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99,あいまいな海

冷戦時代、自由主義の陣営の先端にある国家は自由主義とにてもにつかぬ国家ばかりでした。

南ベトナムもその一つです。

同時、北ベトナムと南ベトナムには明確な国境線があった。

しかし、南ベトナムは腐敗が深刻な状況であり、北が支援する反南ベトナムゲリラが住民とともに猛攻をかけていた。それをそれを抑えれば国境は維持できる――南ベトナムさえ保てれば共産化ドミノは起こらない――それが連邦のコンセンサスだった。また、北ベトナムを征すれば緩衝国なしに共産主義国家と国境をせっしてしまう。

しかし、将軍達は原因の根治を求め北ベトナムごと攻勢をかけるのが手っとり早いと考えていた。兵士をこれ以上消耗させたくない。


アメリカ軍内部の二つの勢力がイデオロギーよりアイデンティティにより衝突していた。


※※※※※※※※※※


1964年春 ワシントンD.C. 国防総省


大きな戦争は、派手な演説から始まるように見える。

けれど実際には、そうではない。


先にあるのは会議だ。

短い文書。

地図の上の一本の線。

あとから振り返れば、あれが最初だったと分かるような、退屈で几帳面な手順の積み重ねである。


その春、国防総省で増えていたのは、そういう紙だった。


南ベトナムをどう立て直すか。

その問いは、少しずつ形を変えていた。


アメリカは南ベトナムの混乱を安定させるため顧問団を送っていた。その後ろ盾があるから南ベトナムは腐敗した。


しかし、南ベトナムの反政権ゲリラを支援シているのは明らかに北ベトナムであった。

南の混乱を南だけの問題として処理すれば、アメリカが引いたように見える。

だが、全面戦争は避けたい。

そのあいだの、細くて危うい道だけが机の上に残り続けていた。


私は会議室の隅に座り、手帳を開いていた。


先に入ってきたのはロバート・マクナマラ長官だった。

そのあとにアール・ウィーラー。

統合参謀本部議長。

制服は着ていないのに、部屋の空気だけが少し軍のものになる。


二人は短く会釈した。

握手はない。

だが、敵意より厄介な距離があった。

互いの必要性を認めている人間同士の距離だ。


※※※※※※※※※※


机の上には海図が一枚あった。

北ベトナム沿岸と、その沖合の細い航路。

哨戒線、支援線、近すぎず遠すぎない海の距離。

陸の会議なのに、部屋の中心には最初から海があった。


長官が口火を切る。


「前提を確認します。全面戦争は避ける。」


ウィーラーは何も言わなかった。

その沈黙に、すでに反論があった。


長官は続けた。


「しかし、何もしないわけにもいきません。南の混乱を南だけの問題として放置すれば、相手はアメリカが引いたと読む。味方は見捨てられたと思う。議会も、軍も、政権が腰を引いたと受け取るでしょう。」


そこまでは合意だった。

問題は、その次だった。


長官は海図の沖合を指でなぞった。


「必要なのは、こちらの存在を消さないことです。こちらにはまだ手段があり、必要なら使う意志もあると理解させる。ただし、こちらから先に大きく踏み込まない。全面戦争の口実を、自分から与えない。そのために圧力をかける。」


部屋の空気がわずかに動いた。

誰も声を上げていないのに、会議が初めて本題へ入ったのが分かった。


ウィーラーが口を開く。


「つまり、挑発と理解される可能性は承知の上で海へ出すということですか。」


長官はすぐには答えなかった。


「承知の上です。相手には圧力と見えるでしょう。反応してくる可能性もある。それでも、こちらが何もしていないように見せるわけにはいかない。」


ウィーラーの目が少しだけ細くなる。


「心理戦ですか。」


「そうです。」


長官は平板に言った。


「こちらが先に大きく撃てば、アメリカが始めたと言われる。だが、こちらは引いていないと示しつつ、相手に先に反応させる余地は残る。必要なのは戦争そのものではありません。後退ではないと理解される状況です。」


