104,数字の狂い
南ベトナムは北の支援を受けた反政府ゲリラに悩まされていました。アメリカが支援する南ベトナムは追い込まれます。
ゲリラを駆逐する。そのために北ベトナムにトンキン湾を口実に圧力をかける。
しかし北ベトナムの志気は高く、南ベトナムは腐敗していました。
数字は、嘘をつかないと言われる。
本当はそうではない。
数字そのものは嘘をつかなくても、人はそこに見たい形を読む。
それでもなお、人は数字にすがる。
感情より静かで、怒りより整っていて、少なくとも紙の上では秩序だった世界を見せてくれるからだ。
※※※※※※※※※※
1965年1月 夜 ワシントンD.C. 国防総省
ロバート・マクナマラ長官の机の上には、戦況図より計画書の方が多かった。
北への圧力は、段階的に強める。
一気に全面戦争へ踏み込むのではなく、週ごとに強度を上げる。
当面の目標は北緯十九度線以南に限る。
補給路、兵站拠点、橋梁、通信施設。北そのものを焼き尽くすのではなく、南の反政府ゲリラの補給ルート(ホーチミンルート)を遮断する
中国を刺激しすぎず、ソ連を正面から巻き込まず、それでもハノイには「こちらは引かない」と分からせる。
南ベトナムの反政府ゲリラをおさえつけ、北からの支援を打ち切る交渉の主導権を握る。
理屈は整っていた。
方程式も崩れていないように見えた。
ただ。
長官は別の紙束を、私の方へ静かに押した。
「見てください。」
私は目を落とした。
軍事顧問団から上がってきた報告だった。
ボディカウント。
損耗率。
地域ごとの接敵結果。
作戦成功率。
敵味方の死傷者数。
夜間行動の頻度。
村落ごとの統制状況。
紙の上では、敵の損耗は味方の損耗を上回っていた。
キルレシオ(敵と味方の死亡者の比率)だけ見るなら、ここまで窮地に立っているはずがなかった。
ボディカウント(敵の死者数のカウント)も徹底されている。
それなのに、現実の空気は「勝っている戦争」の顔をしていない。
私は頁をめくった。
数字は整っていた。
整いすぎているくらいだった。
「軍事顧問団の報告だけを見ると、もっと有利に見えます。」
「ええ。」
長官は短く答えた。
「これだけ損耗を与えているなら、南の政治がここまで脆いはずがない。
これだけ数字が揃っているなら、ハノイがここまで平然としているはずもない。」
彼は鉛筆で表の端を軽く叩いた。
「方程式は、間違っていないはずです。」
その声は低かった。
「間違っていないはずなのに、計算が合わない。」
私は顔を上げた。
長官はまだ紙を見ていた。
だが見ているのは数字ではなく、その向こうにある何かのように見えた。
「キューバ危機もそうでした。」
彼は言った。
「公民権運動の分裂もそうです。トンキン湾のあとに、あれほど急速に国が一つになることも、計算の上では説明できるはずだった。
だが実際には、どれも人間の心の動きの方が先に出た。」
彼はようやく顔を上げた。
「方程式は、間違っていない。
計算が合わないのは、人間の心なんです。」
私は何も言わなかった。
その言葉は、理屈というより疲労に近かった。
長官は少しだけ息を吐いた。
「それでも私は、数字を信じたい。」
「善悪のないものだからですか。」
彼は私を見た。
わずかに驚いた顔をして、それから小さくうなずいた。
「ええ。」
彼は言った。
「軍も、議会も、記者も、国民も、自分の正義を数字へ持ち込みます。
ですが数字そのものには、本来、善も悪もない。
だからこそ、最後の拠り所であってほしい。」
「最後の、ですか。」
「そうです。」
彼は視線を落とした。
「そうでなければ、私は何を基準にこの戦争を測ればいいのか分からなくなる。」
部屋は静かだった。
暖房の音だけが一定の速さで鳴っている。
その一定さが、かえってこの部屋の不安定さを浮き上がらせていた。
長官は机の端にあった封筒を指で寄せた。
「これは、大統領に上げる報告の草案です。」
私は受け取らなかった。
ただ、表紙だけを見た。
「かなり悲観的ですね。」
「ええ。」
「出されるのですか。」
長官は一度だけ乾いた笑いを漏らした。
「出します。出さなければ、私はここにいる意味がありません。」
