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102,トンキン湾決議

ただの南ベトナムの内戦。アメリカは南ベトナムの体制維持が方針でした。

南ベトナムの反体制派を支援していた北ベトナムに対するアメリカは何らかのメッセージを送る必要があり、トンキン湾事件がおき、北ベトナムの攻撃の口実になります。


しかし、トンキン湾の衝突はアメリカ国民の怒りに火をつけ全面介入が避けられなくなります。

事実が届く速度より、怒りが広がる速度の方が速い。


海の上では、確認と推測がまだ混じっている。

だが陸に届いた瞬間、人はまず結論を欲しがる。

誰が悪いのか。

何に怒ればいいのか。

国家が一つになる時、たいてい最初に削られるのは、その途中にあった曖昧の検証だ。


※※※※※※※※※※


1964年8月5日 朝 ワシントンD.C. 国防総省


朝の新聞は、夜の報告よりはっきりしていた。


夜の海の真実はまだ闇の中である。

だが朝の見出しに残っていたのは、「攻撃された」という一語だけだった。


私はロビーの新聞を一枚ずつ見た。

紙面の書き方は少しずつ違う。

だが、違っているはずの紙のあいだを流れている空気は同じだった。


米艦が攻撃された。

北ベトナムが動いた。

アメリカはどうするのか。


それだけで、十分だった。


通り過ぎる職員が立ち止まり、誰かがラジオの音を上げる。

朝の解説者は、落ち着いた声で怒っていた。

落ち着いているからこそ、広がる種類の怒りだった。


「この国が攻撃された。とる行動は明確なのではないでしょうか。」


「真珠湾の時も、最初に問われたのは、国家が動くかということでした。」


真珠湾。

その言葉が出た瞬間

言いすぎだ、と私は思った。

規模も状況も違う。

そう思う一方で、その比喩が思考より人の神経にすぐ届くことも分かっていた。


怒りは、正確な比較を必要としない。

方向だけあれば十分だ。


※※※※※※※※※※


1964年8月5日 午前 ワシントンD.C. 国防総省 長官室


ロバート・マクナマラ長官は、朝から報告と紙面を並べていた。

海の上で起きたことと、陸の上で広がっていることのあいだには、もうはっきりした段差があった。


「世論が早すぎますね。」


私は言った。


長官は新聞を閉じた。


「ええ。」


それだけだった。

だが、その短さの中にいら立ちがあった。


「昨夜はまだ、確認と推測を分けて伝えられていました。」


「はい。」


「今朝の世論は、もう分けていません。」


長官は少しだけ息を吐いた。


「国の物語は、単純にされるものです。」


それは諦めではなかった。

もっと嫌な種類の理解だった。


「ですが、放っておけば軍に全部持っていかれる。」


私はその言葉を聞いていた。

この人はまだ、同じことを考えている。

戦争そのものより、主導権の話だ。

どう動くかより先に、誰の言葉で動くかの話だ。


「議会も。」


「ええ。」


「世論も。」


「ええ。」


長官は立ち上がった。


「だから、こちらが先に意味を与えなければなりません。」


私は、昨夜の会議を思い出していた。

死者の名誉に大義を与える。

兵士の名誉を、国家の意思へつなげる。

その言葉が、今度は長官自身を追い立て始めている気がした。


※※※※※※※※※※


1964年8月5日 午後 ワシントンD.C. 国防総省 会議室


会議室の空気は、昨夜とは別物だった。


同じ人間が座っている。

同じ建物の中だ。

それでも、もう昨夜の続きではなかった。

新聞とラジオと街の怒りが、一晩で別の部屋を作ってしまっていた。


アール・ウィーラーは昨日より静かだった。

静かだからこそ、確信があった。


「長官。」


彼は言った。


「国は理解しました。」


理解した、ではない。

理解してしまった、の方が近かった。

一度その理解に入った世論は、簡単には戻らない。


長官は答えた。


「国が理解したのは、まず事態の深刻さです。そこから先は、こちらが決めます。」


「もちろんです。」


ウィーラーはそう言ったが、その声には、すでに追い風を受けた人間の落ち着きがあった。


「ですが、ここまで来て半端な姿勢を見せれば、それこそ国を裏切ることになります。」


別の将軍も続いた。


「これまで幾人の兵士は死んでひまった。国民も怒っている。議会ももう動く。ここでまた限定だ抑制だと言えば、それこそ現場の名誉を損なう。」


私は手帳に書いた。


――昨日まで、死者の名誉を守るために大義が必要だった。

――今日は、その大義が強く出るための燃料になっている。


長官は机に両手を置いた。


「私は昨夜と同じことを言います。」


部屋が静かになる。


「死者の名誉を守るためにも、国家の筋を通す必要がある。だからこそ、反応は限定する。目的は報復そのものではなく、国家の意思を示すことです。」


ウィーラーはすぐには返さなかった。

その代わり、視線を少しだけ横へ流した。

会議室の全員が、同じことを考えているのを確かめるような目だった。


「長官。」


彼は言った。


「その言葉は、昨日なら十分に響いた。」


昨日なら。

私はその言い方に、冷たいものを感じた。


「今日は違うと。」


長官が問う。


「今日は国民が攻撃だと信じてる。」


ウィーラーは答えた。


「そして議会も知る。ここまで来て、なお抑えた反応だけを国家の意思と言い切れるかどうかです。」


それは反論ではなかった。

もっと厄介なものだった。

長官自身の言葉を、そのまま押し返してきたのだ。


国家の意思。

死者の名誉。

引いて見せないこと。

そのどれも、昨夜は長官の側にあった。

今日はもう、将軍たちの側からも同じように使えた。


長官はそれを理解していた。

理解していて、顔に出さないだけだった。


「議会はまだ何も決めていません。」


「決めます。」


ウィーラーはほとんど即答した。


「そして決まれば、こちらは命を懸けます。」


