六
愛親の足は最早思うように動かなくなっていた。一歩動かす毎に激痛が襲われ、どうにか足を前に進めているだけだった。歯を食いしばり、泥濘を擦るように歩く彼の姿は、誰が見ても戦える状態ではない。もう遠くまで辻斬りを探しに行く事も出来ぬし、運良く見つけても恐らく敗北するだろう。
突然、愛親の身体が崩れ落ちた。道から僅かに突き出した石に躓いたのだ。
いつもの愛親なら転ばず踏ん張れたであろうし、そもそも躓きはしなかった。しかし今の彼には、踏ん張る力も、そして立ち上がる力も殆ど残されていなかった。
目の前で弾ける雨音が遥か遠くに響いている。黒と灰の地面がやけにぼやけて見える。身体が自分のもので無いかの如く、思うように動かない。このまま死んでしまえばどれ程楽になれるだろう。そんな思いさえ湧く程愛親の精神は参っていた。
どれ程雨に打たれていただろう。愛親は己の四肢に全神経を集中させ、呻き声を発しながら起き上がった。
再び、何かに導かれるように歩き出す。
この時愛親の精神は折れていなかったが、意識はほぼ機能していなかったようだ。最早自分がどこを歩いているのか、そしてどこへ行こうとしているのかさえ、分からないまま、取り憑かれたように歩き続けていた。
次に気付いた時、愛親は夜の闇に、より暗い口を開く林道の前に立っていた。そこは関口水道町から中里町に至る間の道。
即ち「仙理が斬られた場所」であった。
何度も通った。この一月、仙理が殺されて、何度もこの場所を訪れた。そこで道場生達が供えた萎れた菊の花を見る度、仙理の顔が思い出され、泣き出したい気持ちになる。そしてどんなに身体が疲労に蝕まれていても、「必ず復讐する」という強烈で新鮮な怒りも湧き上がるのだ。
愛親は足を引き摺りつつ、どうにか林道に足を踏み入れた。
雨の音も、ぐしょぐしょに濡れた衣服も、水の冷たさも、そして足が地面を擦る感触さえ不確かで、今にも自分の意識が身体を離れそうな気さえする。
愛親は僅かな明かりを頼りに進んでいく。視界の奥に、菊の花が見えた。
視界の隅で影が揺れる。
愛親は足を止める。
気のせいだろうか。
愛親が再び歩き始めようと視線を地面に移した時だ。
殺気が膨張した。
その一瞬、愛親の暗闇に沈んでいた脳の中、無数の火花が迸った。
愛親の左手は無意識に鯉口を切り、鋭く抜き打たれた刀身は獰猛に殺気を薙ぎ払った。
夜の静寂に甲高い金属音がこだまする。
今度愛親の目前を照らした火花は本物だった。雷光の如く照った一瞬、殺気の奥にいた顔が不気味に浮かび上がる。
四十絡みの大男で、細い目の下、腫れぼったい唇が歪に吊り上がっている。
見つけた。
仙理を殺した辻斬り。
今、ここで!
