107,マクナマラの尺度
史実の通りベトナム戦争は泥沼にはまります。
しかし、二つの大戦後総力戦をきっかけに戦争はどんどん合理化されルールが変わっていきます。
マクナマラはその象徴でした。
戦争は、始めるより続ける方が難しい。
始める時、人は怒りの言葉を使う。
だが、続けるには別の言葉が要る。
どこまで前進しているのか。
どれだけの代価を払っているのか。
何をもって、勝っていると言うのか。
その答えがなければ、戦争は長引くだけで、誰にも説明できないものになる。
※※※※※※※※※※
一九六五年三月 ワシントンD.C. 国防総省
ローリングサンダー作戦が始まってから、会議室の空気は少し変わった。
始めること自体は、もう決まっている。
これから決めなければならないのは、どう続けるかだった。
私は壁際の席に座り、手帳を開いた。
机の上には、戦況図のほかに表が並んでいた。
数字ばかりだった。
国防長官ロバート・マクナマラは、いつもより丁寧にその紙を揃えている。
大統領リンドン・ジョンソンは、会議が始まる前から不機嫌そうだった。
勝ちたいのではない。
少なくとも、この部屋ではそう見えた。
負けているように見られたくない。
そちらの方が、この人には切実らしかった。
統合参謀本部議長アール・ウィーラーは静かに座っていた。
海兵隊司令官ウォレス・グリーンは、その静けさの中でひとりだけ地上の重さを持っていた。
空軍参謀総長ジョン・P・マコーネルは、声を荒げなくても北を叩くべきだと信じている顔をしていた。
国防長官マクナマラが口を開いた。
「陸軍はその地図で南を見る。空軍はその表で北を見る。海兵隊はその図で拠点を見る。このままでは、全員が別の戦争を話し続けることになる。」
大統領ジョンソンが言った。
「だから数字か。」
国防長官マクナマラは答えた。
「はい。共通の言葉が要ります。」
大統領ジョンソンが言う。
「何の数字だ。」
国防長官マクナマラは一枚の紙に手を置いた。
「キルレシオです。こちらが一人死ぬあいだに、敵が何人死ぬか。損耗の比率です。南で倒したベトコンと、国境の外から入ってくる北の兵も分けて集計する。少なくとも、同じ表の上で話ができるようになります。」
部屋が少し静かになった。
統合参謀本部議長ウィーラーが先に口を開いた。
「必要なのは分かります。だが、地上軍はこれまで比率で戦ってきたわけではない。南の村と道路と拠点を持たせる。その現実が、数字一つで軽く見えるなら困る。」
空軍参謀総長マコーネルが言った。
「数字がなければ、北への圧力もまた感触で語るしかなくなる。空軍はそれでは困る。」
統合参謀本部議長ウィーラーは視線を長官へ向けた。
「長官、失礼を承知で言います。実戦を見ていない人間ほど、兵の死をきれいに整理したがる。」
部屋は少しだけ冷えた。
国防長官マクナマラは顔色を変えなかった。
「そう見えるかもしれません。」
その時、海兵隊司令官グリーンが口を開いた。
「士官学校じゃ、最初にそう教わる。アレキサンダーもナポレオンも、戦術では兵の命にピントを合わせる。だが戦略では、兵を数字で見る。頭のおかしい話だが、戦争ってのはそういうもんだ。」
国防長官マクナマラは視線を上げた。
「冷たいと思うでしょうか――。」
海兵隊司令官グリーンは鼻で息を抜いた。
「いや。褒めてるんです。命を見ながら数字も見る。数字を見ながら命も忘れない。その両方を束ねるのが指揮官だ。数字はいい。勝ってる時は、なおさらいい。前へ進んでるように見えるからな。だが、負け戦になると違う。人間はまず数字を守り始める。そこから戦争は、たいていおかしくなる。」
部屋は静かになった。
海兵隊司令官グリーンは少しだけ声を落とした。
「現場の兵には言わんし、言えん。あいつらは数字になるために前へ出るんじゃない。だが、こっちの部屋では数字が要る。そうでもなきゃ、軍はとっくに棺桶だ。」
統合参謀本部議長ウィーラーは何も言わなかった。
だが反対もしなかった。
空軍参謀総長マコーネルも黙った。
顔にはまだ不満が残っていたが、論点はもう同じ場所に乗っていた。
私はそれを書き留めた。
そして報告される数字は、ほかにも決まっていった。
敵にどれだけの損耗を与えたかを見るボディカウント。
前線を持たせる最低条件としての兵力規模。
爆撃が補給線と浸透経路にどれだけ圧力をかけているかを見る爆撃効果。
戦果が地図の上に残っているかを見る地域安定度。
やるべきことが数字に置き換わると、軍は強い。
少なくとも、どこへ向かっているのか分からないまま動くよりは強い。
私はそれを見ていた。
