空も、ちゃんと見てくる。」


父が新聞を机の端に置いた。

義足が椅子の脚に軽く当たって、乾いた金属音が鳴る。

その音は、家の中の沈黙より正直だ。


「ワシントンか。」


父の声は短い。

質問じゃない。確認だ。


「ワシントンよ。お父様が大統領から勲章をもらった場所よ。」


私は言った。

迷うふりはしない。

迷いを見せると、母の不安が増える。

父の沈黙が長くなる。


父が私を見た。

薄い目だ。

薄いのに、逃げ場がない。

この目は、戦場で何かを見てきた目だ。


「どこに勤める。」


私は息を吸って、吐いた。

この家では、嘘をつきたくない。

でも、全部は言えない。


「連邦で働く。どこかは言えないの。」


母が小さく息を飲む。

父は顔色を変えない。

変えないのが、父の癖だ。

硫黄島から帰ってきた時から、そうだった。


私は言葉を足した。

父に届く言い方で。


「お父さんみたいに、国に尽くすところよ。だから大丈夫。」


父は短く頷いた。

きっと情報機関インテリジェンスだと分かったんだろう。


「……そうか。」


そして、すぐに言った。

軍隊の作法のまま。


「なら、余計なことは言うな。余計なことも聞かん。」


母がぎこちなく笑う。


「あなた、そんな言い方――」


「いい。」


父が遮った。

母が黙る。

父はコーヒーを一口飲み、私に言った。


「働くなら、ちゃんと働け。逃げ道を残すな。」


私は頷いた。

それが父の祝福の言い方だと、私は知っている。


食卓の時計が刻む音が、やけに大きい。

窓の外では芝生が眩しいほど青い。

いつもと同じ青だ。

でも今日の青は、軽くない。

青い空があるせいで、逃げる理由が見つからない。


「……手紙は?」


母が言った。

声は穏やかだ。

穏やかだからこそ、怖い。


「毎週は無理。」


私は正直に言う。


「でも、書く。電話もする。」


母はそれで納得した顔をして、何も言わなかった。

納得じゃない。飲み込んだのだ。

母はいつも、飲み込んで家族を守る。


玄関へ行く。

父がスーツケースを持ち上げる。

義足の“コツコツ”という音が、廊下に響く。

この家の音だ。

私はこの音を、嫌いになれない。


外へ出ると、空気が少しだけ乾いていた。

初夏の湿気の中に、どこか冷たいものが混じっている。

旅立ちの日の空気だ。


父がトランクにスーツケースを入れる。

金具が鳴る。

昔の革の匂いが一瞬だけ立つ。


父はトランクを閉めてから、私の肩に手を置いた。

重い手だ。

重いけど、嫌じゃない。


「メアリー。」


父が私の名前を呼ぶ。

呼ぶ時だけ、少しだけ柔らかくなる。


「向こうでは、味方を間違えるな。」


「味方?」


「笑って握手する奴が味方とは限らん。

だが、敵だと思った奴が味方のこともある。」


父はそこで言葉を切った。

戦場の話をしない父が、戦場の言い方だけを残す。


私は口を開きかけて、閉じた。

聞きたいことが多すぎて、どれも聞けない。

私はもう、“言えない側”へ行くのだ。


母がハグをする。

香水の匂いが、昨日より少し濃い。


「行ってらっしゃい。バージニアに時々、帰ってくるのよ。」


「絶対、帰る。」


私は言った。

帰る場所があるから出ていける。

それが本当であるうちは。


※※※※※※※※※※


車が動き出す。

窓の外で父と母が小さくなる。


私は最後にもう一度だけ振り返る。

父は立っている。

まっすぐ立って、手を上げる。

軍人の敬礼とは違う。

家族の合図だ。


そして、いつもの不器用な声で言った。


「……いいか、メアリー。早く孫を見せろ。」


目の前にはライ麦畑がどこまでも広がる。

父と母が見えなくなるまで私は二人を見ていた。

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