七
少女を背負う愛親と骨川は畦道を駆けた。沈む夕日は山の稜線と重なって、大きな影が二人に落ちる。誰もいない畦道に蛙の声が染み渡る。道の先には仄暗く、紅い道が続くだけ。背中には少女の温もりがある。
かなり息も切れて来た頃であるが、どうしても今、笹井の居場所を突き止めなければならなかった。隠れ家を変えられてしまえば、また一から男達を探す羽目になってしまうし、探している間に新しい犠牲者が出るかもしれない。
「本当にこっちか狐たん」
愛親は背中の少女に声を投げた。
「匂う。焦げ臭い。すごく、すごく強まってる」
か細く、走っている愛親にやっと聞き取れる声だったが、それは俄かに愛親達の緊張を高めた。匂いの主、つまり妖怪がこの先にいる可能性が高いからだ。
愛親はこれまで真剣の立ち合いを何度も経験しているが、妖怪と対峙した事は無い。
もし戦いになった時、俺は勝てるのか。
いや、勝つ。
勝たねば九尾の少女が危ない。「自分が危なくなったら少女を連れて逃げろ」と骨川に言ってあるが、今背負っている九尾の少女が深雪かどうか確かめるまで、どうしても死ねないと思っていた。
愛親はふっ、と鋭く息を吐いた。内から闘志が激ってくる。何が来ようと関係無い。俺の剣で斬り伏せる。
太刀を絞るように掴み、畦道の先を睨み据えたその時。
ぐにゃりと視界が歪んだ。
目の前が黒く閉ざされる。あまりの事態に愛親も骨川も瞠目した。右を見ても左を見ても、また上も下も漆黒の闇で満たされている。まるで急に別の空間に放り込まれたかのようだ。
突然、抜けるような青が降ってきて、場を支配指していた黒を塗り潰した。青に無数の目がギョロギョロと蠢き、瞬きもせず愛親の方を凝視している。愛親を死に近付く緊張感が貫き、思わず後退りした。
待て、これは何だ。
しかし瞬きする間もなく、右からから毒々しい黄色が飛び散る。黄色に侵食された青い目が、更に大きく目を見開き、割れるような悲鳴がどこからか聞こえてくる。思わず耳を塞ぎたくなる轟音だ。
何が起きているのか、愛親には全く分からない。しかし敵意だけは明確に伝わってくる。
黄色が目の前を染め上げたかに見えた次の瞬間、今度は左から投げつけられた緑が飛沫を上げた。けたたましい笑い声が上がる。緑の中に人の口が、まるでウジのように蠢き、割れんばかりに笑っているのだ。
戦慄が突き上がる。今まで感じた事の無い恐怖が身体に張り付いていた。
理解が追いつく間も無く今度は血飛沫が上がった。今までの色を悉く染め上げ、眼前が血に覆われる。
歪み、混ざり、どろり崩れる。
愛親は息を呑んだ。畦道も、夕焼けもどこにも無い。視界は毒々しく色付き、畝り、互いに殺し、色同士で喰らい合っている。
趣味の悪い万華鏡の中に閉じ込められたかのようだった。出口はどこにも見当たらない。
呻き声が聞こえる。男の呻き声。掠れるような、絞り出すような苦しみに満ちた声。一方から、いや、両方向、違う、全方向から、愛親達を引きずり込もうとするかのように雪崩れ込んでくる。
愛親は再び耳を塞ぎたくなる衝動に駆られた。
肌がざわつく。
恐怖が汗となって首筋を伝う。
「骨川! ここはどこだ!」
「僕達は閉じ込められました! 嗚呼閉じ込められてしまいました!」
「だからどこに!」
「恐らく、恐らくこれは妖怪の作り出した結界! 侵入者を阻む結界ですよ!」
「出られるのか!?」
「出られません出られません! 僕にそんな力ありません!」
骨川の声は切羽詰まっている。愛親は未だ彼のこんな声を聞いた事が無い。
色が、声が、迫ってくる。まるで色が意志を宿したかのように、赤く混ざり、緑に飛沫き、黒く歪に、畝り、唸り、迫る。
「怖い、怖い」
九尾の少女は愛親の着物をぎゅっと握り締める。どうにか、どうにかこの少女だけでも助けられないだろうか。愛親は自然に彼女の手を握りしめた。
その手が光った。
重ねた手から伝わるように、肘に、腕に、白い光が染み渡っていく。
次の瞬間、白が一気に膨張した。それまで支配していた毒々しい色々を呑み下すか如く、眩い光が辺りを照らした。
愛親達の目前に迫っていた「色」が割れる。まるで刀で紙を切り裂いたかの如く空間が二つに分かたれる。
そして二つの切れ目から、脆くなった土壁が崩れるように、ぼろぼろと色が雪崩れ始めた。崩れた色は積もることもなく、透明になって死んでいく。
悲鳴が一際大きくなった後急速に小さくなり、静まり返った。
蛙の鳴く声が聞こえる。
徐々に大きくなる。
田んぼの水が涼しく香ってくる。
夜の闇が、夕暮れを押しのけようと迫る畦道に三人は立っていた。
愛親は未だ汗が収まっていなかった。胸も苦しい。何が起きたのか、終わって未だに理解が追いつかない。
「狐たん! 平気か」
「すごく今更だけど狐たんって」
九尾の少女を地面に下ろすと、目に一杯涙を溜めている。だがどこにも外傷は負っておらず愛親はほっと胸を撫で下ろした。
「怖い思いをさせたな、悪かった」
愛親は少女の頭を優しく撫でた。
「にしても危ない危ない。よく妖怪の結界を破れましたね。まさか常盤君がやったわけじゃ無いんでしょう違うんでしょう?」
「違う。俺はただ、狐たんの手に手を重ねて、そうしたら白い光が伝わってきて」
「成る程成る程。では必然的に……」
そう言って骨川は少女の前にかがみ込んだ。少女は慌てて愛親の後ろに隠れてしまう。
「尻尾の本数は伊達じゃなさそうだ」
骨川はこの少女が結界を破ったのだと言いたいらしい。しかし愛親は、こんな小さい子供が本当に妖怪の結界を突破したとはどうしても思えなかった。
不意に少女の耳と尻尾が同時に立った。愛親も骨川も少女の様子に気付き、息を呑む。
「あそこ」
少女が指差す方を二人は凝視する。
遠くの木立に囲まれた場所に、藁葺きの屋根が見えている。場所からしてただの百姓家にしか見えない。
しかしその家を視界に捉えた瞬間、込み上げてくるような強烈な吐き気に襲われた。思わず口を押さえる。
恐らく結界に閉じ込められていた事で、妖力に対する反射が鋭敏になっているのだ。
居る。
あの場所に、何かが居る。
愛親は骨川と顔を見合わせた。
「見るだけですよ偵察するだけ。居るのが確認出来たら後は妖怪改方に任せましょう」
骨川は首を横に振りつつ言った。血の気の多い愛親に釘を刺した形である。
「分かっている。狐たんも居るからな」
愛親は少女を背負い直し、闇に潜む藁葺き屋根の家へ駆け向かった。
この時、三人はその身に迫る酷烈な運命を知る由も無かった。