(4)死亡前夜 7月3日20時35分
7月3日、夜。食卓は重苦しい雰囲気に包まれていた。
「悪いが、お父さんは反対だぞ」
父はビールを流し込んだ後、さっきまで閉じていた口を開いた。
言いにくいことがある時、グラスを飲み干すのは父の癖だ。
険しい声色のせいで、朱音は反射的にシャンと背筋が伸びた。
朱音と母は先に夕食を済ませていたので、食卓には、今晩のおかずと共に酒のつまみが並んでいる。
父が晩酌をしながら、自分の話に耳を傾けている間も、何を言われるのかと気が気じゃなかった。
竹を切ったように真っ直ぐで自分を曲げない父を説得するのは至難の業。やはり、予想通りのことを言われてしまった。
どこから説得すればいいのやら、朱音は父の反論に対して切り返せずにいた。
父が納得する話を考えれば考えるほど、思考は堂々巡りになり、言葉がもつれた。言い返す言葉が見つからない。苦し紛れに机に広げた進路調査表を回収して話を切り上げようしたが、目ざとく父がそれを奪ってしまう。
「美大か……」
父はそれを目の前に広げ、朱音が書いた志望校の3校を読み上げた。
「……で、美大に行ってどうするんだ?」
「……イラストレーターになりたくて……」
父はため息をついた。
歓迎されていないようだ。
父の反応が予想できていただけに、イラストレーターなんて単語を口にするだけでも勇気がいる。
両手をぎゅっと握ったまま、父の返答を待つ。今にも逃げ出そうとする両足を椅子に縛り付けるように、拳を膝に置いた。
今は高校2年生。もうすぐ1学期が終わる。進学か、就職か。卒業後の進路について考え出す頃合いだ。
絵を描く仕事をずっと密かな憧れの夢として、自分の中で抱えることに限界が来ていた。
この先、絵を描いて生きていくなら、それに見合った環境に飛び込むべきだ。時の流れに急かされて決意した朱音は、名の通る美大3校を志望校の欄に書き出していた。
「美大に行けばなれるものなのか?」
「……たぶん」
自分から出た小さな声に朱音はみるみる自信がなくなっていく。
「イラストレーターは自営業か? 絵を売って生活するのか?」
「……みんなそうってわけじゃ……。企業所属のイラストレーターも聞いたことあるし……」
「それはどこの会社だ?」
「……」
目が泳ぐ。朱音はその答えすら持っていなかった。
「はぁーー……」
朱音に浴びせるように、父は大きなため息をついた。
「想像力が足りていないな」
父の言葉が朱音の体に突き刺さる。
朱音はこの場を立ち去りたかったが、動こうとする前に父が捲し立てた。
「それを仕事にして食っていけるのか? 好きなことして金貰えるなんて、世の中そんなに甘くないぞ」
言葉のひとつひとつが容赦なく朱音の体に突き刺さる。
朱音は父のビールグラスについた水滴の数を数えながら、話の終わりを待った。
「お父さんは専門的なことは良く分からない。朱音が絵を描いているのは知っているが、入賞したことがあるくらいだろ? それでやっていけるのか?」
黙っていると、父の説教は止まらない。相手を説き伏せるまで、喋り続ける性格だ。
しかし、反論する言葉を持ち合わせていない。諦めて、考えることを放棄した。
「何のために進学校に行かせたと思ってるんだ」
父の常套句に胸が傷んだ。
「もっと想像力を働かせて、将来のことを考え……」
「わかった。もういい」
朱音はやっと父の言葉を遮って立ち上がった。
その勢いで椅子が倒れ、ダイニングにけたたましい音が響いた。それは朱音の声よりも大きかったので、父を一瞬黙らせることができた。
その隙に朱音はダイニングから逃げ出した。
「おおい! まだ話は終って無いぞー! 」
背中に父の大声を浴びながら、朱音は打ちのめされた体を引きずって自室に逃げ込んだ。
朱音の勇気がまたひとつ、踏み出す前からねじ伏せられてしまった。
ベッドの上で膝を抱え、あれこれ考えていたが、もう耐えられなくなった。崩れ落ちるようにベットに倒れ込む。
その夜、朱音はベットに顔をつっぷして泣いた。泣き疲れ、いつ寝たのかも覚えていない。