九の二
「ひっ」
あまりの恐怖で二人は悲鳴も出せなかった。最早逃げられない。扉を開けてしまえば札の効力は皆無となる。今や二人を守るものは何も無くなってしまった。
「やっと邪魔者が居なくなった」
その猿の顔をした妖怪は、ゆっくり、ゆっくり身体を引き入れ、全体を部屋の中に押し込んだ。屈んだ状態で天井に背中が着きそうな程大きく、全身の毛が不気味な程逆立っている。
そいつは舐め回すように二人を見て、低い声で地鳴りのように笑った。
「迎えに来たよ、桐ちゃん。俺だよ。マシラだよ」
ずいっと妖怪の顔が寄って来た。
手の届く距離に妖怪の口が開いている。二人は足裏で床を蹴ってどうにか後ろに逃れようとするが、襖で止まってしまう。
二人の恐怖は頂点に達していた。顔から血の気が引き、口から喘ぐように息が漏れている。二人の表情を眺めていた妖怪は嬉しそうに肩を揺らした。
「ヒヒッ、美味そうな妖狐が二匹も。こいつは儲けもんだ。あのお方が、気配を消す妖術を授けてくれてから俺ぁついてるぜ」
最早愛親の声ではない。溝川のような、濁った男の声が何重にも重なって響いており、口から覗く舌には無数の何かが蠢いている。
桐の心臓はそれまでの人生で経験した事が無いほど早鐘を打っていた。意識が飛びかけ、視界が黒く明滅し、今にも気を失ってしまいそうだった。
それでも桐は決意を胸に、マシラの前に立ち塞がった。恐怖で揺らいでいた桐の瞳が徐々に力で満ちていく。
「わ、私を殺すんなら殺したら良い。でもこの子は関係有りません! 絶対に手を出さないと約束して下さい!」
妖怪は答えず、薄ら笑いを浮かべ、舌なめずりをした。
「ヒヒッ、良いねその顔。恐怖を必死に堪えるその表情! お前のような女をいたぶって殺すのが一番楽しいんだ」
妖怪は頭を下げ、桐の爪先から上に向かって、具に匂いを嗅ぎ始めた。鼻息が生暖かく、二人の髪を揺らす。このまま死にたいとさえ思う程の恐怖と嫌悪感で桐は硬直していた。
「良い。良い。やっぱり処女の匂いは最高だ。この前の娘もそうだった。最初は気丈に抵抗してたのに、すぐ正気を失っちまった。まずは手の指を一つ一つ潰して、足の骨を下から砕いて、それから俺のをぶち込んでやるのさ。最後まで良い声で泣いてやがって傑作だったぜ!」
桐の顔が恐怖に歪む。これから自分の受ける責苦がいかに苛烈を極めるか想像に難くなかった。
涙が頬を伝い、奥歯は震えてガタガタ鳴り、吐き気が波のように込み上げてくる。それでも、今にも崩れ落ちそうな足を震わせながら、桐は必死に立ち続けた。自分がどんな目に遭っても、麗麗を助けるためには時間を稼がなければならないと決意していたからだ。
「残念ながらここで遊んでる余裕は無え。さあ、俺の巣に行こう」
マシラの手が桐の胴を掴んだ。尋常でない力。まるで万力のような強さで締め付けられ、桐は堪らず悲鳴を上げた。
「ヒヒッ、おっといけねえ。強く握り過ぎちまった」
「桐ちゃん!」
麗麗は立ち上がり、マシラの手を振り解こうと両手で掴み掛かるがびくともしない。それどころか徐々に締め上げを強められ、骨にヒビが入るかと思う程の激痛が桐を襲う。
「あ、うぅ」
桐の呻き声に力が入らなくなっている。このままでは彼女の内臓まで押し潰されてしまう。
「止めて! 離して!」
麗麗の泣き叫ぶ声と、マシラの下卑た笑い声が入り混じり、静寂に沈んでいた夜が狂気で塗り潰されて行く。
(やっぱり我慢出来ねえ。一匹ここで嬲って行こう)
マシラは桐を掴んだ手に急激に力を込めた。
鮮血が吹き上がる。
襖から天井まで赤に染まり、桐の顔はがっくり項垂れて動かなくなった。
「アアアアアア‼︎」
悲鳴の主は桐でも、ましてや麗麗でもない。
「誰だぁ!! 俺の手を切り落としやがったのは!」
マシラは右手を抱え咆哮する。その手首から先が無く、切断されて夥しい血が噴き上がっていた。
「困るなあ困るなあ。その娘を殺されちゃ困るなあ」
マシラの背後から掠れるような声がした。
「死ねえ!」
マシラは後ろ手で薙ぎ払うように振り返った。その手は部屋にあったものを薙ぎ払い、台所の方へまとめて吹き飛ばした。だがそこに人の姿は無い。
「危ないなあ危ないなあ」
次は庭の方から声がする。
闇の中、まるで陽炎のようにはっきりしない輪郭が揺らいでいる。棒のように細い身体を前方にだらりと垂らし、柳のように揺れ、血の滴る短刀を二本握っている。
男の静謐で細い全身が殺気に満ち、それがマシラに向けられている。
「誰だ貴様ぁ!」
マシラが叫ぶと再び男の姿が消えた。次の瞬間、男の姿を探そうと身体を捻ったマシラの巨体が襖をブチ破って庭に転がった。まるで突風を受けて飛ぶ紙のように、簡単に吹き飛んだ。
