ヘルメス
「僕の名前はヘルメスっていうんだ。まあ、好きなように呼んでくれよ」
「……じゃあヘルメス、あなたに一つ質問があるんだけど……」
「なんだい?」
「あなたは一体何者なの?」
客観的に見ればかなり奇妙な光景だと思う。いや、不気味な光景に違いない。
私は今、万年筆に話しかけている。
ただし普通の万年筆ではない。中央部に眼球が付き、更には重力を無視した空中浮遊を決め込む万年筆だ。しかもこの万年筆は先程から随分とダイナミックに動いている。先程から筆先を覆うキャップをパカパカと動かしたり、ときどきフィギュアスケーターのようにくるっと回転しながら喋りかけてくる。
そう、この万年筆は喋るのだ。
一体どのような仕組みで筆が発声するのかは皆目検討が付かないが、どうにもこうにもこの万年筆の声と思わしきものがさっきから聞こえてくる。
当然幻聴の類である可能性は考えた。小説を書こうにも書けずの日々が続き、そんな日々の中で精神がついに壊れてしまい、祖父の形見の万年筆に霊魂か何かが宿ったとでも思い込もうとし、幻聴が聞こえるようになった。もしそうであったならどれほど今安心できるだろうか。
しかし、少なくとも私は今眼の前に映る非現実的な光景が幻覚でないことはほぼ確信してしまっている。
先程発狂した時、この万年筆もさながらPixar映画のキャラクターのようにワァーワァー叫びながら部屋を四方八方にぶつかりながら飛び回ったのだ。その時に空いてしまった壁の穴は、この非現実的な現象が現実の出来事であることを証明していた。直接触れて確認もしたからほぼ間違いない。
要は視覚と触覚がリアルなのに、音だけが幻とは考えづらいという発想た。
まやかしなら全てまやかしだし、リアルなら全てリアル。そう考えるのが自然という論法だ。
「やっぱりそこ気になるか。毎回される質問ではあるけど、毎回返答に困るんだよな〜」
ヘルメスは45度ぐらいに傾きながら私の質問に答えた。人であったら首を傾げるに相当するのだろうか。
「一応確認なんだけど、あなたは私の幻覚や幻聴といったそういう類の存在ではないんだよね?」
「うん。僕は君の体内器官の異常とは何ら関連性のない存在だよ」
言いたいことは分かるけど、随分と独特な言い回しね…。
「まあ毎回困る質問だから、答え方は決めているのさ。僕のことは『本の妖精』だと思ってくれればいいよ」
「本の妖精?」
「そう。かわいいでしょ?」
ヘルメスはファンサービスをするアイドルが如く、くるっと一回転して、キャップを半開きしてカチッと閉めた。多分ウィンクか何かに相当するのだろう。
正直、この万年筆に付いた眼球のどこをかわいいと見れば良いのだろう…。そもそも妖精要素はせいぜい空中に浮いていることぐらいだし。
「それで、本の妖精さんは…」
「ヘルメス!」
「……ヘルメスは私に何か用があるのかな?」
「どうしてそんな質問するの?」
「どうしてって……、なんとなく気になったから?」
あなたのような訳の分からない存在が眼の前に現れたら何らかの理由があると思うに決まっているだろ、と私は口に出さないでおく。そういう察しができない奴であることは分かった。
「ああ、君は僕との思いに何らかの運命的なものを感じているんだね。なるほど。君はなかなかのロマンチストだね!」
「まあ…、そんなところ」
うん、面倒だからそういうことにしておいてやろう。
「何ら因果性の無いことにも何らかの理由があると思い込むとは、やっぱり人間はおもしろいね!」
「じゃあヘルメスは何か理由があって私の前に現れた訳じゃないの?」
「そう!理由も用は特に何もない!」
それはそれで拍子抜けだな。
「あっ、でも全くの理由なしって訳でもないんだよ。君君、小説を書いていただろ?そこにあるパソコンで」
ヘルメスは眼球を滑らかに動かして、机の上にあるパソコンのある方向を指し示す。
「ああ、……うん。よく分かったね」
「僕は小説を書く人の前に現れるから」
「………小説を書く人の前に現れる…」
「そう!だから本の妖精!」
いや、それでも妖精ではないだろ。万年筆と眼球の生き物(?)のどこに妖精の要素を見い出せばよいのだ?
「でも、小説を書いている人なんて他にいくらでもいるでしょ?どうして私なの?」
「だから特に理由はないよ。完全なランダムなんだ。僕の意志は何ら介在していない。天高くから君たち人間を観察して適当に選んだとかそういうことでもない。くじ引きで言うなら、僕は引く側で君は引かれるくじの側といったところだね。君は今ドラフト1位に選ばれた野球選手の気分だったかもさしれないけど、残念ながらそうではないんだ」
「……なるほど」
色々ツッコミたいところはあるが、このヘルメスというのが大変ポジティブな勘違いをする厄介者であることは理解した。
「そういえばまだ君の名前を聞いてなかったね。僕はヘルメス!君の名は?」
「……三葉。福山三葉」
「三葉!日本人だね」
「そこはいい名前だねとか言うところじゃ?」
こうして私とヘルメスの奇妙な執筆生活が始まった。