認識限界による齟齬
い山、ろ山、は山という三連山があった。に町からほ町へ行くのにはへ町を通って三連山を迂回する道が使われている。
そこでは山をなくしてに町とほ町を直進できるルートを作ろうという企画が立てられた。
担当にあたることになった一郎は一番コストの安い手段で道を作るように言われた。そこで二つの提案がなされた。
①案。山を平らにするためい山とろ山にそれぞれ土砂を運ぶ。
は山を平らにして、土砂はそれぞれの山に二台の車で運ばれる。
②案。更にコストを抑える案として、は山の土砂をろ山にのみ運ぶ案。
使用する車は一台。は山の土砂は三分の二しか撤去できず、道は凸凹になる。
ろ山にそれ以上の土砂を運ぶと土砂崩れが起こる危険性も指摘された。
一郎が二つの案を提出したところ②案が採用された。
それから数年後。道はできたものの悪路のため評判は悪かった。そのクレームの対応に当たったのは一子である。
③案。以前に工事を請け負ったA社から道を平らにするためは山の土砂をい山に運ぶことを提案した。ろ山にこれ以上、土砂を運ぶのは危険であると知っていたためだ。
④案。対してB社はろ山に土砂を運ぶことでA社より安価なコストで施工する提案をした。B社はろ山に土砂を運ぶ危険性は認識していなかった。
このとき採用されたのはB社であった。
道は平らになって走りやすくなった。一方で迂回路のほうにショッピングモールが建った。迂回路は人通りが増えて、新しく作られた道はあまり利用されなかった。
それから何年か経つとろ山は土砂崩れを起こして近隣住民から犠牲者が出てしまった。
以上が『三山のジレンマ』である。
この話を聞いて、多くの人達は解決策について議論を行おうとするのではないだろうか。しかし、待って欲しい。我々は過去から現在に至るまで実際に似たケースをいくつも見聞きし、あるいは体験したのではないだろうか。そして、その際に実際として解決したケースは具体的にいくつあるだろうか。
人間は問題を定義する際に単純化しようとする傾向がある。一部分のみをフォーカスして議論するという行為がまさにそれである。この際、全体像がぼやけてしまうという現象が起こる。結果的にとるべき手段を間違える。
人類はこのケースについて解決手段を持ち合わせているであろうか。実はないのではないだろうか。
何故なら大半の人々が認識をしていない可能性が極めて高いからである。認識できていない事柄を人類は問題化できないだろう。
私はこの事象を『認識限界による齟齬』と称している。
自身の思考実験のために書いたものです。
気が向けば、何かを書くかもしれません。
読了ありがとうございました。