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五・

 

 翌日の事である。

 愛親が道場の稽古から戻ると、居間に九尾の少女がちょこんと正座し、その後ろにお民が控えている。

 どうやらお民が少女の尻尾に櫛を通しているようだ。お民の眼は優しげに尻尾を見やり、少女はうつらうつら微睡んでいる。昨日の今日でお民は少女の信用を勝ち取ったらしい。


 お民の持つ紺の櫛は滑らかに尻尾を渡り、戻っては稲田を駆ける風のように尻尾を渡る。やはり毛艶が良い。丹念に手入れをしていなければこれ程滑らかには動くまい。尻尾は体の構造上後ろにあるため、誰かに櫛を通してもらわねばならない。もっふり毛量の多い彼女の尻尾は手間も掛かる。しかも九本あるのだから大変な労力に違いない。

(それ程の労力を費やされるべき存在だったという事か)

 未だ分からない事が多過ぎるが、ただ一つだけ、今の愛親には分かっている事がある。


「お民、俺にもやらせろ」

 ーーもふもふした尻尾に櫛を通したいという己の願望だ。

「駄目です」

「くっ、何故だ」

「若様はせっかちですから却って尻尾を痛めてしまいましょう」

「馬鹿にするな。俺だって妖狐族の尻尾に櫛をかけた事くらいある」

 ただ、その相手から二度と頼まれる事は無かった事実を愛親は伏せていた。

「それに、若様が近くにいると深雪様が怖がります」

「そんなわけがあるものか。さあ、狐たん、こっちに来い」

「狐たん?」


 少女は一度愛親の方を見やったが、そわそわするだけで近寄っては来なかった。

「ほら怖がられているではございませんか」

「違う! 狐たんは恥ずかしがっているだけだ!」

「狐たんとは何ですか。若様の妹君なのですから、しっかり『深雪』とお呼びなさったら良いではございませんか」

「……其奴を深雪と呼ぶのはよせ」

 愛親はその少女を妹の名で呼ぶのはどうしても抵抗があった。もし違った時、深雪の死に再び受ける絶望を恐れているのだ。


「何故です? どこからどう見ても深雪様ではございませんか」

「まだ決まったわけではない」

「決まっています。こんなにそっくりな人間が二人と居るものですか」

「だからあの時と同じ姿で居るのがおかしいと言っている」

「おやおやおやおや喧嘩ですか」


 突然、愛親の真後ろで声がした。ゾッとする感覚が背筋を上り、愛親は反射的に体を回した。その姿を確認した瞬間、愛親は大きく息を吐いた。

「お前か」

 その人物は、今日愛親が呼んだ男だったからだ。

「非道いなあ、非道いなあ。僕は貴方の命令で昨日からずっとこの家を見守っていたというのにその言い方は非道いなあ」

「うるさい」

「非道い」


 男は痩せている。いや、痩せているというより殆ど骨と皮しかない。顔は白いを通り越して死体と競る程に青白く、棺桶に入っていても遜色ない。ただ灰色の着物に袴を付け、腰に二本短刀を差しているのを見ると武士のようではある。