朧だった愛親の意識が覚醒する。
雨音が、押し寄せるが如く鮮明に聞こえ始める。
目は見開かれ、辻斬りとの距離も、暗い林道の空間も、手に取るように分かる。
水中にいるような濡れた感触も、吐く息の紅さも、握り締める刀に込めた気迫も、全てが愛親と一体化して感じられる。
「貴様が小指の才蔵だな」
愛親の声は今までになく低かった。
辻斬りは何も言わず、花の供えられた場所を振り返り、再び不気味な笑みを愛親に向けた。
その瞬間、愛親の全身から殺気が破裂した。
暗いはずの視界で辻斬りだけが紅く、紅く浮き上がって見えた。
頭の上から爪先まで迸る熱が覆っている。
瞳が相手を捉えて張り詰め、愛親は矢のように跳躍した。
再び激しい火花が迸り、漆黒の林道に両者の気迫が版画のように浮かび上がる。
愛親は歯を剥き、抉るような踏み込みで激烈に打ち込み続けた。
雷のように閃光が明滅し、甲高い音が静寂を劈き、まるで芝居を囃す喝采の雨。
辻斬りが振り下ろす刀を受け、切り替えして斜めに踏み込みながら刀を突き出し、それをまた辻斬りが防ぐという一進一退の攻防が繰り広げられている。
しかし僅かに、僅かに押され始めたのは愛親の方だ。
無理も無い。幾ら愛親の精神力が常人離れしているとはいえ、彼はこの二十日間まともに眠っておらず、辻斬りを見つけるためにずっと動き続けていたのだ。常人なら立っていられない程、いや死んでもおかしくない程に身体が蝕まれていた。
咥えてこの辻斬り、相当に使う。常人なら目にとめることもかなわぬ愛親の打ち込みを捌き、返す刀で的確に急所を狙ってくる。不意打ちをしなくとも、天才的な剣客であることは明白であった。
刀が激烈にぶつかり、閃光と共に両者が飛びしざる。愛親の目は鋭いが、既に肩で息をしており、頬には幾筋も刀傷が出来ていた。対して辻斬りは多少呼吸が早くなっているだけで薄笑いを浮かべる余裕さえ見せている。その笑みが余計に愛親の怒りに火を焚べた。
愛親は獣のように叫びながら殺気の塊をぶつけ続ける。力が入って肩が開き、剣筋が単調になっていることに彼は気付いていない。
徐々に、徐々に愛親が後退し始める。無論戦略的に引いてはいない。辻斬りの力に押し負けている。
愛親が鍔迫り合いで押さてふらついた一瞬、辻斬りの一打が真上に迫った。
避けられない!
愛親は全身の力を込めて受ける。まるで巨大な鉄の塊が落ちてきたかの如き衝撃が愛親の全身を襲った。息つく間も無く、二刀目、三刀目が容赦なく振り下ろされ続ける。力任せに見えて、愛親が反撃に転じられないほど辻斬りの攻撃は隙がない。
ついに愛親は片膝を付いてしまった。
辻斬りの動きが、やけにゆっくり見える。
次はもう受け切れない。既に愛親の手は裂けて血まみれとなっていた。
俺は負けるのか。仙理の仇を取ることも出来ず。一太刀も入れられずに。
その時、振りかぶった辻斬りの懐から何かが飛び出した。僅かな光源を反射して放たれる、底抜けの青。仙理が千代に渡そうとしていた蒼玉の指輪だった。
その光を見た瞬間、朦朧としていた愛親の意識に、一気に仙理との思い出が押し寄せてきた。馬鹿な話で笑いながら帰った夕焼けに染まる帰り道。細かすぎる仙理と喧嘩して、師範に正座させられた炎天下の庭。遅くまで練習した後に見た満点の星空。そして「これを千代にやろうと思うんです」とはにかんでいた仙理の、照れ臭そうな顔。
愛親の瞳に光が収縮する。
身体が闘志の激流であふれ始めた。
裂けた両手で握り締め、
刀は血に飢え脈動し、
息吹は炎の色を帯び、
足の裏が蹴る彼岸
愛親は身体の全てを吐き出すかのように絶叫し、渾身の力で辻斬りの一撃を迎え撃った。
地響きのような刀の音、そして一際大きな光が林道に疾走る。
浮かび上がった辻斬りの顔から笑みが消え、その刀は宙に弾き飛ばされている。一方愛親は振った太刀を返し、踏み込み一点胴を狙っていた。
暗転。
辻斬りが居合のように二本目を突き出したのと、愛親が胴を薙ぎ払ったのはほぼ同時だった。
飛び違った愛親の肩に、深々と辻斬りの刀が刺さっている。
愛親はよろめき、跪いた。
その時、後ろで水の跳ねる音が聞こえた。
首だけを後ろに向けて確認すると、辻斬りが水溜りに突っ伏している。腹から夥しい血を吹き出しており、愛親の一撃が致命傷となった事は明白だった。
「仇を取れた」
その一念に思考が至った瞬間、愛親の中にあった意識の糸が一気に切れた。最早刺さった刀を抜くことも出来ず、うつ伏せに倒れてしまった。
そして二者の死闘を木の上からじっと何者かが見ていたことに、愛親は最後まで気付かなかった。
倒れた両者の上に、容赦なく冷たい雨が振り続けている。