封筒の横には、別の紙束があった。
表紙もなく、綴じも甘い。
報告書というより、記録の始まりに見えた。
長官はそれにも目をやった。
「それとは別に、もっと長い記録も残すつもりです。」
「記録。」
「ええ。」
彼は言った。
「命令書でも、声明でもない。
この戦争の始まりから今までを、極秘で。
何を考え、どこで曖昧さを飲み込み、どこで判断を急ぎ、どうやってここまで来たのか。
後で誰かが読み返せるように。」
私はその紙束を見た。
まだ名前のない記録だった。
だが、長官がそれをただの備忘録として見ていないことは分かった。
「未来のためですか。」
「未来のためか、言い訳のためか。」
その返しは乾いていた。
「自分でも分かりません。」
しばらく沈黙が落ちた。
そして長官は、不意に言った。
「トンキン湾の二度目も――?」
私は顔を上げた。
「信じたいのに、信じきれません。」
その一言は重かった。
「ねつ造だとお思いですか。」
「そこまで単純ではない。」
「誤認。」
「それだけでもないでしょう。」
彼は少し目を閉じた。
「愚かな選択をしているのは誰なのか、分からないのです。
北か、軍か、議会か、報道か。
あるいは、私か。」
私は黙っていた。
その問いに軽い返事はできない。
長官は封筒の上に手を置いた。
「私は政治家です。」
「カメラの前では、強い言葉を使わなければならない。
閣僚として、国民にも兵士にも迷いは見せられない。」
その声には諦めはなかった。
責任だけがあった。
「ですが、本音は別に残しておきたい。」
私は静かに手帳を閉じた。
「私に。」
「ええ。」
彼は言った。
「君が残してください。
強い言葉ではなく、揺れていた方の言葉を。」
私はその時、なぜか南部のことを思い出していた。
正しいと分かっているのに、押しつけられた瞬間、別の意味を持ってしまう正しさ。
国のための言葉が、人の心に入る頃には、別の怒りになっていること。
それは遠いベトナムの話でもあり、私の中のバージニアの話でもあった。
私はどこかで、自分を長官に重ねていたのだと思う。
正しいと信じるものがある。
だが、それを人に通す時、人は必ず少し汚れる。
相手を説得するために、言葉を選び、順番を変え、沈黙まで使う。
私はそれを観察する側だと思っていた。
けれど、本当はもう違っていた。
私はすでに、その汚れの内側にいる。
長官は窓の外を見たまま言った。
「国民の結束は、いま現にあります。」
「はい。」
「私が望んだ形に近い。」
「はい。」
「だが、それがどれほどもろいかも分かっている。」
私はうなずいた。
「夢が覚めるまでの幻、かもしれません。」
長官は少しだけ振り向いた。
その言葉を否定しなかった。
「それでも、いまはその幻の上で国を支えるしかない。」
「はい。」
私はそう答えた。
嫌になるほど、その通りだった。
長官はしばらく何も言わなかった。
やがて、静かに言った。
「今夜のことは、ここにだけ残してください。」
私は封筒と、もう一つの紙束を見た。
大統領へ渡る報告と、どこにも出ないかもしれない極秘の記録。
表の言葉と、裏の言葉。
勝利の言葉と、疑いの言葉。
「承知しました。」
私は立ち上がった。
手帳を抱えたまま、ドアのところで一度だけ振り返る。
長官はもう、数字の方へ視線を戻していた。
善悪のないものを信じたいと言った男が、いちばん善悪から逃げられない場所に座っているように見えた。
廊下へ出ると、空気は冷たかった。
なぜか無性に、バージニアが懐かしくなった。
トンキン湾決議、ジョンソンの圧勝。
全面戦争の条件が揃います。
マクマナラの不安は現実になっていきます。
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しています。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿よていです!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
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