「誰だとは何だお前ここは誰の家だ」
先程まで庭に立っていた筈の男が今度は居間の中央に立っているではないか。桐も麗麗も状況が飲み込めず目を丸くしていたが
「あ」
と思い出したように口を開けたのは麗麗である。
「やあ久しぶりだねえ麗麗ちゃん。僕だよ僕だよ骨川さんだよ」
骨川は庭の方を向いたまま上体を倒し、首だけをこちらに向けて二人の顔を覗き込む。骨川の頬には血の筋が出来、歪に笑うその表情は、もう一体妖怪が現れたのかと桐に錯覚させる程だった。
「ウフフ、待っててね待っててね。ちょっと骨川さん遊んでる所だからね」
舌舐めずりをして、骨川が一気に上体を上げたかと思うと、再び二人の視界から消えた。
「クソッタレ! どこに居やがる‼︎」
既にマシラの声から余裕は消え去っている。と、いきなりマシラの左腕に血の筋が吹いた。
「グアアッ!」
マシラの呻きと同時に、今度は左頬が深く抉られる。
「ギッ!」
既にマシラは闘志を失いかけていたが、骨川の追撃は熾烈を極める。顔を庇おうと両手を持ち上げ、無防備になったマシラの腹を刃が縦横に走った。
最早マシラの発する声は完全に悲鳴となっていた。痛みと恐怖でまともに思考する事も出来なくなっている。
「恐いか泣きたいか小便ちびりそうか? お前に殺された娘もさぞ痛かっただろうなあ! 怖かっただろうなあ! 何とか言えよ猿野郎!」
間髪入れずマシラの背中に幾筋もの刃傷が走る。手も、足も、身体の隅々からも血が吹き出し、マシラの血で庭に池が出来る程だった。妖怪は、あたかも多数の見えない敵から攻撃されている感覚に陥ってしまっていた。
(何故だ、何故俺はあいつの気配を感じられない! それにどうして身体を修復出来ねえんだ。ま、まさかあいつが使ってるのは……!)
一拍。マシラの眼前に刀身が迫る。それは愛親が藤咲から借り受けた塞魔刀であった。
次の一瞬、マシラの顔面が真横に薙ぎ払われた。大滝の如く多量の血が飛沫き、妖怪の甲高い悲鳴が起こる。
「ヒッ!」
マシラは完全に戦意を喪失した。最早勝ち目は無い。逃げるしか道は無い。妖怪は最後の力を振り絞り、背を向けて逃げようとした。
「ヒヒっ、逃さない逃さない逃がさない!」
しかしマシラが土塀に手を掛けようとした瞬間、骨川に両足の腱を切り落とされ、最早動くことさえ出来なくなってしまった。
「クソっ、クソっ、クソっ!! 俺が、この俺がこんな所でえええ!!」
必死に手を振り回して抵抗していたマシラに突然、空から押し潰すような殺気が迫る。
吸い寄せられるように見上げた妖怪の目に映ったのは黒い影。
漆黒の中の更に黒い身体から、白銀の刃が光を曳き、唸りを上げてマシラに迫った。
次の一瞬、マシラに叩きつけられた刃は身体を両断し、土を抉って血を巻き上げた。
マシラの魂切る声が闇夜に木霊し、その骸は音を立てて地面に崩れ落ちていった。
「麗麗! 桐! 大丈夫か!」
マシラを両断した愛親は血で染まった庭を突っ切り、急いで居間に入った。部屋に入ってすぐ、襖の近くで二人の少女が身を寄せ合っているのを見つけ、愛親は深い安堵の溜息を漏らした。
麗麗も桐も恐怖で顔が青かったが、愛親を見て徐々に頬の赤みが戻りつつあるようだ。
「良かった」
愛親が跪いて二人に近づくと、堰を切ったように桐が泣き出し、両腕で愛親の首筋に抱き付いてきた。次いで麗麗も寄ってきて、声を上げて泣き始める。
一瞬で愛親は身動きが取れなくなってしまったが、こうして生きて二人と抱擁出来る事が心の底から嬉しかった。
「心配させて済まなかった。本当に、本当に無事で良かった」
「常盤君常盤君。僕もう帰って良いですか帰って良いですよね帰ります」
襖の横からぬぅっと顔を覗かせた骨川が恨めしそうに愛親を睨んでいる。その姿はやはり妖怪に近い。
「ああ、ありがとう。お前がずっとこの家に詰めていてくれたお陰で、俺は安心して救援に向かえたし、二人の命も助かった。幾ら感謝してもし切れない」
愛親は柄にも無く頭を下げた。骨川の存在に気付いた二人の少女も慌てて礼を述べ、頭を下げる。
しかし骨川は一度鼻を鳴らしただけで、何も言わずに縁側を降りて行った。
「いりませんいりません感謝なんていりません。じゃあ僕は今から溜まりに溜まった物を岡場所で出して来ますんで後処理頼みましたよさようなら」
骨川は左手に持っていた塞魔刀を投げ捨てると、庭の壁を飛び越え、さっさと姿を眩ましてしまった。
後に残ったのは愛親の胸に顔を埋めた少女達の啜り泣く声、けたたましい音を聞いて駆け付けてきた近所の人達の喧騒、そして大量の血だけだった。
愛親は二人の体を強く抱き締めた。今は二人の体温を感じていたかった。