五
その日から、愛親は歩く範囲を更に広げていった。まるで行軍のように、菊一中を歩き回った。身体的疲労は既に限界を超えていた。最早歩いているという感覚も無く、一歩踏み出す毎に身体が壊れていくような錯覚にとらわれる。膝折れしたのも、ふらついて通行人に当たったのも一度ではない。何度も吐いて、割れるような頭痛に座り込んでしまうこともあった。
それでも瞳の奥には、消えぬ灯火のような、燃え続ける気迫が籠もっている。身体的に追い詰められるほどその光は異様な程強くなった。それ程に愛親が復讐に燃やす執念は凄まじかった。
行灯に映る彼の姿は最早幽鬼というより死人に近かった。傘も差さず濡れっ放しの身体。青いく痩けた顔の上、垂れた前髪の奥に白く光る目が、ギョロリ、ギョロリと左右を向き、足を引きずるようにして歩いて行く。
「亡霊が出る」とこの時期、菊一中で噂になった程であった。
しかし愛親の捜索も虚しく、日は過ぎて行く。二日。三日。五日……。
辻斬りは見つからない。有力な情報もなく、尻尾さえ掴めない。仙理が殺されてから被害はぴたりと止まっていた。
愛親の中で焦燥感が肥大してく。何をしていても「仙理の仇を取り逃すかもしれない」という恐れが押し寄せてきて、一刻の睡眠さえまともに取れなくなっていた。
そして仙理が殺されてから十九日、骨川の情報を聞いて十日目の朝、ついに愛親は血を吐いて倒れた。幸い自宅の中であったため、直ぐお民が介抱してくれたのだが、最早捜査の続行は不可能であった。
愛親の身体は極度の疲労で使い物にならなくなっており、特に足は少し動かすだけで激痛に見舞われた。
医者を呼ぶと、もはや今日まで動けているのが不思議なほどだと言われた。
絶対安静を言い渡された。
お民が寝かされている愛親の頭を優しく撫でた。まるで母親が我が子に対するような笑顔だった。麗麗も心配そうに愛親を覗き込んでくる。
「もうゆっくり休んで下さい。敵討ちだけが供養ではありませんよ」
枕元でお民がいつになく優しい声で語り掛ける。
「若様がこんなに傷付いて、死にかけている姿を見て仙理様はどう思われましょう。そこまでして敵討ちをして欲しいと思われるようなお方ですか。あの方は心から若様を慕っておられました。若様がこれから出来るだけ長く、幸福に生きる事が仙理様に対して一番の供養になると私は思います」
愛親は応えなかった。ただひたすらに天井の一点を虚ろな目で見つめ続けている。
流石に愛親も諦めたと思ったようだ。
しかしその夜である。お民が布団の支度をしていると急に戸の開く音がした。土砂降りの音が強まる。まさかと思い玄関へ向かうと、今にも愛親が踏み出そうとしているではないか。
「若様! 止めて下さい!」
お民は足袋のまま出て、全体重を掛けて愛親を引っ張った。しかし極限を迎えている筈の愛親が微動だにしない。
「若様! これ以上無理をすると貴方様の方が死んでしまいます! 早くお戻り下さい」
愛親は動かなかった。土砂降りに塗れた不動の背中に、確固たる決意が滲んでいる。
最早どんな言葉も届かないとお民は悟った。愛親は文字通り「死んでも」仙理の仇を取るつもりなのだ。それが愛親の仙理に対する義理であり、彼自身の武士道なのだ。
「お侍様、行っちゃ駄目」
雨音にかき消されそうなか細い麗麗の声がした。
愛親は振り返らない。無言で雨の強打を浴び続けている。
「駄目。お侍様、死んじゃう。行っちゃ駄目」
麗麗も玄関を降りて愛親に抱きついた。
「嫌な予感がするの。お侍様、死んじゃう」
堪えきれなくなったのか、麗麗は声を上げて泣き始めた。それでも男の背中は動かない。お民の必死の声も、麗麗の嗚咽も、虚しく雨に溶けていく。
不意に愛親が振り返った。目は充血し、隈は死相のように濃く、それでも窶れた頬を釣り上げ、精一杯笑顔を作る。
「大丈夫だ」
それは愛親が今日初めて口にした言葉であり、最後の言葉になった。
男は再び前を向く。
玄関の明かりで浮かぶ背中は頼りなく朧げで、それでも瞳に闘志を宿して。
麗麗もお民も、最早止めることが出来なかった。
今にも消えてしまいそうな愛親の意識を、壊れそうな身体を、復讐の一念が強烈に貫き、動かしていた。
その姿も暗闇に飲み込まれ、見えなくなった。