どよめき、というほど大きな音ではなかった。

だが、部屋の温度ははっきり変わった。


長官はそれを見ていた。

見ていて、止めなかった。


ウィーラーがゆっくり言う。


「ずいぶん上品な言い方です、長官。私には、口実を作っているように聞こえます。」


長官はその言葉を否定しなかった。

ただ、言い換えた。


「私はその言葉は使いません。ですが、相手が動いた場合に備える必要はあります。」


そこで長官は、少しだけ視線をずらした。

まるで、それがただの実務命令であるかのように。


「相手が動いたら、計画通りに反撃の配置を取ってください。」


その一言で、部屋の空気がもう一度動いた。

今度は、はっきりと。

誰も笑わない。

誰も大きな声も出さない。

だが、将軍たちの中の何かが入ったのが分かった。


ウィーラーは小さくうなずいた。


「了解しました。」


会議はそのあと、細部の確認に移った。

沿岸哨戒。

電子偵察。

支援行動。

秘密工作の補助線。


どれもそれだけなら戦争とは言い切れない。

だが、全部を同じ海に重ねた時点で、それはもう口実のための配置だった。


※※※※※※※※※※


人が出ていき、ドアが閉まった。

ようやく会議室の空気が少しゆるむ。


長官はネクタイをわずかに緩め、机の上の書類を揃えた。

それから私の方を見た。


「お気遣いご苦労様です。」


私は先に言った。


長官の口元が少し動く。


「これも給料の一つでしょうか。」


「たぶん。」


私は手帳を閉じた。


「でも、給料の話をなさるなら、フォードの社長の方がよほど条件はよかったでしょうに。」


今度は、はっきりと苦笑いになった。


「あなたは、どうしてそういうところを正確に突いてくるのですか。」


「記録係ですので。」


「便利な肩書きですね。」


「長官も、よくお使いになります。」


そこまで言ってから、私は水を一口飲んだ。

笑いは長く続けない方がいい。

長く続けると、人は大事な話に戻りにくくなる。


長官の方も、それが分かっている顔だった。


「少し歩きますか。」


「はい。」


※※※※※※※※※※


長官室に入ると、彼は窓のそばで立ち止まった。


「どう見えましたか。」


私は手帳をまた開いた。


「以前より、将軍への言い方を変えられました。」


長官は少しだけ振り向いた。


「そう思いますか。」


「はい。最初から“好戦的な人たち”として切らなかった。何を守ろうとしているかを先に認めておられました。」


長官は短く息を吐いた。


「それで、少しはましになりましたか。」


「会話にはなっていました。でも、結論は変わっていません。」


長官は黙っていた。

その沈黙が、続きを促していた。


「事件を待っているのではなく、事件が起きた時に、それを口実として使える位置を先に作っているように見えました。」


長官は窓の外を見たまま言った。


「私はその言葉は使わない、と先ほども申し上げました。」


「承知しています。」


「それでも使うのですね。」


「はい。議会にも、世論にも、正義に見える形が必要だからです。」


長官は反論しなかった。


「正しいことだけでは足りない。正しいと理解される形でなければ、国内では機能しません。」


私は父の義足の音を思い出していた。

硫黄島から帰ってきた、あの乾いた金属音。

父は幸福だったわけではない。

片足を失い、そのあとも多くを失った。

それでも、外に敵がいた時代には、国が一つである感覚がまだあった。


今のアメリカには、それがない。


だから外に向かう緊張が必要になる。

その理屈を、私はもう理解してしまっていた。


「閣下。」


「何ですか。」


「危ういですね。」


長官はうなずいた。


「ええ。」


「それでも必要だと思っておられる。」


「ええ。」


「普遍的な正義ではなくても。」


長官はそこで少し言葉を探した。


「正義がないとは思っていません。しかし我々に必要なのは、もう外へ向かって開いたままの正義ではありません。」


私はその言葉を受け取った。


「内側を保つための正義ですね。」


長官は否定しなかった。


「国は、ときどき、外に向かう意志を見せなければ内側から崩れます。」


私は手帳の余白に短く書いた。


――正義は残っている。

――ただし、向きが変わった。


「工作だった、とまではまだ言えません。」


私は言った。


長官が目を上げる。


「ですが、工作と呼ばれても仕方のない配置はあります。こちらは偶発が起きるかもしれないギリギリの海に自分たちを置く。その上で、偶発が起きた時には、それを最も分かりやすい正義の物語へ整えられる位置にもいる。攻撃されたから反撃するというシンプルな物語です。」


長官はしばらく何も言わなかった。


「あなたは、ときどき言い方が過ぎます。」


「承知しています。」


「それでも外さない。」


「記録係ですので。」


その時、長官はようやく小さく笑った。

疲れた笑いだった。

だが、冷たい笑いではなかった。


「困った人ですね。」


「長官ほどではありません。」


短い笑いは、そこで終わった。


長官は最後に言った。


「記録してください。」


「どこまで。」


「配置までです。」


私は立ち上がり、手帳を閉じた。

表紙のあいだで、ダレスにもらった南軍の軍票が薄く指に触れた。

価値のない紙。

だが、敗者の記憶だけはまだ残している紙だった。


私はそれを意識しないふりをした。


※※※※※※※※※※


廊下へ出ると、空気は相変わらず白くて乾いていた。


まだ何も起きていない。

新聞は騒いでいない。

国民も怒っていない。


それでも、もう分かっていた。


私たちは事件を待っているのではない。

事件が起きた時に、それを正義へ変えられる場所に、自分たちを置こうとしているのだ。


その時の私は、まだ信じていた。


危うい口実の上に立っても、

その先だけは、

まだ制御できるのだと。

戦いの火蓋を切るための口実が必要である。

これがマクマナラが制服組に出した答えでした。

衝突でなく、彼らの立場を認めつつ妥協する。

しかし、曖昧な境界では計算外のことが起こってしまいます――。


【お知らせ】長編のエピソードになると思わず連載を開始したので、今、前半を大幅改稿しています。

改稿後はボリュームが二倍以上になり背景もわかりやすく史実に寄せてます。(初めはヒューマンドラマを描く予定でした。)

改稿したものはタイトルに改稿としています。ぜひお読み下さい。(日本編の前まで改稿よていです!)

ジャンルもヒューマンドラマから歴史へ。


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