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ゲバラとカストロ ~革命は二人で始まり、一人で終わる~  作者: 相馬ゆう
『歴史は私を無罪とするだろう!』~カストロの挫折~
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10,祖国か、死か!(3/22大幅改稿)

(3/22大幅改稿)

祖国か、死か!

この言葉の真の意味をクライマックスで描きます。

◆酒場


酒場の空気は、もう夜の終わりの匂いをしていた。

ランプの火は小さくなり、皿の音も、笑い声も、少しずつ減っている。

誰かの一日が終わる時の匂いだ。


だが、二人のあいだでは、まだ何も終わっていなかった。


カストロはグラスから手を離した。

テーブルの上には、水差し、濡れた輪、ゲバラの吸い口、そして言葉になりかけている沈黙が残っている。


ゲバラは咳を一つだけ飲み込んだ。

飲み込んでから、カストロを見る。

その目は、さっきまでの“聞く目”とは少し違っていた。

相手の話の中に、自分の立つ場所があるかどうかを測る目だった。


カストロはその視線を受け止めたまま言った。


「……医者が要る。」


ゲバラは返事をしない。

吸い口に指を添えたまま、呼吸を整える。


カストロは続けた。


「山へ入る。隠れ家を回る。船で戻る。怪我人も出る。熱病も出る。食い物も足りない。死ぬ奴もいる。」

一拍。

「だから医者が要る。」


ゲバラは静寂の中で、小さく目を細めた。


「優男の医者じゃだめか?」


カストロは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「だめだ。」


「なぜ。」


「泥を嫌う。」


ゲバラは鼻で笑った。

その笑いは軽くない。

“それくらいは分かっている”という笑いだった。


カストロは言った。


「こっちに必要なのは、病人を見るだけの医者じゃない。死なせない側へ立つ医者だ。」


酒場の奥で、椅子が引かれる音がした。

誰かが帰る。

だが、このテーブルだけはまだ夜の内側に残っている。


ゲバラはようやく口を開いた。


「巻き込む気だな。」


問いではなかった。

確認だった。


カストロは首を振る。


「違う。」


ゲバラは黙ったまま続きを待つ。


「巻き込むんじゃない。選ぶのはお前だ。」


その言葉が落ちたあと、少しだけ沈黙があった。

沈黙は空白ではなかった。

ちょうど二人のあいだに、まだ見えない海が横たわっているような沈黙だった。


ゲバラはグラスに触れた。

触れた指先が、少しだけ冷たそうに見えた。


「どこへ戻る。」


「キューバだ。」


「俺の祖国じゃない。」


カストロは頷いた。


「そうだ。」


「なのに、来いと言うのか。」


「言う。」


カストロは、そこで初めて少しだけ前へ身体を寄せた。

寄せすぎない。

だが遠すぎもしない。

人間を自分の側へ立たせる時の距離だった。


「祖国ってのは、地図の中にだけあるわけじゃない。」


カストロは言った。


「他人の秩序に踏まれてる場所があるなら、そこはお前の敵でもある。」


ゲバラは何も言わない。

咳を一つだけ飲み込み、視線を逸らさない。

その沈黙が、むしろ答えに近かった。


「M-26-7 は、失敗の日付から始まった。」


カストロは続ける。


「今度は、それを島へ戻す。」


ゲバラは吸い口から指を離した。

そのほんの僅かな動きが、場の空気を変えた。


「医者としてか。」


「いや。」


カストロは言った。


「最初はそうだ。」


ゲバラの口元が、ほんの少しだけ動く。


「最初は、か。」


「そうだ。」


ゲバラはそこでようやく頷いた。

大きくではない。

だが、はっきりと。


「分かった。」


それだけだった。

誓いも、握手も、芝居じみた言葉もない。

だが、その短い返事だけで十分だった。


その夜、二人は酒場を出た。

外の空気は冷たかった。

冷たい空気は肺に刺さる。

だが刺さる痛みは、前へ行く人間にとっては悪くない。

