四
手紙には愛親との今までの思い出、感謝が綴られ、そして「必ずまた会いましょう」という一文で締めくくられていた。
何気ない、本当に何気ない別れの手紙だった。片岡仙理もそのつもりで書いたのだろうし、もし彼がまだ生きていたのなら、愛親は暖かい感情を抱きつつこれを読んだに違いない。
しかし愛親にとって、それは仙理の最後の言葉だった。彼との全ての会話が永遠に過去に置き去られ、全ての約束は履行される事が無くなった。
全て奪われた。
その事実が、愛親を復讐の炎で一気に燃え上がらせたのだ。
それからの愛親はまるで人が変わったようであった。夜になると毎日、灯りも持たず、まるで何かに憑かれたように外へ出て行く。戻って来るのは決まって明け方である。ずっと夜通し歩いていたと見え、衣服は泥に塗れており、傘も穴が空き、殆ど機能を失っている。
愛親は帰って直ぐ着ているものを脱ぎ、井戸の水を浴びて麗麗の部屋に行く。そして額の水枕を交換してやり、そのまま自室の布団に潜り込んで寝る。
だが眠っているのは一刻(約二時間)程で、時間が来ると直ぐ起き上がって用心棒稼業に出て行く。仕事の無い日も昼過ぎには起きて、家に呼び出した骨川と何やら打ち合わせを重ねている。
目は日に日に虚ろになっていき、それでいて瞳の殺気は増し、充血して血走っていく。目の下には深い苦悩を刻み込むかのように隈が濃くなっていった。
見かねたお民が夜出て行く愛親に
「もうお止めになってはいかがですか。そのままでは若様が先に倒れてしまいます」
と半ば懇願しても、頑なに「行かねばならん」としか答えない。お民の方を見ようともしない。あまりの変貌ぶりにお民も、病気から回復した麗麗も戸惑っていた。特にお民は愛親が生まれてからずっと見守ってきただけに、このような他人を寄せ付けない姿を見た事が無い分動揺も大きかった。
無論、愛親は辻斬りを探している。探して、その手で片を付けようとしているのだ。そうしなければ今にも気が狂ってしまいそうだった。仙理を失った悲しみで折れそうになる膝を、もう会えない喪失感で溢れそうになる涙を、「自分なら救えたのではないか」と絶え間なく押し寄せてくる後悔の痛みを、全て、黒く、どす黒い復讐の炎で焼き払おうとしていた。
愛親は今まで事件のあった場所を順番に回り、聞き込みなどをしながら一晩中歩き続けた。少しでも手掛かりが欲しかった。すれ違う人々は一様に愛親から距離を取り、何やらひそひそと耳打ちしながら歩いていく。無理もない。灯りも持たず、項垂れながらも双眸に異様な光を湛え、闇を彷徨う愛親は狂人か幽鬼としか映らなかったのだ。
御用聞きに声を掛けられた事も一度や二度ではない。
葬式の後、愛親が辻斬りを殺そうとしていると聞きつけた道場生達が「自分達も手伝う」と息巻いて、愛親の家に押しかけた事があった。しかし愛親は半ば叱りつけて彼らを諦めさせ、帰らせた。相手は仙理を斬る程の手練だ。これ以上犠牲を増やさないために、道場生を巻き込むわけにはいかなかった。
その代わり、谷間村の師範 も探索に参加してくれ、愛親とは違う筋から色々と探ってくれていたようだ。だが師範として道場を預かる身として、 は中々思ったように動けないのが現実であった。
愛親が辻斬り探しを始めて、何の手がかりも得られないまま一週間が過ぎた日、愛親がフラフラになりながら家に戻ると骨川が来ていた。
「おやおや目の隈が酷いですね、ああ見苦しい見苦しい。明日にでも死ぬんじゃないですか」
骨川は嘲笑ったが、愛親が全く反応を示さないので今度は骨川が真顔になってしまった。
「時間が無いかもしれません」
骨川は項垂れた愛親を見下ろしたまま、全く感情の無い言葉を吐いた。思わず愛親は顔を上げる。
「どういう事だ」
愛親の声は掠れていた。
骨川によると、仙里を殺した辻斬りの手口がこれまで西国の各地で発生してきたある辻斬りのものと一致しているのだという。
その辻斬りは通称「小指の才蔵」という男で、その名の通り殺した者の小指を切り落とし、持ち去るのが特徴だった。必ず金品を奪うことも才蔵の手口と一致しており、地方からこの菊一に流れてきた可能性が高いという。
「子供だろうが妊婦だろうが無差別に斬る酷い奴ですよ。斬られた人は百をくだらないって話だ本当に酷い奴だ。あでも羨ましいなあ僕もそれくらい一気に人を斬ってみたいなあどんな気分なんだろうなさぞ清々しいんだろうなあフヘヘ」
「その才蔵という野郎が下手人だったとして、どうして時間が無いのだ」
「才蔵はそれだけの人数を斬っておいて未だに捕まってない。それは才蔵が捜査の手が伸びる前に直ぐ場所を変えるからです長くても一月以上は留まらない長居しないさっさとお暇するんです」
捕まっていないのにはもう一つ大きな理由がある。
鶴義国は三十年前に開国したものの、藩政は継続されていた。そのため例えば一人の男が犯罪を犯し、別藩に逃げてしまった場合、それは今でいう国外逃亡と似た事態となる。つまり犯罪捜査の管轄が全く違うので、犯人を追って行って捜査を継続することが出来ないのだ。これが「敵討ち」が容認されていた一因でもあるのだが……。
「おい待て、菊一での最初の事件は、何時だ?」
「十九日ほど前ですね。ああ大変だ大変だ」
明らかに愛親の顔色が変わった。
「今回は妖怪相手じゃないからおたくの狐の力を借りるわけにもいきませんしねえ」
不躾な骨川の言葉も、今の愛親には届いていなかった。