103,圧勝の誤診
トンキン湾決議の3ヶ月後、大統領選が決着します。
ジョンソンの歴史的な圧勝でした。
選挙の勝利の数字は、よくできた鎮痛剤に似ている。
痛みを消すわけではない。
ただ、痛みの場所をしばらく分からなくする。
国家も同じだ。
大きな数字で勝った時、人はたいてい、問題が解決したのだと錯覚する。
本当は、問題の方が数字の下に潜り込んだだけかもしれないのに。
※※※※※※※※※※
1964年11月3日 夜 ワシントンD.C. 民主党本部周辺
テレビの前の人間は、だいたい同じ顔をしていた。
安心した顔。
興奮しているのに、どこか泣きそうな顔。
ようやく国が一つになったと信じたい人間の顔だった。
州ごとの結果が、地図の上で塗り替わっていく。
アメリカは青色に塗り替えられた。
南部の一部をのぞいて。
共和党のゴールドウォーター候補が取ったのは、アリゾナとサウスカロライナ、ジョージア、アラバマ、ミシシッピ、ルイジアナだけだった。
それ以外は、ほとんど一色に見えた。
選挙人票は、ジョンソン四百八十六、ゴールドウォーター五十二。
そこまで数字が開くと、人はもう勝敗ではなく、時代の向きそのものを見た気になる。
司会者の声は明るい。
笑い声が混じる。
拍手が起こる。
この数か月、怒りと緊張で一つになっていた国は、今夜は勝利というもっと分かりやすい言葉で一つになろうとしていた。
ジョンソンが勝つだろうことは、前から分かっていた。
それでも、実際に数字になると空気は違った。
人は、予想していたことが現実になった時にさえ、安心する。
予想通りだったから安心するのではない。
現実がようやく数字になったから安心するのだ。
私はテレビ画面を見ながら思った。
これで国は、少なくとも今夜だけは、自分がどちらへ向いているかを説明できる。
それがいいことなのかどうかは、まだ分からなかった。
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1964年11月4日 未明 ワシントンD.C. 国防総省 長官室
ロバート・マクナマラ長官の机の上にも、結果の数字が並んでいた。
得票差。
州の分布。
新聞の見出し。
それは戦況図ではなかったが、今夜のこの人には、それに近い意味を持っていた。
「圧勝ですね。」
私が言うと、長官は書類から目を上げた。
「ええ。」
その声は静かだった。
だが、静かだからこそ分かる安堵があった。
「少なくとも、引いたようには見えなかった。」
その一言で十分だった。
この人が、何を勝ちだと思っているのかが分かった。
国が割れていない。
軍も議会も、一応は政権の線の中に収まっている。
トンキン湾のあとに必要だった結束が、いまは数字として返ってきている。
私は椅子に座り、手帳を開いた。
「国民は、強い政府を選んだのでしょうか。」
長官は少し考えた。
「強い、というより、迷わない政府を、です。」
「それは同じでしょうか。」
長官は小さく息を吐いた。
「選挙の夜には、ほとんど同じです。」
私はその答えを聞きながら、窓の外を見た。
ワシントンの夜はいつも通り白かった。
だが、今夜は街そのものが少し軽くなっているように思えた。
決めたということは、それだけで人を軽くする。
長官は机の上の紙を一枚裏返した。
「これで、少なくとも持たせられるかもしれません。」
私はすぐには返事をしなかった。
持たせる。
この人らしい言い方だった。
勝つ、ではない。
終わらせる、でもない。
持たせる。
国家を、戦争を、政権を、全部まとめて崩さないようにする言葉だった。
「持たせる、ですか。」
「ええ。」
長官は言った。
「軍は前へ行きたがる。議会は一度決めた以上、弱く見えることを嫌う。世論は、まとまったあとほど、そのまとまりを手放したがらない。だからこそ、こちらが速度を決めなければならない。」
私は長官の横顔を見た。
この人は今夜、まだ自分の計算を信じていた。
トンキン湾の曖昧さも、決議の大きすぎる票数も、全部知ったうえで、それでもなお国家を管理できると思おうとしている。
それは自信というより、責任感に近かった。
「閣下。」
「何ですか。」
「これで国は一つになったのでしょうか。」
長官は、その問いにはすぐ答えなかった。
「少なくとも、そう見える形にはなりました。」
その返しは正確だった。
そして、その正確さが私には少し怖かった。
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1964年11月4日 朝 ワシントンD.C. ホワイトハウス
ジョンソンは、結果を政治の顔で受け取る男だった。
大きな手。
太い声。
部屋の空気を押し切るような歩き方。
この人が入ると、理屈はいつも半歩だけ後ろへ下がる。
「ボブ、やったな。」
握手ではなく、肩に近いところへ手が伸びる。
親しさと圧力が、同じ動きの中に入っている。
マクナマラは礼を返した。