まだ自分が生きていると分かるからだ。


革命は、こういう夜に始まる。

大きな演説じゃない。

短い確認の言葉と、頷き一つで始まる。


※※※※※※※※※※


1956年11月25日。メキシコ、トゥクスパン。


夜明け前の港は暗かった。

暗いから、濡れた船体の輪郭だけがやけに白く見える。

白く見えるものほど、信用ならない。

だが、今夜は信用ならないものに賭けるしかなかった。


グランマ号。


本来なら遊覧用に過ぎない老朽船。

ボロい。狭い。積みすぎている。

まともな軍人なら、こんな船に革命の未来を乗せたりしない。


だが、まともな方法では、祖国は戻ってこない。


港には男たちがいた。

若い顔。疲れた顔。引き締まった顔。まだ少年の面影を残す顔。

全部で八十二人。

M-26-7 の名を、まだ胸の中でしか言えない男たちだった。


武器は足りない。

弾も足りない。

食料も足りない。

船も小さすぎる。

だが、足りないものばかりの時、人間は逆に“これしかない”と理解できる。


ゲバラは船べりの近くで、吸い口を握っていた。

咳を一度だけして、また何事もなかったように呼吸を整える。

カストロはそれを見たが、見ないふりをした。

弱さを見世物にしない男に対しては、その沈黙が礼儀になる。


船へ荷を運ぶ男たちの動きは慌ただしい。

押し合いではない。

生きるための詰め方だった。


カストロは人数を数えない。

数えると、かえって脆く見える。

脆さは知っている。知っているから、いまさら確かめない。


彼は船を見上げ、海を見た。

海は暗い。

暗い海は、時々、人間の未来を全部飲み込める顔をする。


ゲバラが横から言った。


「どうする。」


カストロは視線を動かさない。


「何をだ。」


「みんなを乗せるんだろう。戻るんだろう。なら、言葉が要る。」


カストロは少しだけ眉を動かした。


「言葉?」


「スローガンだ。」


ゲバラは言った。


「こういう時、人間は短い言葉でしか前へ出られない。」


カストロは息を吸った。

この息は自分のためだけじゃない。

八十二人のための息だった。


「決まってる。」


と彼は言った。


ゲバラが目を上げる。


「簡単だ。」


カストロは海を見たまま言う。


「祖国か、死か!――だ。」


ゲバラは一瞬だけ黙った。

それから鼻で笑った。


「俺の祖国じゃない――。」


その否定が、カストロには妙に気に入った。

盲信しない男は、最後まで隣に立てる。

盲信しないから、間違いも見る。

間違いを見る人間でなければ、革命は途中から腐る。


一拍。


港の風が冷たい。

冷たい風は肺に刺さる。

ゲバラは咳を飲み込み、続けた。


「だが、後ろ半分は気に入った。」


「死か?、か。」


「そうだ。」


ゲバラは海の暗さを見ている。

恐怖じゃない。

ここから先は引き返せないと確認する目だった。


「革命は命がけだ。命がけだから、何より清潔だ。」


静かな声だった。

夜に合う声だった。

夜は叫びに弱い。静けさには強い。


「清潔さは、愛にもつながる。」


ゲバラは小さく息を吐く。


「いい。――それでいこう。」


その“愛”は甘い言葉じゃない。

今夜の愛は、船底に溜まる吐瀉物の匂いの中にある。

今夜の愛は、咳を折り畳む喉の奥にある。

今夜の愛は、名前を呼ばない優しさの中にある。


カストロは言葉を足さなかった。

足せば軽くなる。

今夜は軽くしない。


ただ、短く頷いた。


それだけで十分だった。


※※※※※※※※※※


船は小さかった。

小さすぎて、笑えるほどだった。

だが笑えば恐怖が漏れる。

恐怖は伝染する。伝染する恐怖は仲間を殺す。


板の上は湿っていた。

塩と油と汗の匂い。

夜の港は暗い。暗いから、光るものが見える。

金属。目。歯。そして吸い口。


男たちは押し合って船に乗り込む。

押し合いは喧嘩じゃない。

生きるための詰め方だ。


船は小さい。

人間は多い。

多い方が勝つわけじゃない。

多いほど、地獄が濃くなる。


ゲバラが隣にいた。

咳を一度だけして、吸い口を握り直す。