やるべきことが明確になれば、軍は強い。
そして強い組織ほど、自分の進んでいる方向を疑わなくなる。
大統領ジョンソンが机を指で叩いた。
「で、その数字を誰が国民に読ませる。」
誰もすぐには答えなかった。
空軍参謀総長マコーネルが先に言った。
「長官です。」
大統領ジョンソンが眉を上げる。
統合参謀本部議長ウィーラーが続けた。
「我々が言えば、血の匂いが強すぎる。」
海兵隊司令官グリーンも言った。
「軍人が言えば、死者の数にしか聞こえん。」
空軍参謀総長マコーネルが表を見たまま言う。
「長官が言えば、中立に見える。」
部屋は静かだった。
国防長官マクナマラは少しだけ間を置いてから言った。
「複雑な戦局を、そのまま国民に説明することはできません。ですが、数字なら説明できる。前進しているのか、停滞しているのか。少なくとも、同じ言葉で示せます。」
大統領ジョンソンはそこで初めて、はっきりとうなずいた。
「いい。国が割れてる時ほど、分かる言葉が要る。公民権で揉め、南部が騒ぎ、議会も新聞も好き勝手言う。そういう時に、戦争まで“何となく持ってます”じゃ支えられん。」
誰も何も言わなかった。
それは、この部屋にいる誰もが分かっていることだった。
戦争は前線だけで続くのではない。
国内で、まだ勝っていると信じられているあいだだけ続く。
国防長官マクナマラが最後の紙を閉じた。
「異論はあるでしょう。ですが、異論があるからこそ、まず共通の尺度が要る。」
統合参謀本部議長ウィーラーは、もう次の要求を頭の中で組み立てている顔をしていた。
空軍参謀総長マコーネルは、静かなまま長く残る種類の戦争観をそこに置いた。
海兵隊司令官グリーンは不満を消してはいないが、拒絶もしなかった。
バラバラだったものが、完全ではないにせよ、一つの表の上に乗った。
少なくともこの部屋では、それで十分だった。
会議が終わると、人は順に立ち上がった。
椅子が引かれ、資料が閉じられ、敬礼が短く交わされる。
海兵隊司令官グリーンが出ていく時、長官の表を一度だけ見た。
何も言わなかった。
だが、そこに書かれた数字をもう無視しない顔だった。
※※※※※※※※※※
やがて部屋には、大統領ジョンソンと国防長官マクナマラだけが残った。
私は壁際で紙をまとめるふりをしていた。
こういう時、誰も私を追い出さない。
追い出されない人間の方が、たいてい多くを聞く。
大統領ジョンソンは椅子にもたれたまま言った。
「将軍どもは、お前が気に入らん。」
国防長官マクナマラは書類を揃えながら答えた。
「承知しています。」
「だが、よくここまでまとめたな。」
国防長官マクナマラは少しだけ手を止めた。
「まとめなければ、皆が別の戦争を始めます。」
「もう始めてる。」
大統領ジョンソンは言った。
「だから見せ方が要る。」
国防長官マクナマラは何も言わなかった。
「この戦争の見せ方は、政治的にも大事だ。」
大統領ジョンソンは続けた。
「まもなく公民権決議がある。この国は、いま内側が割れてる。こんな時に外でまで負けた顔はできん。」
国防長官マクナマラは短くうなずいた。
「分かっています。」
「分かってるならいい。」
大統領ジョンソンは言った。
「戦争そのものだけじゃない。戦争の説明も、お前の仕事だ。」
国防長官マクナマラはそれに答えなかった。
だが否定もしなかった。
私は二人の横顔を見ていた。
長官の不安も知っている。
この人は、数字を並べれば現実が素直になるとは思っていない。
だが、それでも並べなければならないと分かっている。
そして私にも分かっていた。
この戦争は、外で戦っているだけではない。
国内が割れているからこそ、負けるわけにはいかないのだ。
少なくとも、この部屋にいる人間たちは、本気でそう信じていた。
窓の外はもう夕方だった。
ワシントンの空は静かだった。
静かな空の下で、どれだけの死を「想定内」と呼ぶかが、いま決まりつつあった。
ベトナム戦争と公民権決議。
ジョンソン下で行われる大きな変革。
別々の出来事が、大きな歴史のうねりになっていきます。
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しています。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿よていです!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
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