八
新月の夜。縁側に座る愛親はじっと暗闇の先を凝視していた。部屋から漏れる行燈の明かりで庭の松が黒い輪郭を浮かび上がらせている。
妖怪の襲撃から三日経っていた。
あれから直ぐ、妖怪の匂いが付いた家々には妖怪改方が派遣された。そのうち一宅は桐の家から遠くない馬込富士前町にあり、何かあれば互いに式神を飛ばして救援を要請する決まりとなった。
桐の家はそれまで藤咲に加え、蔵本という女の妖怪改方が交代で警護をしていたが、ここに愛親が加わる形となった。妖怪改方でもなければ妖術も使えない愛親が警護として置かれたのは、桐がそれを強く希望したからである。彼女の愛親に寄せる信頼は非常に厚いものがあったらしい。
しかし三人の警護では心許ないのは確かだ。
愛親と藤咲の間でも、また、妖怪改方の方でも警護を増やすべきか議論が行われた。しかしあまり人を増やしすぎるとかえって標的を変えられ、別の娘が犠牲になる恐れから、警護は極力増やさない方針となった。
人数は増えていないが、結界はより強力なものになっている。藤咲と蔵元が桐を隠す居間に張り巡らせた結界の札は、三日前に即席で張ったものとは違い、余程の事がない限り破られはしないという。また人間は触れても無害であり、桐も妖怪改方も自由に出入りをする事が出来た。
とは言え桐が外に出るのは厠に行く時だけで、その時も必ず警護の者が付き添う決まりとなっていた。飯は朝と晩、蕎麦屋の娘が出前に来てくれる。
桐の警護をするに当たり、愛親は麗麗をどう守るべきかも迷っていた。平時であれば自宅にいる下女のお民に世話を任せておけば良いのだが、そうなると対峙している妖怪の性格上、無防備になった麗麗を襲わないとも限らない。
考えた挙句、麗麗も桐の家で同じく警護する事とした。結界の中にいれば妖怪も手出し出来ないし守りも容易となる。万が一、自分が妖怪に勝てなかったとしても、救援が来るまでの時間が稼ぐ自信はある。
準備は万端かと思われた。
愛親は襖を開け、居間の中を覗き込んだ。
中では桐が針仕事をしており、それを隣に座る麗麗が眺めている。桐の目の下には隈が濃く、彼女の心労を伺わせた。しかし対照的に表情は穏やかで、愛親の知る優しい桐のものであった。どうやら麗麗が側に居ると精神が安定するらしい。
「桐、麗麗、そろそろ寝たらどうだ」
愛親が声を掛けると桐はゆっくり首を振った。
「いえ、もう少し進めておきたくて」
「そうか。程々にな」
他愛無い会話をして愛親が正面に向き直った時だ。庭の松が黒く、ざわめいた。
愛親は襖を強く閉じ、脇に置いた塞魔刀に手を掛ける。
「決して開けるな」
愛親は虚空の闇に目を凝らす。
何かが、松の脇をすり抜け、こちらに向かってくる。暗闇の中、微かに見えるそれは蝶のように不規則に高度を変え、どこかぎこちない飛び方をしていた。ただならぬ気配はあるが、しかし敵意は感じられない。
更に近づくと、はっきりと蝶の形をしている事が見て取れた。
愛親は飛び上がり、思い切ってそれを手に掴んだ。掴んで感触が紙であることに気付く。
(式神か)
愛親の手の平に乗っているのは妖怪改方が使う式神だ。
違和感を覚える。
表面に何か液が滴っている。
愛親は襖の近くに寄り、かきむしるように紙を開いた。
「お侍様、どうしたの?」
麗麗の不安げな声が聞こえる。愛親は答えなかった。式神に書かれた内容に衝撃を受け、答えられなかったのだ。
式神にはもつれた字でこう書かれていた。
「馬込富士前町、妖怪。至急救援を」