カストロは何も言わずに、彼の手元から目を逸らした。

見れば言葉が要る。言葉は軽くなる。今夜は軽くしない。


誰かがロープを引く。

誰かが怒鳴る。

誰かが十字を切る。

誰かが笑おうとして失敗する。


グランマ号は、そんな男たちをまとめて海へ引き受けた。


出航した瞬間、陸の灯りが後ろへずれた。

ずれたというより、向こうから離れていった。

祖国ではない土地の灯りだ。

だが、戻る場所としては最後の灯りでもある。


海へ出ると、狭さはすぐ地獄になった。

膝がぶつかる。息が重なる。

波が壁になる。吐く。吐いても終わらない。

吐瀉物の匂いが船底に溜まり、誰のものか分からなくなる。


誰かが呻く。

誰かが祈る。

誰かが黙って歯を食いしばる。

その全部が、同じ湿った空気に混ざる。


嵐が来た。

船が傾く。

胃が浮く。

海は残酷だ。残酷さは平等だ。

平等は、ときに希望になる。希望は、ときに人間を狂わせる。


ゲバラが吸い口を握り、息を整えた。

カストロは見ないふりをして、水を彼の手元へ寄せた。

見ないふりは拒絶じゃない。尊重だ。

この男は弱さを見世物にしない。カストロも同じだ。


彼は思った。


祖国は、誰かが背負わなければならない。

なら、まずは自分が背負う。


死は、たぶん隣の男が笑って引き受ける。


だから進む。

戻る場所は、もうなかった。


※※※※※※※※※※


1956年12月2日。キューバ東部、オリエンテ州沿岸。


波が、胃をひっくり返す。

最悪だ。


船が小さい。

小さすぎる。


本来なら遊覧用に過ぎない老朽船――グランマ号に、八十二人が押し込まれていた。


膝が誰かの肘に当たり、肘が誰かの胃に刺さる。

木の湿気。ガソリン。吐瀉物。塩水。

嵐。雨。暗闇。

――それに、人の熱。


吐く場所がない。

吐いたら終わりだ。匂いで、音で、居場所がばれる。

喉が焼ける。水を飲むのも怖い。立てなくなる。

そのときは――上陸しても、撃たれるだけだ。


「本来なら、八人乗りらしいぞ!?」


誰かがそう言って笑った。

冗談だと思いたかった。

だが、冗談じゃなかった。


「……海岸だ!」


叫び声。

顔を上げる。

闇の向こうに砂浜の輪郭が見えた。見えた、次の瞬間。


人影。

銃口。

マズルフラッシュ。


海岸に、兵隊がいる。


「おかしい……なんで……?」


声が自分のものじゃないみたいに震える。

嵐の夜だぞ。こんな日に、こんな場所で。待ってるはずが――


「待ってるさ。」


船の奥から低い声。


「――俺が予告した。」


振り向く。

髭面の男が、濡れた前髪の隙間からまっすぐこちらを見ていた。

疲れている。全身びしょ濡れだ。なのに目だけ冴えている。


フィデル・カストロ。


「……予告?」


「敵にだ。上陸すると、な!」


背中が冷たくなる。

理解した瞬間、笑いそうになった。最悪すぎて、笑うしかない感じの。


「……最悪だ――。」


誰かが吐いた。

誰かが短く十字を切った。

誰かが銃を握り直す音が、やけに大きく聞こえた。


船底が浅瀬に擦れて、嫌な音を立てて止まる。

止まった瞬間がいちばん怖い。逃げ場がなくなるからだ。


「行くぞ!」


カストロの声が飛ぶ。

怒鳴り声じゃない。合図だ。

――ここで迷ったら終わり、という合図。


男たちは海に降りた。


波が足をさらう。

泥が靴を奪う。

背中の荷物が人間を沈める。濡れて、重くて、引きずられる。


一歩、二歩――


乾いた音が夜を裂いた。


砂が跳ねた。

人が倒れた。

叫び声が途中で途切れて、そこで“空白”ができる。


その空白の中で、誰かが喉の奥から声を絞り出した。


「――祖国か、死か!」


掠れた声だった。

雨と血と塩に濡れた声だった。


だが、それで十分だった。


伝説は、たいていこういう最悪の場所から始まる。

祖国か、死か!

愛もあり残酷でもあるスローガン。


その言葉は、後に世界を揺るがします。


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