35,革命家という選択~サルトルの旅~
新章『砂糖の上の嵐』ではノーベル賞を辞退したフランスの哲学者「サルトル」からみたキューバを紹介します。
1960年冬のパリ、オルリー空港は、巨大な冷蔵庫の内部に似ていた。
均一な白い光。ガラスと金属の冷たさ。
そこには、遠くへ行く場所特有の、インクとジェット燃料の匂いが混ざっていた。
私は搭乗口へ向かう。
背後から、靴音が近づく。
遠慮ではなく、獲物との間合いを測る足音だ。
新聞記者たちが私を追う。
「サルトル先生。一言だけ。」
呼び止め方に迷いがない。
いつも彼らの質問は俗悪だが、声は冷静に訓練されている。
「先生、ノーベル賞の噂ですが、選ばれても辞退するというのは本当ですか?」
私は歩く速度を緩めずに答える。
「私は作家だ。競走馬ではない。賞を取るために走ってはいない。」
記者は表情を変えない。想定問答の範囲内だという顔で、次へ行く。
「アルジェリアが我が国から独立をしようとしています。植民地独立派への先生の発言は国内で波紋を呼んでいます。
……その渦中に、なぜキューバへ?
革命政府が利用しているのでは、という評価もあるようですが――」
「利用?」
私は足を止めた。
「彼らは私の『危険な思想』が欲しいのではない。
『フランスの良心』という肩書きが欲しいのだ。
西側の知識人が、アメリカの裏庭に足を踏み入れた。その事実が必要なんだ。」
記者のペンが走る。
彼は私の言葉ではなく、見出しになるフレーズを探している。
「先生。最後に一つ。
社会主義へ、完全に転向ですか?
――そういう意見もあります。」
「私は看板を買いに行くのではない。」
私は一拍置いて、相手の目を見て言った。
「看板を掛け替えれば正しくなる。そういう安易な発言が私は嫌いだ。
正しいかどうかは、言葉ではなく、私自身の自由な行動で決まる。」
私は搭乗口をくぐった。
記者は追ってこない。
彼の興味はすでに、明日の朝刊のスペースに移っている。
※※※※※※※※※※
機内は乾燥していた。
隣の席でパートナーであり戦友ボーヴォワールが――、彼女が鞄を押し込みながら言う。
彼女の声はいつも明晰で、私の思考の澱を取り除く。
「世の中って、ラベルが好きね。
ノーベルだの、転向だの。右か左か。」
「ラベルは便利だ。思考を停止できる。」
「便利だから、考えなくてよくなるのね。
二つに分けて安心したいだけ。つまらない考えね。」
私は座席のベルトを締める。
エンジン音が太くなり、機体が重力に逆らい始める。
「でも、あなたも分かってるんでしょ。
キューバがあなたを呼ぶのは、宣伝のためだって。」
「分かっている。」
「それで行く。変ね?」
「変でいい。
現場を見ないで語る批評家の方が、もっと安っぽい。」
彼女は少し笑って、すぐに真顔に戻った。
ここからは、彼女の分析の時間だ。
「で、キューバはどっちなの。
アメリカの反乱者?
それともソ連の新しい手駒?」
「その『どっちか』という問いに罠がある。」
私は窓の外の、色彩のない灰色を見ながら言う。
「資本主義か社会主義か、というラベルの前に、『帝国主義』という現実がある。
強い国が、弱い国の財布と命を握る仕組みだ。
名前が違っても、構造が同じなら、やられる側には同じことだ。」
「アメリカもソ連も、その『帝国』なの?」
「形が違うだけだ。
アメリカは金と基地で鎖を、
ソ連は教義と党で鎖を縛る。
どちらも『自分の陣営』を広げたがる点では同じだ。」
彼女が眉を上げる。
核心を突く時の顔だ。
「じゃあ、ヨーロッパは?
私たちのフランスは?」
「フランスは“古い型”の帝国主義をやった。
アルジェリアがそれだ。
暴力で押さえつけ、文化で覆い隠す。
だがいま泥沼に落ちている。
イギリスもドイツも日本も――
今、私たちはその醜い後始末に苦慮している。」
彼女は短く息を吐いた。
「あなたらしくないわね。後始末って、きれいな言い方。」
「きれいではない。
戦争が終わっても、植民地支配の傷は消えない。
人間の顔に傷は残る。言葉にも残る。
フランスが『自由の国』を名乗りながら、海の外を鎖で縛っていた。その矛盾の結果だ。」
「で、あなたは何を確かめに行くの?」
「キューバが、その帝国の重力圏から出るために、
人間が本当に動いているかどうかだ。」
彼女は手元のメモに視線を落とし、顔を上げた。
「あなたの言う“自由”って結局なに?
哲学的な気分じゃないことは分かるけど。」
「気分じゃない。物理的なものだ。」
私は簡単に言い直す。
「自由とは、選ぶことだ。
そして選んだあとに、『私は知らなかった』と言い訳しないことだ。
退路を自分で塞ぐこと。それが自由だ。」
「あなたの自由ってきついわね。」
「きつい。まさに人間は自由という刑罰を受けている。
だが、痛みを伴わない自由は、たいてい嘘だ。」
彼女は納得したように頷く。
「革命は?
旗の色を変えたら革命?」
「違う。
革命は行為だ。
待つことをやめて、人が自分で動き始めることだ。
行為のない革命は、最後に支配の配置転換になるだけだ。
彼らの革命には行為があるのか?私はそれを見に行く。」
彼女が少し間を置いて言う。
「例のペーパーナイフ?」
私は苦笑した。
「そうだ。例のやつだ。」
「ペーパーナイフは『紙を切る』という目的が先にあって、つくられる。
でも人間は違う。
最初から『革命家』として生まれる人間なんていないという話ね。」
「そうだ。」
「じゃあ、私たちが会う二人は?」
「最初は何者でもない。
だが、おそらく彼らは選び続けて、革命家になった。
選び続けるから強い。
そして、選び続けるから……
いつか壊れるかもしれない。」
彼女は一瞬だけ黙った。
エンジン音が変わり、機体が水平飛行に移る。
彼女が小さく言う。
「ねえ。ひとつだけ約束して。
私たち、ちゃんと一緒に戻ろう。」
「戻る。そして、戻った時に嘘は書かない。」
飛行機は大西洋の上に出た。
窓の外の色が変わる。
北半球の冬の灰色から、熱帯の強烈な青へ。
空気が濃くなる予感がした。
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