100,戦死した兵士がいるからこその大儀
ベトナム戦争のアメリカ本格参戦の引き金になったトンキン湾事件。二回目の爆撃はアメリカによるねつ造だと意見が大半です。最低でも誤報だった。
でも、それが真実として連邦に伝えられます。
二度目の報告は、最初の報告より危うい。
それは内容が大きいからではない。
輪郭が崩れているからだ。
特に海の上で最初に届く言葉は、たいてい神経の速度で書かれる。
確認より先に、反射が文になる。
たいがい、歴史はそんな反射から始まる。
ある者はねつ造と言い、ある者は誤認だったと見るトンキン湾の二度目の攻撃。
しかし、当時の連邦にとっては、すべてがまだ曖昧だった。
※※※※※※※※※※
1964年8月4日 夜 トンキン湾
夜の海で、接触が報告された。
見張りが影を見た。
レーダーが反応し、ソナーもそれに続いた。
回避機動が取られ、発砲の可能性が上がった。
誰が先に撃ったのか。
相手が本当にそこにいたのか。
どこまでが確認で、どこからが反射なのか。もしくは、すべてが嘘なのか?
その場では、まだ誰にも分からなかった。
だが現場には、それで十分だった。
「攻撃された」と感じるには、十分だった。
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アメリカはすでに二万規模の軍事顧問団をベトナムに置いていた。
だが建前の上では、まだ「戦争ではない」。
その曖昧な姿勢が戦争を長引かせ、そのあいだにも兵士は死んでいた。
連邦の消極姿勢は、制服組の苛立ちを強めていた。
1964年8月4日 深夜 ワシントンD.C. 国防総省
会議室の空気は、最初から硬かった。
ロバート・マクナマラ長官が入る前から、将軍たちはもう顔を決めていた。
報告の曖昧さなど、彼らにとっては細部でしかなかった。
重要なのは、また兵士が危険にさらされ、またワシントンが遅れた、ということだった。
私は壁際に座り、手帳を開いた。
長官が席につく。
いつも通り、姿勢は崩れない。
その整い方の奥にだけ、疲れがあった。
「確認済みの事実から始めましょう。」
補佐官が報告を読む。
接触。
回避機動。
レーダー反応。
ソナー反応。
現場の認識。
発砲の可能性。
どの言葉にも、断定より先に留保がついていた。
報告が終わると、沈黙は長く続かなかった。
「もう十分です。」
最初に口を開いた将軍は、声を抑えていた。
抑えているからこそ、怒りが分かった。
「顧問団はもう何年も血を流している。兵士は死んでいる。それでもワシントンは、まだ線を引くのですか。」
別の将軍が続く。
「現場はずっと曖昧な建前のために耐えてきた。ここで立たなければ、死者を何のために出したのか分からなくなる。」
それは好戦論ではなかった。
少なくとも、彼ら自身にとってはそうだった。
義理だった。
死者に対する義理と、現場の名誉の話だった。
私は分かった。
彼らは、どうせマクナマラがまた連邦の理屈を持ち出すと思っている。
確認、抑制、拡大回避、世界への説明。
兵士の死より先に、国家の体面を置くのだろうと。
アール・ウィーラーが低く言った。
「長官。現場はもう十分に耐えました。兵士は死んでいる。必要なのは説明ではありません。意思です。」
長官はすぐには答えなかった。
報告書から目を上げ、ようやく将軍たちを見た。
「その通りです。」
部屋の空気が止まった。
将軍たちの顔がわずかに変わる。
その返答は、予想の外側にあった。
長官は続けた。
「兵士はもう死んでいる。だからこそ、ここで立たなければならない。」
今度は、誰も動かなかった。
長官はその沈黙を引き受けたまま、言葉を継いだ。
「ですが、死んだ者がいるから攻撃するのではありません。死んだ者がいるからこそ、その死に大義を与えなければならない。」
私はそこで、手帳を持つ指に少しだけ力を入れた。
長官の声は平板だった。
その平板さが、かえって強かった。
「怒りに押されて撃ち返せば、それは反射です。兵士は国家のために死んだのではなく、感情のために死んだことになる。そうさせるわけにはいかない。」
長官は続ける。
「必要なのは私憤ではありません。大義です。死者の名誉を守るには、軍事行動を国家の大義の延長線上に置かなければならない。アメリカがなぜ応じるのか、どこまで応じるのか、世界に説明できる形で立たなければならない。」
怒りは消えていない。
だが、その怒りの向きが変わり始めたのが分かった。
ウィーラーが先に言った。
「つまり、反撃はする。」
「します。」
長官は即答した。
「引いて見せるつもりはありません。現場の名誉も守る。兵士の死に大儀がないといけない。」
「だが、全面的には行かない。」
「行きません。」
「政治の都合ですか。」
長官は首を振った。
「アメリカの品格の問題です。」
その言葉は、将軍たちの心に届いた。
彼らは連邦官僚の逃げを予想していた。
返ってきたのは、死者の名誉を守るためにこそ国家の筋を通すべきだ、という論理だった。
それは彼らの言葉を受けたうえで、その上に立つ理屈だった。
別の将軍が低く言う。
「兵士を犬死ににはしない、と。」
長官は答えた。
「しません。だからこそ、国家の意思として位置づけるのです。」
沈黙が落ちた。
今度の沈黙は、対立の残りではなかった。
納得に近い、重い沈黙だった。
ウィーラーが小さくうなずいた。
「分かりました、長官。現場は暴発させません。」
長官も短くうなずく。
「お願いします。」
それで会議は決まった。
反撃はする。
だが限定的にする。
軍は動く。
だが意味づけは政権が握る。
現場は踏みとどまる。
兵士の死に、怒りではなく国家の大義を与えるために。
表面だけ見れば、マクナマラ陣営の勝利だった。
しかも、押さえつけて勝ったのではない。
将軍たちを納得させて勝った。
私はその瞬間だけ、部屋の空気が一つになったように感じた。
死んだ者がいる。
だから立つ。
だが、死んだ者がいるからこそ、感情ではなく大義の中で立つ。
その理屈が、今夜だけは誰の胸にも届いていた。
その時の私は、ほんの一瞬だけ信じた。
これで軍は暴発しない。
国はまだ、壊れずに済むのだと。
分裂していた制服組の共感をマクマナラは得ることができました。死んだ兵士がいるからこそ大儀と秩序が必要だ。この言葉は制服組の心を打ちます。しかしそれはつかの間の結束でした。
【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しています。
改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)
改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿よていです!)
ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。
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