始
菊一の西の端、谷間村は雨霧に包まれていた。晴れていれば、清らかな水の張られた田んぼに青々と稲が広がり、百姓達が仕事に精を出す様子が見られる。しかし今は雨で一面灰色に霞み、人気も絶えている。
もう七月になろうというのに未だ梅雨の明ける気配は無く、この三日は絶え間無く雨が降り続いていた。
しかしそんなカエルの大合唱と、雨音以外聞こえないような村で、一軒だけ、けたたましい声の響いてくる建物がある。
谷間村で最も大きなその建物は全面板張りに瓦屋根の風体で、百姓家とは似ても似つかない。
しかし土塀を巡らせた門にでかでかと掲げられた看板を見れば、この建物の正体は直ぐに分かるだろう。
「一心流谷間村道場」
ここは愛親の通う一心流の道場なのである。
道場内では防具を付けた男達が大声を発し、代わる代わる竹刀で打ち合っている。ただでさえじめじめしているのに、男達の熱気によって更に湿気が増し、防具の匂いと混じって、慣れていなければ鼻をしかめそうな臭さである。
響みの中、愛親も防具を付け、一人の道場性と向かい合っていた。相手の体は愛親より一回り大きく、その発達した背中から肩にかけての筋肉は相手を押し潰すかのように引き締まっている。
向かい合った道場生は大上段に構え、愛親の周りを回って飛び込む隙を伺い、一方の愛親は相手に隙を見せぬよう、左足の母指球を重心にその場で円を描く。
大音声の中、二人の動きは水を打ったように静かで、しかし静寂の中に爛れるほどの紅い気迫が満ちていく。
その時、相手の道場生が突風のように揺れた。大上段から振り下ろされる竹刀が雷光の如く閃く。
面に当たる、寸前、愛親の身体が軌道を逸れ、同時に繰り出していた竹刀が鋭く道場生の小手を突いた。
目にも留まらぬ早技だったが、破裂しそうな音と共に、巨漢の男が竹刀を落としてしまった事でその威力が知れた。
道場生は暫く落とした竹刀を見つめていたが、やがて愛親に視線を移し、面の奥で微笑んだ。
愛親が防具を外していると、先ほどの道場生が近づいてきた。発達した頬骨の特徴的な男は満面の笑みを浮かべ、愛親の隣にどかりと胡座をかいた。
「いやあ、やはり愛親さんには敵いませんなあ」
そう言ってボリボリ頭を掻く。坊主頭からは湯気が立ち上っていた。
この男の名を片岡仙理と言う。西国にある武藤藩の、菊一藩邸に勤める御納戸役・片岡仙兵衛の長男であり、この道場に通い始めて二年となる。
以前、武藤(※注)藩邸へ出稽古に訪れた愛親を一目見て、その鮮烈な強さに惹かれたのが道場に通い始めたきっかけである。
その図体とは対照的に細かい性格をしており、特に金の貸し借りに関しては厳しい一面を持っている。
道場内で起こる金の貸し借りにも口を挟む有様で、一部の道場生からは疎まれている。
しかし道場内での立場が弱いため、金を返して貰えない者の代わりに取り立てを行ったり、金貸しから不利な条件で金を借りてしまった者に代わり、直接金貸しと交渉を行ったりする。厳しい反面公平なのである。
その細かさは金にだらしない愛親にも容赦なく向けられるため、愛親は「道場にお民がいるみたいだ」とよく愚痴をこぼしてる。
一見相容れないように見える二人だが関係は良好で、練習が終わった後はよく二人で飲みに行く間柄である。片岡は奢られる事を嫌い、愛親が幾ら言っても必ず勘定の半分を払う。そんなどこまでも一貫性を持った片岡に愛親は信頼していたのである。
「片岡、お前も強くなったよ。俺も後少し反応が遅れたら一本取られていた」
「その『後少し』が相変わらず遠い!」
片岡は膝を打ち、けたけた笑う。
その声が既に稽古の終わった道場内によく響いた。
急に片岡の笑顔が消える。相対的に建物が一気に静寂さを増す。
「愛親さん、今日、砂田が休んだ理由を知っていますか?」
片岡の声は低く、小さい。ただならぬ様子に、愛親は嫌な予感を感じ取った。
砂田は道場生の一人で、殆ど稽古を休んだことがないほど熱心である。その砂田が確かに今日は居なかった。
「砂田に何かあったのか」
「いえ、砂田は無事なんですが……」
「どうした」
「葬式らしいので」
「何? 誰の」
愛親は食い入るように片岡を見つめる。
片岡は左右を確認し、更に声を落として話し始めた。
「何でも、砂田家の下男が昨日、死体で見つかったらしいので」
「死体?」
「その死因というのが」
片岡は再び周囲に目を配った後、早口に言った。
「辻斬りだと」
遅くなって申し訳ありません。