39,静寂と規律~ゲバラとサルトル
1960年当時の世界的カリスマ思想家「サルトル」がキューバ政府に招かれます。
この章では、サルトルのキューバについてのレポート「砂糖の上嵐」と同行ボーヴォワールの証言から当時のキューバの現状とカストロとゲバラの人間を紹介します。
夕暮れの道を戻ると、ジープのエンジン音だけが残った。
カストロと別れた後なのに、昼の言葉がまだ耳に張り付いている。カストロは言葉を投げ、人を動かす。投げた言葉が現場で形になる。革命が言葉から作業になる瞬間を、何度も見せられた。
宿に着く。扉が閉まる。街のざわめきが遠のく。汗の匂いがやっと薄くなる。そこでようやく、俺は呼吸をし直す。
ドライブが終わったからじゃない。
カストロの速度から降りたからだ。あの速度は人を動かすが、置き去りにもする。
夜は涼しくならない。熱が壁に残っている。
案内された建物は静かだった。玄関に飾りはない。廊下の灯りは弱い。
この建物の「主人」は静けさかもしれない。
騒がしい場所に権力があるとは限らない。
時々、権力は息を潜めた部屋にいる。
扉が開く。机、書類、安いたばこの煙。
そして微かな薬品の匂い。
チェ・ゲバラは机の前にいた。
軍服のまま、書類に目を走らせている。
カストロが「熱帯の嵐」なら、この男は「冬の刃物」だ。
室温が数度下がったような錯覚を覚える。
彼は顔を上げる。
笑わない。だが冷淡ではない。
余計な愛想を削ぎ落とした、実用的な顔だ。
机の端には、気管支拡張剤の吸入器。
革命の英雄は、自身の肺の脆弱さを隠そうともしない。
時計は午前0時を回っていた。
彼女が口火を切る。
「ねえ。いつ寝るの?」
ゲバラは淡々と答える。
「寝る時間は、作る。」
「それ、体が壊れる言い方よ。」
「壊れない方法を探すより、壊れる前にやる。」
短い。
カストロが濁流なら、ゲバラは滴るしずくだ。
一言一言が重く、逃げ場がない。
私は聞いた。
「君はここで、ずっと働いているのか?」
「必要なだけ。」
「必要って誰が決める?」
「俺が決める。」
彼女が肩をすくめる。
「ひどい。自分への独裁ね。」
ゲバラは表情を変えずに言った。
「独裁は国を腐らせる。だが、規律は国を守る。」
彼は言葉を飾らない。
事実だけを積み上げる。
「カストロは今日、現場で問題を解決していたわ。
あなたは?」と彼女が聞く。
ゲバラは即答する。
「止めるだけでは終わらない。原因を切除する。」
「原因?」
「特権だ。甘えだ。楽な近道だ。」
「……随分ときれいごとに聞こえるわね。」
ゲバラの目が、彼女を射抜く。
鋭いのではない。透明なのだ。
「潔癖症の話ではない。境界線の話だ。」
「線?」
「越えるなという線だ。
越えたら、革命はただの看板になる。」
私は息を呑む。
カストロは人を「動かす」。
ゲバラは人を「律する」。
この二つのエネルギーが、今のキューバを支えている。
だが、それはあまりに異質だ。
若い――あまりにも危うげだ。
私はあえて挑発した。
「理想主義者すぎないか?
現実はもっと汚い。妥協しなければ、国家運営などできない。」
部屋の空気が張り詰めた。
沈黙。
それは重苦しいものではなく、真空のような静けさだった。
ゲバラは静かに口を開いた。
声を張り上げない。
だが、その言葉は部屋の隅々まで響いた。
「もし私たちが、空想家だと言われるならば。
救いようのない理想主義者だと言われるならば。
できもしないことを考えていると言われるならば。
……何千回でも答えよう。
その通りだ、と。」
彼女が息を止める。
これは演説ではない。
自分自身を磔にするための、鋼鉄の祈りだ。
「苦しくないの?」
張り詰めた空気が支配する中、彼女が小さく聞いた。
「苦しい。だから、やる。」
私は理解した。
彼は他人を説得しない。
ただ、「逃げない」という一点において、他者を圧倒する。
その純度は美しいが、人間が生きていくには、あまりに空気が薄すぎる。
シンプルな言葉のやりとり。
むしろ沈黙とタバコの煙だけがこの部屋の支配者だ。
時計の針は午前3時を回っていた。
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