「骨川、何かあったか?」

「いいえいいえ何もございませんとも。この家は誰にも見張られてもおりませんし私は昨日から木陰で虫と格闘するしておりましたとも誰かさんの命令のせいでね」


 男は腕を掻きむしりながら、呪詛でも唱えるかの如く一気に言った。その眼は暗く恨めしそうに愛親を見る。空気まで闇にとざしそうな眼差しだった。

「そうか。それはご苦労だった」

「軽いなあ軽いなあ」

 男の名を骨川捨松すてまつと言い、幕府の御庭番を務める、所謂忍者だ。気配を消すすべが尋常でなく得意で重用されているのだが、癖の強い男で扱いが難しい。

 しかし愛親には一定の信頼を置いているらしく、金を払えば小言を言いながらでも依頼を受けてくれる。昨日木陰から少女を見張っていたのもこの男である。 

気味悪がられる事の多い骨川は、誰に対しても態度を変えぬ愛親に好感を抱いていたらしい。


「若様! その者を深雪様に近付けないでください」

 お民は九尾の少女に覆い被さるようにしている。愛親と対照的にお民は骨川を蛇蝎の如く嫌っていた。


「それにしても驚いたなあ驚いた。九尾の妖狐なんて初めて見ましたよ」

 骨川は上体だけ曲げ、少女を覗き込んだ後、その体勢のまま、股の間から愛親の顔を見た。

「どこのどこで拾ってきたんですか僕も拾いに行きたいなあ妖狐。九尾の妖狐」

 少女の事を明かしたのは骨川を信用しているからではあるが、今になって少し心配になってきた。

「今日お前を呼んだのは調べて欲しい事があったからだ」

「何でしょう何でしょう。聞くだけなら聞いてあげますよ聞くだけなら」

「この近くで人攫いがあった事を知っているか」

 骨川は一気に上体を起こした。愛親の方に向き直った彼の目はギョロリと白く見開かれている。

「知りません」

「知らんのか」


 桐の話す所によると、最初に事件が起こったのは愛親の住み暮らす万駄木町から程近い鴨巣町という場所であった。鴨巣の藤江屋という庄屋では代吉という男が店主をしているが、その長男が使用人と出掛けた日、襲われた。

 使用人は抵抗したが斬られ、男の子は連れ去られた。近くに住む百姓の女房が通りかかった時には既に死にかけており、

「襲ってきた奴の中には手に蜘蛛の刺青の入ってる奴がいた」

 と言い残し、息絶えた。

 その他に目撃者が居ないものを含めれば、一月の間に合わせて七件、子供の失踪事件が起こっている。被害者の中には妖狐族が二人含まれている。


「それは……」

 座布団を枕に寝転んでいた骨川が呟こうとした言葉を一瞬飲み込んだ。お民は少女を連れて自室に退がっているため愛親と骨川しかいない。骨川はもう一度口を開いた。

「それは妖怪の仕業かもしれません」

 縁側から入る明るい日差しが余計に骨川の輪郭を黒く浮かび上がらせていた。


「妖、怪……?」

 ザラリとした感覚が肌をなぞった。忌々しい記憶が目の前に迫る。

 黒い穴。悲鳴。離してしまった手。

「どうかされました」

 気付くと骨川の顔がすぐ近くにある。

「うわっ! 離れろ!」

 愛親は両手で骨川の顔を押しのけた。

「非道いなあ非道いなあ。まるで妖怪扱いじゃないですか」

 するりと離れた骨川は再びごろんと横たわる。妖怪と言うより死体のようである。

「妖怪の仕業と言うが、この菊一で被害が出たという話は何年も聞いていない」


 妖怪は、確かにいる。この鶴義国には妖狐が居るように妖怪も存在しているのだ。多くは人を喰らう種であり、古くから人との間に戦いの歴史がある。

 しかし今の奥川幕府の世になり、「妖怪改方ようかいあらためかた」という妖怪討伐を専門に行う部隊が作られ、状況が一変した。特に菊一や上方などの大都市では徹底的に妖怪が駆逐されたと聞く。


「いるんだなあ、いるんだなあそれがいるんですよ。妖怪改方の連中が僕に気付かず喋ってるのを聞いたから間違いない。最近妖怪の被害が増えてるって、表沙汰になってないけど妖怪に食われた人が何人も居るってね。ああ酷い酷いなあ」

 骨川は妖怪改方にとって機密であろう情報をボロボロ零し、尻をぼりぼり搔く。一つ言ってしまえば後は幾ら暴露しても同じだと思っているのだろう。

「しかし、話では子供を攫ったのは人間のようだが」

「手先ですよ人間は手先。人間を使って入り込んで、獲物を探すのが最近の連中のやり口らしい」

 愛親は腕組みをした。突然現れた妹と同じ顔の少女、訳ありげな妖狐の内情、活発化する妖怪、そして誘拐事件。これらは果たして無関係なのだろうか。それとも……。

(この菊一で何が起こっている?)

 鶯の鳴き声が一つ、春の日差しで和らぐ居間に染み渡った。


 愛親は大きな瞳で骨川を見据えた。

 迷っていても仕方がない。この誘拐事件は愛親にとって重要な意味を持っている気がしていた。

 浪人共は九尾の少女を狙っていた。つまり、あの連中は妖狐が深雪の顔をしている事について、何らかの事情を知っている可能性がある。

 あの妖狐が深雪にせよ、そうではないにせよ、早くはっきりさせなければならない。

 違うのならば早く少女を元の家に返してやらねばならない。連れ帰った以上その責任がある。

 だがもし、もし本当にあの少女が深雪なら、俺は……。


「骨川、誘拐事件を探ってみてくれないか? 俺は藤江屋で話を聞いてみる」

 骨川は歪に頬を吊り上げた。

「良いですよ良いですよ。でも妖怪に関わって無事で済むなんて思わない方が良いですよ」


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