九の一
時を少し遡って桐の家。つい先ほど愛親が家を出て行った所である。桐は引き続き針仕事に没頭していた。いや、しているように麗麗からは見えた。見えたが護衛の愛親が家を離れ、精神的な支えを失った桐は著しく動揺し、今にも取り乱してしまいそうな程怯えていた。
それでも平静を装っているのは麗麗に恐怖を与えまいと気を張っていたからだ。自分が取り乱せば必ず麗麗にも伝染する。まだ幼い麗麗に怖い思いをさせたくはないと桐は考えていた。
それに、桐は愛親を心底信頼している。確かに自分達を置いて愛親が出て行った時は泣くほど心細かったが、それは何か根拠があっての事で、彼が間違った判断を下す筈がないと信じていた。
桐は愛親に心酔していた。浪人に助けられてよりずっと思慕の情を寄せていた。彼が神社を訪れる度に桐の心は浮ついた。
勿論、愛親が一人の遊女に入れ込んでいるのは知っていたし、彼の気が全く自分に向いていない事も分かっていた。こんな思いははしたないと思い、必死に自分の心を押し殺そうとも努力した。それでも思う事は止められず、溜めれば溜める程気持ちは膨らむばかりだった。
脅迫が始まった時、桐は誰にも相談する事が出来ず、全てを諦め一人で死ぬつもりだった。だが愛親が駆けつけてきて「俺を信じろ」と言った時、死への恐怖と、それまで押し殺し、溜めてきた恋慕とが一挙に爆発して愛親に抱きついたのだった。
救われたと思った。やはり愛親は自分にとって特別な存在であると再確認した。
この数日間、妖怪への恐れや不安で押し潰されそうだったが、同時に満たされてもいた。愛親と同じ家で生活出来るなんて桐には夢のようだった。
桐が今作っているのは巾着袋である。少し前に愛親が
「巾着が古くなったので新しい物を買いたい。だがお民が怒るから良い物を買えない」
と愚痴をこぼしていたからだ。
愛親は身に付ける物に非常に煩い。安物は持たないし、飽きっぽく、気に入らぬとすぐ売るか人にあげてしまう。そんな愛親の満足ゆく物を自分が作れるかは分からないが、家にあった赤地と、黒地に牡丹をあしらった正絹を組み合わせ、丁寧に縫合を進めてきた。
毎日自分を守ってくれる愛親への、せめてものお返しになればと彼女は思っていた。
(もし無事に妖怪が退治され、私がこれを渡す事が出来たなら、先生はどんな顔をするのかな。ちゃんと受け取ってくれるかな)
そんな事を考えながら作業をすると少しだけ気分が和らぎ、落ち着くのだった。
ガタン、と庭から音がした。
桐と麗麗の耳が同時にピンと立つ。
二人の体内に、恐怖が俄に沸き立った。
麗麗は桐にしがみつき、桐も同じように麗麗を抱き締め、襖の奥の気配を探ろうとする。
しかし怪しい気配はせず、木の掠れる音すら聞こえない。
有明行燈の光がゆらゆら揺れて、二人の影を不気味に浮かび上がらせているだけだ。
鼓動は早く、息が切れる。背中に冷たい汗が幾筋も流れていく。
どうか、どうか愛親が帰って来た音か、そうでなければ庭に置いた物が倒れただけであって欲しい。
桐は麗麗を抱きしめる腕の力を強めた。
「だ、誰ですか?」
桐は乾いて掠れた声で問った。
無音。
何の反応も無い。
そのまま、ひたすらに静寂が過ぎる。時間が止まってしまったのか思うほど、襖の先の闇は微動だにしない。
やはりただの物音だったのだろうか。
その時、微かに地面を擦る音が響いた。
再び桐達の緊張が臨界に近づく。
「桐、桐、居るか」
二人は目を見合わせた。その声が愛親のものだったからだ。
「先生? 先生ですか?」
桐は襖へ駆け寄り、耳を近づけ外の音を探ろうとする。
ゆっくりと、足を引きずる音が近づいて来ている。
「俺だ、桐。妖怪にやられて、酷い怪我を負ってしまった」
「そ、そんな! 大丈夫なんですか?」
襖の外に愛親が居る。その思いが桐の注意力を奪っていた。
「駄目だ。俺以外は全員妖怪にやられて……俺も右腕を切り落とされてしまった」
必死に痛みを堪えるような呻き声。桐は居ても立っても居られず、今にも襖を開けて飛び出して行きたかった。
愛親の声をした何かは縁側を上り、襖の前まで迫った。確かに人の気配がする。邪気は感じない。
「開けてくれ、頼む桐。自分で開けることが出来ないんだ。ああ、血が、血が。早く止血してくれ。死んでしまう」
縁側に雫の滴る音が弾け、ややあって、襖の隙間から血が滲み出してきた。
明らかに愛親の命は危急に瀕している。彼を助けるためには、もう開けるしかないと桐は信じて疑わなかった。
「今お開けします!」
冷静に考えれば愛親が助けを求めるために、わざわざ桐の家まで戻って来た事のおかしさにも、何より彼が腕を落とされたところで抵抗を止めるような性質ではない事にも気付けただろう。
しかし桐は緊張の頂点に達しており、また愛親を思うあまり、殆ど冷静な判断力を失っていた。
桐の手が、襖の取っ手を掴み、闇が覗いたその時
「駄目‼︎」
部屋の奥から猛然と麗麗が突っ込んで来て、桐の腕を掴んだ。
そして右に体重を掛け、倒れ込むように桐を襖から引き剥がす。
その瞬間、襖の隙間から丸太のように太い何かが槍のように突き入れられた。
麗麗が桐を遠ざけなければ確実にぶち当たっていただろう。
二人は体勢を整え、改めて何が起こったのかを目視して戦慄した。凍りつくような怖気が身体を這いずり回る。
外から入ってきたそれは、獣の毛で覆われた巨大な右腕だったのだ。その指は異常に長く、猿の手に似ている。
「桐、俺ダ。出て来イよ」
それは確かに愛親の声だが、明らかに異物だった。時折、筒を通したように声が籠り、別の人間の声と混じり、何より感情が感じられない。
ゆっくり、ゆっくりと部屋に入った右腕が左右に動き、様子を探っている。箪笥が倒れ、机がミシミシ音を立てて壊れた。
二人は襖の近くで固まり、着物で口を抑え、必死に息を殺していた。
あまりの恐怖で涙が溢れて止められない。
あれに捕まったら確実に命は無い。
と、部屋中を物色していた腕が這いずりながら外へ戻って行く。
桐も麗麗も、その様子を固唾を呑んで見守っている。
次の瞬間。
ぬぅっと巨大な顔が部屋に喰い込んできた。体毛でびっしり覆われ、皺にまみれた顔の中心に、異様に大きな瞳が二つ、桐と麗麗を捉えた。鋭い牙の覗く口元が吊り上がり、歪な笑みを浮かべる。
「見ぃつけた」