二
ここがどこなのかも分からない。
どうして追いかけられているのかも分からない。
しかし捕まればどんな目に遭うかだけは直感的に分かった。
腕を振り、全力で駆ける。
息が切れる。
心臓が痛い。
足が棒のようで感覚が無く、今にも転げてしまいそうだ。
それでも止まるわけにはいかない。
少女は道を左へ切れ込み、小さな神社に逃げ込んだ。
このまま逃げ回っても、子供の足ではすぐ追い付かれてしまう。一か八か、ここに隠れて男達をやり過ごそうと考えたのだ。
神社は無人で人気が無い。
境内は仄暗く、小さな本殿は海底に身を横たえた骸のようだ。少女は一瞬躊躇したが、本殿の方へ駆け向かった。
左右の石灯籠が投げる光が亡霊のように少女を浮かび上がらせ、降り頻っては地面に落ちる何かを灰色に映しだ出す。
少女は本殿を見上げ少し考えた後、目の前に置かれている賽銭箱の後ろに身を伏した。
息を潜め、辺りの様子を伺う。
ぴょこっ、と何かが二つ賽銭箱から飛び出した。
豊かな毛で覆われた三角のそれは少女の耳である。それは機敏に動き、少しでも情報をかき集めようとしているようだ。
不意に両耳がピン、と立った。
地面を擦る草履の音。
徐々に大きくなってくる。
近い。
すぐそこまで来ている。
賽銭箱を掴んでいた少女の両手が震え、その震えが全身を覆に広がっていく。
「くそっ、どこ行きやがった」
「こっちの道に入ってきたのは確かなんだが」
「この辺で左に行ったのが見えたぜ」
次いで男達の、低く、唸るような声が届く。
お願い。
早く通り過ぎて。
こっちに来ないで。
少女は祈るように黒い地面の一点を見つめていた。
「おい、この神社を調べるぞ」
その一言は気を失いそうな程の戦慄を少女に与えた。
死を伴った恐怖が腹に沈み込んでくる。
草履の音が石畳を擦る。
もう駄目だ。見つかってしまう。
少女は矢の如く神社の裏手に駆けた。
こちら側にも出入り口があるはずだ。その先には田圃道が広がっている。闇に紛れて逃げ出せるかもしれない。
が、直ぐに立ちすくんでしまった。
境内の裏手に立ちはだかる黒い影。
闇から染み出す下卑た息遣い。
男達だ。
既に両側から挟み撃ちにされいる。
少女の視界が暗く滲む。
恐怖が鋭く肺を刺す。
逃げなければ。
この人たちから逃げなければ。
思えば思うほど、焦れば焦るほど足が動かない。
見上げるほどの大男達に囲まれ、まるで底無しの井戸に転落してしまったかのように錯覚する。
逃げ場はもう、無い。
「手間かけさせやがって」
一人が少女の腕を掴んだ。
太く、大きな手が万力のように締め上げてくる。
「痛い。離して」
少女はか細い声で抵抗する。
男の手を振り解こうともがくが、びくともしない。
「暴れるんじゃねえ。てめえ、腕の一本や二本、へし折っても良いんだぞ」
「おい、傷物にしちまったら斑様に殺されるぜ」
「構わねえさ。最初から怪我してた事にすりゃ良い」
「そうだな、じゃあ折っちまうか」
少女の腕を掴む手に力が籠る。
鋭利な痛みに少女は顔を歪める。
「痛い、やめて」
「何をしている」
突然、境内の入り口から声がした。明らかに男達のものとは違う若い声。
神社に居た全員が、弾かれたようにそちらを向いた。
鳥居の下に誰かいる。暗くて明瞭に見えないが、その腰に太刀を認めた男達は一気に身構えた。
「何をしていると聞いている」
若い声はもう一度問いかけた。先ほどより固く、低い声だ。男達に痛めつけられている少女が目に入ったらしい。
「子供が出歩いていたから家に返してやろうと思っただけだ」
頬に大きな切り傷のある浪人が応えた。男の目は針のように鋭く、侍を見つめている。
「信じると思うか?」
侍は構わず境内に踏み入った。
一気に空気が張り詰める。
男達の間に殺気が満ち、膨張していく。
コツ、コツ、と革靴が石畳を叩く音だけが響く。
男達が刀の柄に手を、かける。