部屋の空気がわずかに変わった。

その言葉には、脅しではなく覚悟があった。


ウィーラーは続けた。


「兵を半端に死なせるくらいなら、勝てる戦い方を選ぶべきです。」


私はその言葉を聞きながら、次の時代の気配を感じていた。

まだ名は出ていない。

だが、どこか別の場所で同じ種類の正義を、もっと剥き出しの形で信じている男がいる気がした。


長官は短く言った。


「議会はまだ何も決めていない。」


だがその言葉の力は、昨日ほど強くなかった。


※※※※※※※※※※


1964年8月6日 夕方 ワシントンD.C. 議会周辺


私は議会周辺の空気を見に行った。


記者がいる。

補佐官が走る。

議員たちは、まだ誰も大きな声を出していない。

だが、全員が同じ方向を見ている時の足取りだった。


「真珠湾を思い出させる、という声もあります。」


誰かが記者にそう答えているのが聞こえた。


私は足を止めなかった。

比喩は雑だ。

だが雑だからこそ、人を一方向へ押し流す。


通りの向こうでは、市民が立ち話をしていた。

怒っているというより、もう決めている顔だった。

国家が攻撃されたなら、国家は立つべきだ。

その論理は、きわめて簡単で、きわめて強い。


私はその強さが嫌だった。

嫌だったが、分からないとも言えなかった。


※※※※※※※※※※


1964年8月7日 夜 ワシントンD.C. 国防総省 長官室


決議の票数は、短い数字の並びだった。


トンキン湾決議。

上院、八十八対二。

下院、四百十六対〇。


それだけだった。

だが、その数字の短さの中に、もう後戻りしにくくなった国の重みがあった。


長官室に入ると、ロバート・マクナマラは椅子に座ったまま、紙を見ていた。

机の上には数字があった。

兵力ではない。

票数と見出しだった。

国がいま、どちらへ傾いているかの数字だった。


「通りました。」


私が言うと、長官はゆっくりうなずいた。


「ええ。」


それだけだった。


私はしばらく黙っていた。

こういう時、先に言葉を選ぶのはたいていこの人の方だったが、今夜は違った。


「圧倒的な数字ですね。」


私は言った。


長官は少しだけ顔を上げた。


「はい。」


「ここまで揃うとは思っておられましたか。」


長官はすぐには答えなかった。


「思っていたより、早かった。」


私はその言い方を聞いていた。

計算が狂った時の人間は、たいてい速度について話す。


「軍も、議会も、世論も、一つになりました。」


「ええ。」


「その一つになり方が、問題なのですね。」


長官は否定しなかった。


死者の名誉。

国家の意思。

引いて見せないこと。

その全部が、いまや限定的な統治の道具ではなく、もっと大きい怒りの正当性として流れ始めていた。


「私は、感情で軍を動かすつもりはありません。」


長官は言った。


「分かっています。」


「だが国家の方が、軍の感情に近い速度で動き始めている。」


私はその言葉を聞いていた。

それは告白に近かった。


長官が守りたかったのは、統治だった。

限定し、管理し、持続させることだった。

だが国は、統治される時とは別の速度で、一つになることがある。

一つになった瞬間、たいていそれは管理しにくくなる。


「閣下。」


「何ですか。」


「将軍たちはもう、後戻りできないと分かったのでしょう。」


長官は短くうなずいた。


「ええ。」


「だから昨夜の納得は、もう昨夜のものではない。」


「ええ。」


短い肯定が続いた。

その短さが、かえって重かった。


「それでも。」


長官は言った。


「まだ、計画的な戦闘を維持しなければならない。」


私はその言葉の硬さを聞いた。

計算は狂っている。

それでも計算を手放さない。

この人はそういう人だ。


「可能でしょうか。」


長官はすぐには答えなかった。


「可能でなければ、もっと悪くなります。」


それは希望ではなかった。

責任の言い換えだった。


私は窓の外を見た。

ワシントンの夜は、昨夜と同じ色をしていた。

だが国はもう別の場所へ動き始めていた。


昨夜、軍と文民の正義は一瞬だけ重なった。

その重なりは美しかった。

少なくとも、その瞬間には。


だが今夜、その正義は別のものになっていた。

マスコミと国民の怒りが、同じ言葉をもっと乱暴な方向へ押している。

将軍たちは、その流れに希望ではなく必然を見ていた。

もう戻れない。

そう悟った顔をしていた。


「記録しますか。」


私が聞くと、長官は目を閉じずに言った。


「してください。」


「どこまで。」


「ここから先は、もう勝敗ではないというところまで。」


私は手帳を開いた。


長官は国防省では勝った。

だが、国には勝てなかった。

正確には、国をこちらの速度では動かせなくなり始めていた。


その時の私は、まだ信じようとしていた。


計算は狂った。

それでも、まだ全部が失われたわけではない。

計画的な戦闘という細い道だけは、残せるかもしれないと。


だが、その願いはもう、統治の言葉というより祈りに近くなり始めていた。

北ベトナムへの脅しのための攻撃。

アメリカは圧倒的な戦力差で短期間で北ベトナムの撤退を狙います。

しかし、戦術的な勝利と戦略的な目的が少しずつ乖離していきます。


【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しています。


改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)


改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿よていです!)


ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。


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