それは紛れもなく、馬込富士前町の家が妖怪に襲われ、改方が救援を要請してきたものであった。
そして気付く。書所々滲んでいる赤黒い液体は人の血だ。
愛親は歯噛みした。まんまと騙されたのだ。
三日前この家を襲って来たのも、「五日後」と書かれていた書状も、馬込富士前町の娘を襲うための目眩しに過ぎなかった。
もう迷っている時間は無い。既に彼らは危急に瀕している。
このままでは惨殺されてしまう。これ以上犠牲者を増やすわけにはいかない。
「桐、麗麗、少し出てくる」
愛親は襖ごしに話しかけた。沈黙が降る。
しかし程なく、桐の声がした。
「分かりました。私は先生を信じています」
その声は震え、今にも壊れてしまいそうだった。
「必ず戻る。何があっても扉を開けるな」
「はい」
愛親は闇夜に躍り出た。塀を飛び越え、馬込富士前町への道を疾駆する。場所は遠くない。到着が早ければ彼らも助かるやもしれぬ。愛親は祈るような気持ちで闇を切り裂いていく。
居酒屋の明かりも、酒飲みの笑い声も喧騒も一瞬で通り越し、件の家へ辿り着いた。
明かりは付いている。平屋建ての庭に面した襖から、淡い光が漏れていた。
刀の柄を握り締め、目の焦点を襖の奥に合わせ引き絞る。愛親は乱れた息を、飲み込む一瞬、塞魔刀を抜き打った。
愛親の身体から烈々たる闘志が迸り、妖怪への殺意となって身体を駆け巡っている。
その爪先が地面を蹴った次の瞬間、愛親は襖を切り割り、突風のように押し入った。
その目に映ったのは、二人の人間であった。
一人は妖怪改方の制服に身を包んだ中年の男で、もう一人は若い女だ。恐らくは警護対象の娘だろう。
二人とも、それこそ妖怪でも見たかのように恐怖で目を見開き、愛親を凝視している。愛親は肩で呼吸しながら部屋を見まわした。妖怪は、居ない。違和感を覚える。
「何者だ!」
男の方が刀に手を掛け立ち上がった。愛親は男が何故いきり立っているのか、そして何故無傷なのかも分からなかった。桐の家に来た式神はこの男が飛ばした筈ではないか。確かに「馬込富士前町」とあの式神には書いてあった。
「待て、押し込みに来たわけではない。俺は海領町で妖怪から娘の警護している常盤愛親という者だ」
男は訝しげに愛親を眺めていたが、刀を握り締めていた手を離した。
「ああ。藤咲から話は聞いているが……何の用だ。あちらの護衛は良いのか」
「何の用だとは何だ!」
流石に愛親は苛立ちを隠せなかった。最早この男が愛親をからかっているとしか思えなかった。
「先ほど海領町の家に式神が飛んで来た。この家からだ! 妖怪に襲われているから助けてほしいと書いて寄越したのはお前ではないのか!」
愛親は一気に男の方へ詰め寄っていく。愛親の勢いに押され、男は目を白黒させた。その表情は困惑に満ち、おおよそ愛親を騙そうとしているようには見えない。
「式神? 何の事だ。そもそも俺は式神が使えんぞ」
言いながら男は愛親を掌で押し戻す。
その時、愛親は全てを理解した。
あの式神を寄越したのは改方ではない。他にあんな芸当が出来るのは……。
妖怪だ。
奴は妖怪改方の連絡手段が式神だと知っていた。それを利用して愛親を桐の家から引き離した。
何故?
無防備になった桐と麗麗を、襲うためだ。
(くそっ、俺は馬鹿だ! どうして気付けなかった!)
愛親は獣のように走り出した。
押し潰されそうな焦燥を動力に、ひたすらに速く、速く、海領町へ突き抜ける。
(麗麗、桐、どうか無事でいてくれ)
しかし愛親の祈りとは裏腹に、桐の家では既に夥しい鮮血が吹き上がっていたのである。