足音が、止まる。
殺気がじわり、じわりにじり寄る。
その時、雲の切れ間に月が覗き、黒い境内を白く照らした。
パッと視界が開かれる。
桜の花びらが、境内に舞っている。
桜の雨の、その最中、鳥居を背に侍が佇んでいる。
長い髪、通った鼻筋、引き結ばれた唇。
大きな瞳が鋭く男達を睨み付ける。
男達にも少女にも、その侍、愛親は女と映った。
男達の表情が緩んだその一瞬。
愛親から火柱の如き殺気が噴き出した。境内を丸飲みにするかのような巨大な気迫。おおよそ華奢な女が出せるようなものとは思えない。
男達は慌てて抜刀した。
「こ、殺されてえのか!」
「女の癖に侍の真似事なんぞしやがって!」
「てめえ、女でも容赦しねえぞ」
男達は刀を振り上げ、口ぐちに愛親を威嚇する。
愛親が鍔に左の親指を掛ける。
右手は柄を握る。
体勢が沈む。
「失せろ」
愛親の言葉が迸る。
痺れを切らした男達が一斉に迫って来た。
先頭の、太刀が振り下ろされる、その寸前。
電光が疾った。
銀の閃きが闇を渡り、男の胴に叩きつけられる。峰打ちだが、あまりに鋭い打ち込みは男を悶絶させた。
愛親は右足を軸に素早く身体を入れ替えた。その目は更なる獲物を定めて光っている。
その異様な速さと眼力は、残った浪人達に凄まじい恐怖を与えた。彼らは愛親が何をして仲間が倒されたのかさえ分からなかったのだ。
全員腰が引け、明らかに怯んでいる。
しかし愛親の太刀は容赦なく、獰猛に唸りながら男達の体を正確に捉えていく。その度に一人、また一人と男の身体が地面を叩く。
最後の一人まで倒し切ると愛親は連中を睨み付け、太刀の鋒を差し向けた。
「もう一度言う。失せろ。それからーー」
男達は這う這うの体で次々と逃げ出して行った。その一人の手の甲に蜘蛛の刺青が彫られているのを認めたが、この時の愛親は意に介さなかった。
「それからーー俺は男だ」
最後の一人まで逃げ出したのを確認し、愛親は刀を収めた。淡い花びらが一片、愛親の肩に舞い落ちてきた。
※※※
「さて」
愛親は少女の方を向いた。再び賽銭箱の後ろで様子を伺っていた少女はびくりと体を震わせる。頭にピンと立ったのはやはり三角形の狐耳であった。
しかし愛親はその事に動じたり、物珍しがってジロジロ眺めるような事はしない。
「怖がるな。俺は狐を取って食おうなどとは思っていない」
愛親は努めて優しく言葉を投げた。
だが少女の動揺は激しい。後退りをして今にも逃げ出そうとしている。かなり人を警戒しているようだ。
この小狐が一人で家に帰れるのなら、ここで逃げて貰って一向に構わない。
ただ、この夜の道を子供が一人で正しく帰れるかは分からないし、何より先ほどの男達が追って来ないとも限らない。
それなら今晩は自分の家に泊め、翌日家に返してやろうと愛親は考えていた。
「早まるな。事情は知らんが、俺ならお前を守ってやれる。先ほどのようにな」
少女の後退りが止まった。恐る恐る愛親の表情を伺っている。
「よしよし、良い狐だ」
愛親は屈んで少女に目線を合わせた。本殿の影になっていてよく見えないが、やはり顔付きが幼いのは分かる。
「俺の方に来い」
少女はモジモジしていたが、少しづつ、歩み寄って来た。本殿の影を抜け、月に照らされた彼女の髪は艶やかに光り、潤んだ瞳が見つめてくる。
愛親は少女に恐怖を与えまいと柄にもなく笑顔を保っていた。
不意に愛親の笑顔が引き攣った。
少女が近寄るにつれ、愛親の表情が完全に抜け落ちていく。
いや、無表情を通り過ぎて恐怖とも驚愕とも付ぬ表情になっている。愛親の異変を察して少女も歩みを止めてしまった。
「そんな、お前が、どうして」
愛親はうわごとのように呟いた。顔は青ざめ、呼吸は乱れ、心臓が早鐘を打っている。
愛親は無意識のうちに立ち上がっていた。
「お前はあの時死んだ筈だろう」
狐の少女は、五年前死んだ愛親の妹と同じ顔をしていた。