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 愛親は一人、仙理の墓前に立ち尽くしていた。ここ肥前寺は片岡家の菩提寺である。

 小雨がしとしと傘を叩き、流れる雫が仙理の墓を濡らしていた。

 麗麗とお民も一緒に来ていたのだが、今は近くの茶屋で待ってもらっている。どうしても一人になりたかったからだ。


 愛親が辻斬りとの死闘を繰り広げた後、二人の倒れた姿は近くの書物問屋の番頭・五平によって発見された。

 何故書物問屋の番頭があんな場所に居たのかというと、お民が近所中の知り合いに、愛親の捜索を懇願して回っていたからだ。一度は愛親の姿を見送ったお民だが、やはり心配でじっとしていられなくなったらしい。

 だがそのお陰で愛親は命を拾ったといっても過言ではない。あのまま朝を迎えていたら愛親は恐らく息絶えていた。お民には感謝してもしきれない。


 そのまま三日寝込んでいた愛親が、飛び起きて一番最初に向かった場所がある。仙理の結婚相手・千代の住む武藤藩菊一藩邸であった。

 


 門番を務めていた足軽に「片岡仙理の遺品を渡したい由」を説明すると、直ぐに取り次いでくれ、千代と面会することが出来た。

 本来であれば美しく彩られた中庭を望むであろう一室は雨に曇り、命の拍動聞こえぬ灰色に塗り潰されていた。

 千代は気丈に笑って迎えてくれたが、それが逆に痛ましかった。目の周りが大きく腫れていて、この二十日間、絶え間なく泣き続けていた事が伺えたからである。

「この度は、仙理の無念を晴らして下さりありがとうございます」

 頭を下げる千代に、愛親は無言で指輪を差し出した。灰色の世界に一筋、蒼い光が射す。

 千代が大きく目を見開いた。それが何であるのか気付いたようであった。

「これは……」

「仙理が、千代さんに渡そうとしていた指輪だ。辻斬りに取られていたのだが……」

 そこで愛親は言葉に詰まった。自分を落ち着かせるように、嗚咽がこみ上げぬように、たっぷりと時間を置いて、言った。

「それしか取り返せなかった」

 千代はゆっくりと指輪を手に取り、手のひらを照らす蒼玉を凝視した。暫く仙理との思い出を振り返るが如く、遠い目をしていた千代が、突如堰を切ったように泣き出した。最早声を抑えようともせず、身体中に溜まった全ての悲しみを吐き出すかのような慟哭。送り梅雨のように、千代の頬から大粒の涙が溢れて畳を濡らしていた。

 愛親は掛ける言葉も見つけられず、ひたすら俯き、畳の一点を見つめていた。


 あの時と同じように、今愛親は俯いている。

 墓石の前に供えられた花や食べ物は、容赦なく風雨に曝され、無惨に散らばっている。


 愛親は唇を噛み締めた。自分のやった事に後悔はない。仙理の無念を晴らすため、己の信念と剣士の誇りにかけて辻斬りを見つけ出し、復讐を果たした。百度同じ事が起こっても、百度とも同じように愛親はしてのけるだろう。

 だが、執念の復讐を果たした愛親に、毎日突き上がってくるのは途方も無い虚無感であった。それまで復讐の一念で張り詰めていた心に大きな空洞が出来、代わりに仙理が居ない現実が激流のように押し寄せてきたのだ。

 何をしていても「必死に復讐を果たしたところで仙理は帰ってこない」との思いに囚われ、脱力感に絶え間なく襲われ続けた。あれだけ活動的だった愛親が、立つことさえ億劫になる事もあった。


 もう道場に行っても仙理がいることはない。共に汗を流すことも、馬鹿な話をして笑うことも出来ない。仙理の、あの人懐こい笑顔は永遠に失われてしまった。

 愛親はつい傘を落とし、天を仰いだ。

 垂れ込めた雲は空を覆い、生暖かい雨が顔に透き通っていく。

(俺はこの虚無を、どうやって埋めれば良い。それとも一生抱き続けるべきなのか)


「お侍様、どこ」

 不意に麗麗の声がした。愛親は慌てて傘を拾い直す。声の方へ目を向けると、遠くの墓の後ろで狐の耳が二つ、ぴょこっと飛び出している。その様子が可愛らしくて、思わず笑ってしまう

「ここだ、麗麗」

 今度は二つの耳がピンと立ち、揺れながらこちらへ向かって来た。やはり狐は聴力が人並み外れているのだろう。

「見つけた」

 愛親の前に現れた麗麗の髪は、雨の中にあって変わらず金色こんじきに輝き、咲く花のように笑う顔は白く満ちている。彼女の柔和な笑顔を見ていると、先程まで水底に沈んでいた愛親の心が、少しだけ軽くなる思いがした。

 いつの間にか雨は止んでいる。雨音が消え、辺りに虫の声がせわしなく聞こえている。


「どうして来た。茶店で待っていろと言っただろう」

 二人で墓前に手を合わせた後、愛親は優しく言った。麗麗は大きな瞳でじっと見返してくる。

「お侍様、寂しそうだったから、一緒に居てあげたかった」

「何だそれ」

 愛親は思わず笑ってしまった。可笑しかったから笑ったのではない。まだ幼い麗麗に心を見透かされているような気がして、動揺を誤魔化したのだ。

 麗麗は小さな両の手で愛親の左手を包む。麗麗の優しさが、決意が、温もりとして愛親に伝わってくる。

「私が居るよ。妖怪がいたら一緒に戦うよ。悲しかったら一緒に泣くよ。一緒に、一緒に居るよ。私はお侍様に助けてもらったから、私も恩返し、したいから」

 彼女の目は真剣そのものだ。愛親ははっとした。今回の辻斬り探しで、愛親は完全に回りが見えなくなっていた。だが、麗麗はずっと愛親の事を気遣っていて、傷が治るまで看病も手伝ってくれた。

(この子は、こんなに俺のことを思ってくれていたのか)


「麗麗」

 愛親が言い掛けたその時、僅かな雲間から太陽が煌めいた。初夏の日差しが一杯に降り注ぎ、陽の光は家々の、木々の、草花の雨粒を反射し、世界の全てが宝石のように輝いた。

 目の眩むほどの光に手をかざし、愛親は天を仰いだ。

 煌々と輝く太陽を、蒼玉サファイアのように底抜けの青が包んでいる。

 梅雨が明けたらしい。


 仙里は戻らない。幾ら嘆いても、復讐を果たしてもそれは変わらない。だが、だからといって愛親のすべき事も変わらない。知らねばならぬ事がある。解決しなければならぬ事もある。何より、命を賭して守るべきものがある。


「帰ろう」

 愛親は麗麗の手を握り返した。麗麗は太陽に負けないくらいの笑顔で答え、隣を歩き出す。

 二人が手繋ぎ歩く道の端に、小さな菖蒲が咲いている。その花びらを、一滴の雫が流れて揺れた。


かなり暗い話になってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

でも次の章は反動で明るくしすぎたかもしれません。笑

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