ジョンソンはもう次の言葉を口にしていた。
「国民は決めた。弱い政府じゃ駄目だと。」
「ここから先は、もう迷ってるようには見せられん。」
その言い方は、昨夜の勝利をそのまま命令へ変える種類のものだった。
マクナマラは落ち着いていた。
「迷ってはおりません。ただ、進み方を誤れば、勝った数字はすぐに消えます。」
ジョンソンは笑った。
笑ったが、軽くはなかった。
「だからお前がいるんだろう。」
短い沈黙が落ちる。
私は少し離れた位置で、そのやりとりを見ていた。
ジョンソンにとって、昨夜の数字は正当性だった。
マクナマラにとっては、猶予だった。
同じ勝利でも、見ているものが違う。
大統領は前へ出るために数字を見る。
長官は崩れないために数字を見る。
ジョンソンが低い声で言った。
「国民は、立つと決めた。だったら、その形をお前が作れ。」
それは信頼でもあり、押しつけでもあった。
マクナマラは否定しなかった。
「承知しました。」
それ以外に言いようがなかったのだと思う。
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1964年11月5日 夕方 ワシントンD.C. 国防総省 廊下
廊下では、空気の方が正直だった。
職員たちは昨日より明るい。
足取りが軽い。
会話は短いが、妙に確信がある。
この数か月、国の外へ向けられていた怒りは、いま勝利の形で回収されていた。
「これでしばらくは持つ。」
誰かがそう言った。
私はその言葉に振り向かなかった。
だが耳には残った。
持つ。
その言葉は、いまのワシントンにいちばん似合っていた。
政権も、支持率も、戦争も、そして国の結束さえも、いまはまだ持つように見えた。
だが、州が青色に塗り替えられたからといって、南部の怒りまで消えたわけではない。
私はふと、父のことを考えた。
地図の上で押し返された感情は、いつかもっと近い誰かに向かうのかもしれなかった。
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1964年11月5日 夜 ワシントンD.C. 国防総省 長官室
長官室へ戻ると、ロバート・マクナマラは書類の山を崩さずに読んでいた。
選挙が終わっても、数字は減らない。
勝利は、計算を終わらせるのではなく、次の計算を始めさせる。
「大統領は、かなり手応えを感じておられました。」
私が言うと、長官は目を上げた。
「当然です。」
「閣下は。」
長官は少しだけ黙った。
「手応えはあります。」
そこまでは率直だった。
だが、そのあとに続いた言葉の方が、この人らしかった。
「ただ、手応えがある時ほど、動きすぎてはいけない。」
私はその言葉を手帳に書いた。
「でも国は、動くことを望んでいます。」
「ええ。」
「議会も、軍も。」
「ええ。」
短い肯定が続いた。
「それでも、こちらが上限を決めなければならない。」
私はその顔を見た。
この人はまだ、管理できると思っている。
起点の曖昧さを知ったうえで、なお勝ち方に秩序を与えようとしている。
私は窓の外を見た。
国はまとまった。
少なくとも、そう見えていた。
マクナマラが欲していた結束は、現に達成されていた。
「閣下。」
「何ですか。」
「国は、いま一つになっています。」
「ええ。」
「でも、その一つが、いつまでも同じ形である保証はありません。」
長官はすぐには答えなかった。
「それでも、いまはこの結束の上で動くしかありません。」
「はい。」
私はうなずいた。
それもまた事実だった。
「記録しますか。」
私が聞くと、長官は小さくうなずいた。
「してください。」
「どこまで。」
「勝利が、いちばん危ない形で見えるというところまで。」
私は手帳を開いた。
圧勝だった。
国はまとまり、政権は強く見えた。
それでも、私はその勝利を手放しに喜べなかった。
あまりにもきれいに揃った時、人はたいてい、その下に沈んだものを見なくなる。
その時の私は、まだ信じようとしていた。
この結束は、幻かもしれない。
だが、幻であっても、いま国を支えているのなら、それを完全な嘘とは呼べないのではないかと。
私たちはまだ、その夢から覚めていなかった。
トンキン湾決議からアメリカのマジョリティーは民主党ジョンソン支持に完全に傾きました。
ただでさえ大統領の権力が強いアメリカで大統領の圧勝。一度大きく振れた振り子は止まらなくなります。
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しています。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿よていです!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
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